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第5話
5.かごのなか
翌日、一睡もできなかった俺はそれでもぼんやりとした頭でユリが数兄の家に来るのを見張った。
数兄の行動パターンは頭に入っている。家に女の子を招くときは、たいていお互い昼食を済ませたあと14時ごろから会うのだ。休日でも多忙な数兄の両親が帰ってくるのはたぶん18時以降だから、二人きりでかなりゆっくりできるはずだ。
俺はまだ早いだろうな、と思いつつも11時くらいから窓の外の様子を伺っていた。
数兄、今日もちゃんと準備しているのだろうか。
いつも俺にしてくれるみたいに飲み物だとか軽い食べ物をテーブルに用意して、彼女が気に入りそうな映画をサブスクで探しておいて。
コンドームとかもきっと抜かりなく用意しているはずだ。
そして、昨日俺とのことで湿気ったベッドのシーツをこっそり洗って新しいものに変えたりしてるんだろう。いい香りのするスプレーを撒いたりして。
つまらないな、と思う。
数兄を気持ちよくしていかせたとしても、そんなの単なる身体の反応に過ぎない。数兄が俺を恋愛という意味で好きになることなんて絶対にない。そう思うと胸から何かが出血でもしてるのかというくらい、じくじくする。
通りを見張るのにも疲れてきたころ、案の定、昼下がりにユリが曲がり角を曲がって歩いて来るのを視界の端に捉えた。
来た。だんだんと近づいてくるユリは、キャメル色のダッフルコートを羽織って、光沢のある素材のピンクベージュみたいな色のロングスカートにロングブーツを履いていた。
髪の毛は相変わらず黒くてサラサラで、前より少し伸びて肩のところではねている。普段はひとつに纏めていることも多いけど髪を下ろしている今日は、より女の子らしく儚げな雰囲気だ。白い頬は空気の冷たさにピンク色に染まっている。
あーあ、敵わないよなあ。あんなのが好きだったら無理だよなあ。分かってんだけどなあ。
窓からユリがインターフォンを押すのが見える。俺はカーテンを閉めて、ベッドの中に布団を被って潜り込んだ。今日は本当は出かけていた方がよかったのかもしれないのに、なんで見届けようと思ったんだろう。
昨日のことを思い出して、数兄は俺がしたみたいにユリに触るのかもしれない。
「数兄…」
俺のものは性懲りもなく昨日上から見下ろした数兄の胸だとか腹筋だとか、あそこの触り心地とかを思い出してじわじわと熱くなって来た。ただ、それを打ち消すようにユリと裸で抱き合ってる数兄を思い浮かべたらゾッとして萎えてきた。
終わりだ、終わり。当たって砕けるつもりだったのに、ビビって本当の気持ちも伝えられなかったんだから、結局。
もういい。諦めろ。今度会って何か言われたら、
「バッカじゃねえの?あんなの、本気にしたのか?」
つって笑うんだ。そしたら、数兄もきっと笑って「なんだよ、ふざけんなよ」って流してくれるだろう。
そして、また元の兄ちゃんと弟に戻ろう。
そうやってぐちぐちと失恋を噛み締めているうちに、俺は布団の中でいつしか熟睡していたみたいだった。
けど、玄関からピンポンピンポン、と音が鳴っているのに気づいて目を覚ました。
今日は父親も母親も親戚の集まりがあるとかで夜まで帰って来ない。どうせ新聞の勧誘とか父親が頼んだ宅配便とかだろうと思って無視していたのに、呼び出し音は鳴り続けている。
「ったく、しつけえなあ…」
チラリと見ると16時を少し過ぎている。中途半端な時間に何だよ、と思いながら俺は仕方なくドアを開けて階段を降りた。
インターフォンを取ってやりとりするのも面倒で「はぁい、なに…」と頭を掻きながらドアを開けると、そこにはここに今の時間、絶対いてはいけないはずの男が立っていた。
「千早、いるんなら早く出ろよ。電話しても出ねえし…」
「は……?」
深緑色の暖かそうなカーディガンを羽織った数兄が、怒ったような顔をして玄関先に立っていた。
「数兄…?」
「ちょっと入れろよ、中」
そう言うと俺の肩を押して数兄は玄関の中に入って来た。
「今日、お前のおばさんとおじさんは?」
「え、今日、二人ともまだ帰って来ねーけど…なんか、よう…」
途中まで言ったところで数兄に勢いよく、どん、と胸を押されて、玄関先の壁に押し付けられた。
殴られるのか?と咄嗟に思って、目を閉じた俺の唇に何か柔らかいものが触れる感触がした。目を開けると数兄の顔が目の前にある。なぜか数兄の唇が俺の唇に重なっているみたいだ。
「は…?」と言おうとしたが口を塞がれていて言葉にならない。完全に戸惑ってる間に、数兄の舌が口に入って来た。
「????」
俺は驚き過ぎて何の反応もできていなかった。俺の肩を掴んで壁に押し付けている手のひらが熱い。数兄の分厚い舌はめちゃくちゃに俺の口の中を動き回り、息継ぎさえできなくて、俺は喉を詰まらせた。
「ん、はぁっ、かずに…」
「黙ってろよ」
数兄は一瞬口を離すと、いつになく低い声で言った。俺は背中がゾクゾクして来て、震えている間にまた数兄は深いキスをして来た。
数兄の歯が舌に当たったのか、唾液とはまた違う液体の感覚と味がした。どこかから血が漏れているみたいだ。それでも、構わずに数兄は俺の頭を押さえつけて舌を絡ませてくる。
たぶん下手なのに、それが逆に俺の気持ちを昂らせて、いつのまにか俺も夢中で数兄の背中に手を回して舌を吸っていた。
どれくらい時間が経ったか分からないけど、舌がじんじんと痺れるくらい絡ませたあと、やっと唇は離れた。目の前10cmで見る数兄の唇の周りはベタベタに濡れている。
「数兄…なんで…ユリは…」
「ユリは、帰った」
「…は……?」
「…なんか、ダメでさ。ユリとキスしようとしたのに、寸前のところで動けなくなった。…なんでか、分かるか?」
俺はぶんぶんと首を振った。
「…お前の、顔がチラついて…できなかったんだよ」
「は?…バカじゃないの?」
「なんだよ…お前がいけないんだろ」
「なんでだよ…ああいう風に、ユリにすればよかったんだよ」
「できるわけ、ねえだろ…」数兄は絞り出すような声で言った。「お前、だって、すごい目で俺のこと、見てただろ?」
「…見てねえ」
「見てた。最初は、こいつ、頭がおかしくなったのかと思ったけど…。なあ、お前…俺のこと、好きか?」
「…だから、なんでだよっ!」
俺はカッとして言った。
「そういう目で見てただろっつってんの!俺のこと」
「だったら、なんだよっ…」
「だから、確かめに来たんだ、俺。もう一回したら、どんな気持ちになるかなって」
「は…?それで、ユリのこと、帰したのか?」
そう聞くと、数兄は視線を逸らせて下を向いた。
「俺がぼんやりしてたから聞かれたんだ。『どうしたの?なんか今日ヘンだよ。悩み事でもできたの?』って。『なんでもない』って言って、キスしようとした…んだけど、途中でやめちゃった。で、『ごめん、なんか、今日調子悪くて』って言って帰した」
「ばっか、数兄…!可哀想だろうが、ユリが」
「だからお前がいけないんだろっ!!…お前が、あんなこと、するから、俺……昨日、ずっと思い出して、寝れなくて…。ユリに『今日やめとこうか』ってメッセージ送ろうとしてはやめて…ユリに会ったら、やっぱりユリが好きだって思うはずだ、って…」
「思わなかったのか……?」
「分からない。分からなかった。だから、昨日のお前の顔がチラついて、分かんなくなったんだって…!」
「数兄…バカなのか?俺があんなことしたからすぐ影響受けちゃったのか?あんなん、体だけならいくらでも反応すんだろ…」
「しねえよ、バーカ。男同士だぞ?」
「男と男だって、触られれば、勃つんだよ…」
「勃たねえよ、好きでもねえ奴にされたら」
「は?」俺は今度こそ目を剥いた。「好きっつった?」
「いや、まあ、隣で一緒に今まで育って来たんだから、好きだろ」
「なんだ、そういう意味?」
「わかんね。もう、分かんない」
数兄は大きな身体を丸め、俺を挟んで壁に手を突いて項垂れた。
「…数兄って、やっぱりバカだったんだな」
「バカっつうなよ」
「俺…」
「うん?」
「数兄のこと、好きなんだけど」
「うん…」
「数兄とは、違う意味でなんだけど。恋愛っぽい『好き』なんだけど。意味、分かるか?」
「分かるよ」
「本当かよ…?」
「お前、俺のこと、ずっと好きだったのか?」
顔を上げた数兄の真っ直ぐな瞳が俺の眼を捉えた。
「…うん。言わないでおこうと思ってたんだけど。バレたら、しょうがないね」
俺は俯いた。笑ったつもりだったけど、歪んだだけで笑顔にならなかった。
「千早、だけどお前…女の子と付き合ってたし、女の子と…したろ?」
「してない」
「え?」
「本当は、キスしかしてない」
「はぁあ?」
「ごめんね」
「ごめんねじゃねえよ…。お前が早く済ませたから、俺だって頑張ろうと思ってたのに…」
「数兄がヘタでよかったよ」
「ヘタじゃねーし」
「雰囲気作りが下手だから今までできなかったんだろ。…だから、俺にちょっかい出されてまんまとその気になったんだよな?」
「おい、言い方に気をつけろ…」
「なあ、数兄」
「ん、なんだよ?」
「せっかくなら、もうちょっと、やってみるか?」
見上げて言うと、数兄は目を泳がせた。
「…やってみるって、何を?」
「とぼけんなよ。昨日、やったみたいなこと…と、あとその先まで」
俺はぐい、と数兄の顎を掴んでこっちを向かせた。
「いや、それは…」
「やってみたら、いい感じになるかもよ?」
「いや、でも、んっ…」
何か言いかける数兄の唇を今度は俺からまた塞いだ。
バカで単純な数兄。自分からノコノコと籠の中に入ってきたようなもんだ。
このまま、流しに流されて、いつのまにか俺のものになればいい。
もう、逃さないからな。
俺の、お兄ちゃん。
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