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03
一度俺はハルベルとともに貴族用の寮舎まで帰ってきた。
日は既に傾きかけ、窓から差し込む夕陽によって寮舎内は赤く染まっていた。
ここまで来たら流石に襲われる未来は変えられたということなのだろうか。
まだ油断はできない。それに、どうしても自室に向かう途中のこの廊下を渡ることを恐れている。
「リシェス様、」
「大丈夫だ」
「まだ何も言ってないですけど、僕」
そんな俺のことを感じ取ったのだろう、話しかけてくるハルベルに「無問題だ」と答えれば、ハルベルは呆れたように頬を膨らませる。
「もう、リシェス様……」
「それに、お前がいるから」
その言葉はお世辞ではなく、本心からだ。
ぱっと顔を上げたハルベルは、そのまま口元を緩めてふにゃりと微笑んだ。
「リシェス様、どうしたんですか? 珍しいですね、そんな風に言ってくださるなんて」
「……そうか?」
「ええ、そうですよ。……最近優しいというか、以前は凛々しかったですがここ最近は可愛くなりましたよね」
微笑み、視線を合わせるようにこちらを見つめてくるハルベル。その口からさらりと吐き出された言葉に思わず噴き出しそうになった。
「……っか、可愛いって……お前な、俺はお前の主人だぞ」
「ええ、もちろん。分かってますよ」
「……全く」
辺りに人がいないからいいものの、うちの親が聞いてたら目を吊り上げてキレ散らかしていたぞ。
幼い頃はどちらかといえばハルベルとは主と従者というよりも対等な友人のような感覚だったことを思い出した。いつからだろうか、ハルベルが遠くなった気がしたのは。
いつも他の使用人たちと話すときの砕けたハルベルを遠目に見ては懐かしく感じていたが、こんな風にハルベルの方から砕けてくれるのは“俺”としては嬉しかった。
……“リシェス”としては咎めるべきなのだろうが。
そんな他愛のない会話をしてる間にあっという間に部屋に辿り着いていた。
あれほど緊張していた体も、自室の扉を開けば落ち着いてくる。
「それでは僕はこれで……」
失礼します、と頭を下げ、帰ろうとするハルベルの腕を掴む。
「ハルベル……待ってくれ」
「リシェス様?」
「……あがって、行かないか」
今は一人になることが未だに怖かった。
そう、ハルベルの制服の袖をくいっと引っ張れば、ハルベルは「リシェス様がそう仰るのなら」と微笑むのだ。
――寮舎・自室。
「そういえば、アンフェール様とは会えたのですか?」
「ああ」
「……そうでしたか」
そう、ハルベルは少しだけ考え込むようにそろりと視線を外す。
脱いだ上着をハルベルに預け、そのままソファーに腰をかける。
「なにかあったのか聞きたそうな顔だな」
「ええ、それはもちろん! ……といいたいところですが、もしかしてアンフェール様、リシェス様にも当たられるなんてことは……」
「いや、あれは当たるというか……」
俺にも否はあるしな、と言い終わるよりも先に、ハルベルの血相が変わる。そして。
「何かされたのですか?」
俺の上着を抱えたハルベルに一気詰められ、ぎょっとした。近い。やつの睫毛がぶつかってしまいそうな距離だ。
「なにも、されてない……少なくともお前が心配するようなことは」
「……それは」
「……首輪を、着け忘れてたんだ」
そう口にしたとき、そのままハルベルの視線は俺の顔から首元へとゆっくりと降ろされた。
普段はインナーで隠して首輪の存在を誤魔化していたが、今度はそれも忘れていた。
する、と伸びたハルベルの指に首筋、襟首の下を撫でられ「おいっ」と思わず声が上擦った。
「……すみません、ですがたしかにこれは……アンフェール様も心配されますよ」
「分かっているけど、心配しすぎだ。制御剤も飲んでる」
「けど、アンフェール様は怒るでしょう」
「……怒られた」
ああ、とハルベルは憐れむような顔をする。
なんでお前が俺よりもそんなショック受けるのか分からないが、「それはそうですよ」とシャツの襟首を正される。
「この学園にはαが何人もいるんです。……番がいるとは言えど、項を噛まれるまでは襲われる可能性だってあるのですから」
「わかった、わかった」
「本当に分かってますか? ただでさえリシェス様は人気があるんですよ、他の者たちからも」
「人気……そうなのか?」
「ええ、そうです。『踏まれたい』だとか『罵られながら鞭で叩かれたい』だとか吐かす者もいます。――ご安心を、その者たちには代わりに僕が叩いておきましたので」
「……そ、そうか」
なにがご安心をなのか分からないが、普段影から俺のことを守ってくれているハルベルのことは知っている。
確かに俺もリシェスの顔面とキャラならば分からないでもないが、自分に向けられているとなると妙に不快な気持ちはある。
「アンフェール様だけではございません、僕もリシェス様のことは心配なんですよ。……せめて首輪はしてください。難しいようでしたらすぐにでも新調をしましょう」
「……っ、お前も頑固だな」
「部屋の中で、僕といるときならいざ知らず。他の人間もいる学園内で首輪も着けないのは無防備すぎるからですよ」
「いいですね」とハルベルに念を押され、「わかった」とだけ答えておく。
ハルベルの第二の性はβだ。成績も悪くはないし、顔だっていい。おまけにふわふわしている癖に剣より拳の方が強いという肉体派の男である。
改めて、こんな優秀な男を俺だけが独占していいのかという謎の感覚もあった。別に俺はハルベルに別段優しいわけではないのに、こうして心配して過保護ながらも愛情を向けられると今更ながらくすぐったい気持ちになる。
「そういえば、リシェス様に渡したいものがあったんです」
「渡したいもの?」
「はい。……すみません、持ってくるのを忘れてきてしまいました」
恐らくあの香油のことだろう。
ハルベルの言葉を聞いて咄嗟にそう思ったが、いつどこで世界線が変わるかもわからない現状だ。それに、ハルベルのやつがそんなうっかりをすることも珍しい。
「そうか。……足が早いものなのか」
「いえ、食物の類ではありません。けれど、せっかくなら今夜にでも使っていただいた方がリシェス様もぐっすりと休まれるのではないかと思ったのですが」
「別にそんなに気を遣わなくてもいいと言っただろ」
「ですが……」
「それに、今夜は大丈夫だ」
「え?」と、こちらを見下ろすハルベルの目が丸くなる。
「ハルベル――お前がいるからな」
いくらターニングポイントでもある夕暮れ時を生き延びたとしても、まだ油断することはできない。「今夜は居てくれるんだろう」という期待を込めてハルベルを見詰め返せば、ようやく俺の言葉を理解したようだ。
あんぐりと開かれたその口は数回開閉したのち、じわじわとハルベルの顔に熱が集まっていく。
「ちょ……っ、ちょっと待ってください、それってつまり……」
「なんだ、なにか都合でも悪かったか?」
「いえ、そういうわけではないです! ……ないのですが、その、アンフェール様が怒るのではないのですか?」
「主と従者が一緒の部屋に居て怒るやつなんて……」
いるのか、と言いかけたところでつい先程のアンフェールとのやり取りを思い出した。
――まさか、そこまでアンフェールが嫉妬深い、ましてや嫉妬するような男とは俺も思わなかった。
けど、純粋にせめて今夜一晩だけでもいいから凌ぎたい。一人でいてまた襲われてはと思うと背筋が冷たくなっていく。
「……嫌なら、いい」
「リシェス様、アンフェール様の部屋に行くのは……」
「きっとあいつは嫌がる」
「それじゃあ……」
「…………他の者を探す」
今の俺にとってハルベル以上に信用に値する人間はほぼ無に等しい。
最悪教員、或いは複数人いれば妙なことは起こらないのではないか。と考えたとき、「駄目ですっ!」とハルベルは声をあげた。その大きな声に鼓膜が痺れる。
「うお、なんだ突然……」
「分かりました。……ならば、今夜は僕が共にします」
「ハルベル……」
「僕の主はリシェス様です。……貴方がそう望むなら、僕はそれに従いましょう」
落ちてくる柔らかい声に、流石ハルベル、と顔をあげたとき。「ですが」と、伸びてきた手が肩に置かれる。
「……念の為、万が一、もしものために首輪だけは着けておいてください」
あまりにもハルベルが必死の形相で言うものだから、俺は「わかった」と答えることしかできなかった。
そしてその日、約束通りハルベルが付き添ってくれることになる。とは言えどベッドが足りないので、ハルベルは俺が眠ってる間はリビングルームのソファーを借りると言った。
側に気の知れる人間がいてくれるという安心感からか、その晩はぐっすりと眠りにつくことができた。
――そして翌朝、カーテンから差し込む朝日とともに「おはようございます」と笑顔で挨拶してくるハルベルに一瞬ぎょっとしたが、すぐに昨晩のやり取りを思い出す。
どうやら俺は無事死なずに朝日を見ることができたようだ。
「ああ」とだけ、俺は首輪を撫でながら返した。
無事朝を迎えることはできたが、ここからは未知数だ。気を引き締めなければ。
「……そう言えば、俺に渡したいものがあると言ってたな」
「ええ、そうなんです。……あの、学校に向かう前に僕の部屋に一度寄ってもらっても大丈夫ですか?」
おずおずと尋ねてくるハルベルに「ああ、構わない」とだけ答えれば、ハルベルは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、リシェス様」と花のように綻ぶハルベルの顔を眺めながら、俺はやつが用意してくれたティーカップに口をつけた。
それからはいつもと変わらない。ハルベルに着替えを手伝ってもらい、髪をセットしてもらう。
そのあとハルベルとともに部屋を出て、ハルベルの自室へと向かった。
そして、
「リシェス様、これです」
自室から顔を出したハルベルはそのまま俺の元まで駆け寄ってくる。そして見覚えのある小箱を差し出してきた。
――見覚えのある梱包、そしてふわりと箱から漂ってくるのは嗅ぎ覚えのある優しい匂いだ。
「――香油か?」
「よく分かりましたね」
「いい匂いがしたからな」
「ふふ、ご明察ですね。その通りです。ここ最近お疲れのようでしたので……ですが、昨晩はぐっすり休まれたみたいで安心しました」
「ああ。……けど、ありがとう。今晩にでも使ってみよう」
「リシェス様……」
「それじゃあ、そろそろ向かうか」
なんだから照れくさくなり、ハルベルからのプレゼントを制服のポケットに仕舞った俺はハルベルに声を掛けた。ハルベルは「はい」とそのままぴたりとついてきた。
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