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05
着替え終えたあと、俺とハルベルは再び校舎へと戻ってきて授業を受けることになる。
そして緩やかに時間は過ぎていく。
――放課後。
謎の転校生のアンリの噂で持ちきりだった学園内も、日が落ちることには大分落ち着いていた。
俺はハルベルに「今日は先に戻ってていい」と声をかけ、それから生徒会執務室へと向かうことにする。
本当は一分一秒でも一人になるのは恐ろしかったが、アンフェールに会いに行くのにハルベルを連れていたらまたアンフェールに何か言われるかもしれない。そんな気がした。だからハルベルには先に帰らせた。
そしてやってきた生徒会執務室前。
「アンフェール、俺だ」と扉を叩けば、返事は帰ってこなかった。誰かしら役員がいたら出てくるはずなのに、それも反応がない。
まさかいないのだろうか。
そう恐る恐るドアノブを掴めば、扉はあっさりと開いた。
生徒会執務室、会長席。
そこに一人腰をかけ、なにやら書類仕事をしていたらしいアンフェールは俺の姿をちらりともしようとしなかった。
丁度役員たちも出払っているようだ、執務室にはアンフェールしかいない。
「アンフェール」
聞こえていないはずはない。
いつもならば『またきたのか』という顔をしながらも、いつでも俺を迎えてくれた。
なのに、これは間違いなく無視されている。怒っているのか、この間のことが尾を引いているのか――普段周りよりも大人びている印象を抱いていたが、案外こういう年相応な態度も取るのだと思った。
今度は無視されないように、アンフェールの座る会長席の前に立つ。それから、「アンフェール」ともう一度名前を読んだとき。
アンフェールはようやく手にしていた書類から視線を持ち上げ、こちらを見た。
そして、
「お前、アンリに懐かれてるらしいな」
開口一番これだ。
それはお前もじゃないのか、と喉元まで出かけたがやめた。その代わり、「らしいな」と当たり障りのない返事をする。
「もしかして……怒ってるのか?」
「怒ってない。呆れてるだけだ」
「呆れ……って、別に、ただ一緒に食堂に行っただけだ」
「今までのお前だったら行かなかっただろ」
「……っ、それは」
アンフェールの言葉に思わず詰まってしまう。
確かにそうだ。正規ルートの俺は絶対にいかなかった。だけど、そうするとお前に嫌われるから。婚約破棄されたあと死ぬ未来を見てきたから。
なんて、そんなことをアンフェールに言えるわけがなかった。
狼狽えていると、椅子から立ち上がったアンフェールがこちらへとやってきた。
「アンフェール……っ」
無表情のあいつが怖くて、つい無意識の内に身構えてしまっていた。そんな自分にもショックを受けながらも、咄嗟に後退ろうとしたところをアンフェールに手首を掴まれる。
「い、……」
「……前までは俺にべったりだったくせに、どういう気の変わりようだ」
アンフェールがこちらに向ける目は猜疑の目そのものだった。
考えたくはなかったが、間違いなくアンフェールは俺のことを疑っている。
ちゃんとアンフェールのイベントも回収していたはずだ、好感度は寧ろ上がっているはずだ。
なのに何故、と考えかけ、そこでハッとした。もしかしてだからか。
「っ、ぁ、アンフェール……っ」
「挙げ句の果てに、堂々と首輪なしで男と合うんだもんな」
「それは……っ、ぁ……っ!」
言いかけた矢先、伸びてきた手が首に触れた瞬間全身が緊張する。
いつの日かの首を締められたときの圧迫感が蘇り、血の気が引いた。咄嗟に片方の手でアンフェールの手を払い退けようとすれば、舌打ちしたアンフェールに更に襟首を掴まれ、乱暴に開かれそうになった。
「っ、や、めろ、アンフェール……っ!」
「なんだ、今日はつけてたのか」
そして、首に巻き付いた首輪を指で擽られ、ぞくぞくと頭の奥が熱くなる。
死ぬ直前の圧迫感、息苦しさが蘇り、その息苦しさに呼吸が浅くなっていく。
今はあの世界線ではない。俺は殺されない。目の前にいるのはアンフェールだ。
そう何度も言い聞かせるが、アンフェールの大きな手のひらでぐっと喉を抑えつけられる想像が過ぎっては胸が苦しくなっていく。
「……っ、あのときは、本当に……たまたまだったんだ……! お、俺は別に、お前以外とどうこうするつもりは……っ」
ない、と言いかけた矢先だった。そのまま襟を掴まれ、アンフェールに唇を塞がれる。
「……っ、ふ、ぅ……っ!」
熱い。苦しい。発情とは違う、これは死の恐怖によって体が反応しているだけだ。
爆発しそうなほど激しく脈打つ心臓が痛くて、苦しくて、ぬるりと唇に這わされる舌に頭が真っ白になる。
この世界でアンフェールにキスされたのは初めてではない。それなのに首を掴まれてるからか思考がぐちゃぐちゃに絡み合ってなにも考えられなくなって――気がつけば俺は咥内に入り込んでいたアンフェールの舌に思いっきり歯を立てた。
口の中いっぱいに広がる血の味に、しまった、と思ったときには遅かった。
引き抜かれる舌。こちらを睨むアンフェールの唇が己の血で赤く染まってるのを見て、熱が引いていく。
「わ、悪い……アンフェール……っ」
噛むつもりなんてなかった。ましてや、本気で抵抗するつもりも。
唇を指で拭い、そこにこびり付いた血を見たアンフェールはそのままゆっくりと俺に目を向ける。その目に滲んでるのは怒りだ。
まずい、と心臓が脈打つ。いくらなんでも暴漢とアンフェールを間違えるなんて、そんな真似。
「服を脱げ」
混乱する俺に向かって、アンフェールが言い放ったのはその一言だった。
一瞬、アンフェールが何を言ったのかわからなかった。
「……っ、な、んて……今……」
「身に着けている物を全て脱げと言った」
聞こえなかったか?とアンフェールは目を細めた。
――聞き間違いではなかった。
何故そうなるんだ。もしかして俺が反抗したと思ったからか。
「こ、こんなところ……他の誰かに見られたらどうする……っ! お前だってまずいだろ……っ!」
「お前は俺の婚約者だろ。誰も不審に思う者はいない」
「そ、そういう問題じゃ……」
「それとも、俺の言うことは聞けないのか」
「…………っ」
明確にアンフェールとの間に心の壁を感じた。
アンフェールは公私混同しない男で、ましてや執務室で不純交遊に及ぶ男でも嫉妬するような男でもない。――俺の行動のせいで、俺がアンフェールを変えてしまったということなのか?
「わ……わかった……」
「……」
「わかったから、機嫌直してくれ……アンフェール」
無性に悲しいのは俺の中のリシェスの部分が反応しているからだろう。
これ以上アンフェールに嫌われたくなかったし、“リシェス”の愛したアンフェールを壊したくなかった。
今はこの男の機嫌を取るのが最優先事項だ。俺は先程ハルベルに着せてもらったばかりのシャツに手をかけた。
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