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「リシェス様っ! 大丈夫ですか?!」
役員を気絶させ、拘束したハルベルはそのまま俺の側に駆け寄ってくる。
「……大丈夫だ。それより、どうしてお前ここに……」
「カップの割れる音が聞こえてきたからです。……ああ、申し訳ございません。僕がもっと早く気付いていたら」
そうハルベルは落ち込むが、俺からしてみれば寧ろよく聞こえたなという驚きの方が大きかった。
ハルベルを待たせていた通路からこの執務室までには距離もあるはずだ。確かに声を上げたのも大きかっただろうが、ハルベルが気付いてくれたことにただほっとする。
「いや、お前が来てくれて本当に助かった。……ハルベル、お前には助けてもらってばかりだ」
「……っ、リシェス様……」
今のハルベルに記憶はないだろうが、前回の世界線でもそうだ。ハルベルは上着を脱ぎ、そのまま俺の肩にかける。全身の力が抜けそうだった。
「……この方についての処遇は、アンフェール様に僕の方から伝えておきましょう。リシェス様は部屋でお休みになられた方が――」
そして、そのまま近付いたハルベルの顔がほんの一瞬強張るのがわかった。
俺を見詰めたまま固まるハルベル。「どうした?」とそのままハルベルを見上げたとき、その白い首筋の喉仏が鳴るのが聞こえた。
「いえ、……すみません。その、リシェス様……薬の用法は本日はきちんとお守りになられたんですよね」
「……ああ、そのはずだ」
「……そうですか」
俺から体を離したハルベルはそのまま口元を抑える。その質問の意図に気付き「まさか」と血の気が引いた。ハルベルの視線が熱い。
「っ、漏れてるのか……」
「恐らく。……少量ではありますが、少し危険です。緊急用の薬がありますのでこちらを飲まれて待っていてください。僕はこの男を連れて――アンフェール様を呼んできます」
そう額に汗を滲ませ、必死に俺から距離を取るハルベルは制服のポケットから錠剤が入った薬ケースを置いた。
「一先ず、一粒だけ飲んでください。即効性です。……すぐ効くため副作用もありますが、そのことについてはまた後で説明させていただきます」
「あ、ああ……悪いな。ハルベル」
いえ、と小さく頭を下げたハルベルはそのまま転がっていた役員の首根っこを掴み、ずるずると引きずりながら執務室を後にした。
そしてぱたんと閉まる扉、辺りには紅茶の香りだけが広がっていた。
自分で自分の体臭は分からない。が、ハルベルがあんな態度を取るのは初めてだった。もしかして先ほどの役員の豹変もこの体質のせいなのか。
だとしたら俺が悪いのか、とぐるぐると考えながらも取り敢えず俺はハルベルから貰った緊急用の薬を服用することにした。
よく効く薬は苦いというが、間違いないようだ。
それから暫くして、顔色を変えたアンフェールがやってきた。
「……リシェス」
ハルベルから話を聞いたようだ。一人だけだったが、ソファーで待っていた俺のもとまでやってきたアンフェールはそのまま俺の前に座り込む。
そのまま首を撫でられ、ぎょっとする。
「アンフェール、……俺は大丈夫だ。それより、お前のところの役員が……」
「――悪かった。あいつについては厳しく処遇するつもりだ」
「それは……」
確かに襲われたのは事実ではあるが、俺もフェロモンが漏れていたとしたら体調管理ができていないオメガとしての責を問われるだろう。
そのことを考えたら酷く気分が落ち込む。
「……なあ、アンフェール。待ってくれ」
「なんだ」
「もしかしたら、俺のせいかもしれないんだ」
最悪といえば最悪ではあるが、アンフェールに直談判するいい機会にはなってしまったことが複雑だった。
俺はそのままここ最近の体調のこと、そしてハルベルから指摘されたフェロモン漏れのことについてアンフェールに相談することにした。
俺の話を聞いている間、アンフェールの顔はずっと険しいままだった。
「ホルモンバランスの異常か」
「……ああ、ハルベルと話してたんだ。それで、お前に相談しようと思ってここに来た」
それがまさかこんな騒ぎになるなんて俺だって想定外だったが、予兆がなかったといえば嘘になる。
「相談する相手が違うだろ。お前の体のことなら医者に――」
「違うんだ、アンフェール」
言うなら未だ、と深呼吸を挟む。
「なに?」と鋭い視線を向けられれば、自然と全身が緊張した。
「……その、だな」
一度詰まってしまえば躊躇ってしまう。ええいと半ばやけくそに、「アンフェール」と俺はやつの手を掴んだ。
指の下、アンフェールの手の甲が微かに反応した。
「アンフェール、俺の――俺の項を噛んでくれ」
そう口にした瞬間、周りの音がなにもかも遠く聞こえた。こちらを見詰めていたアンフェールの目が僅かに開くのを俺は見逃さなかった。
そりゃ、いくら鉄面皮と言われるアンフェールだってこんなこと俺に言われると思わなかったのだろう。そりゃそうだ、あまりにも『今更』ではあるのだ。
ずっと我慢してきてあと数年、無事この学園を卒業すればどちらにせよ俺たちは結婚することになる。ここまできて何を今更、とアンフェールも思ったはずだ。
「……確かに、項を噛んで正式に番になればオメガのヒートの効果は番限定になるんだったな」
「そういう話も聞いたことがある。……だから、アンフェールに頼みたかったんだ」
「……」
アンフェールの反応は怖かった。拒絶されてしまえばおしまいだ。
恐る恐るアンフェールを覗き込んだとき、珍しくアンフェールが言葉に詰まっていた。
「アンフェール……?」
「――俺の立場からしてみれば、独断で今後に大きな影響を与えるような真似を、お前の両親を挟まずして行うことは出来ない」
「そう、だよな」
アンフェールらしい回答だ。俺が考えていた回答がそのまま返ってきたことに対する安堵とともに確かにショックも覚えたが、こうなることはわかっていた。それでも縋りたかった、万が一の可能性にかけて。
「けど」
そう項垂れた時、アンフェールは小さく唇を開いた。
「もし、万が一今後このようなことがあった場合を考えると、俺個人としてはお前の意見に賛成したくなる」
「アンフェール……」
「ホルモンバランスが崩れるのは体調の不調がきっかけなんだろ? ……ここ最近のお前の様子からして、おかしな話でもない」
そうあくまで淡々と続けるアンフェールだが、俺はアンフェールの口からそんな言葉が出てくることに驚いた。
俺の幻覚のことも知ってるアンフェールだからこそ信じてくれたのか。
自分の聞き間違いではないよな、と思わずアンフェールを見詰めたまま動けなくなる俺に、そっとアンフェールは俺の首輪に触れる。乾いた硬い指先が首輪と首の境目、そして首筋をすうっとなぞった。
「い、いいのか……アンフェール、だってあんなに正式に婚姻を結ぶ前には噛まないって……」
「ああ、そのつもりだった」
「じゃあ……」
なんで、と言いかけたとき。
「全部言わせる気か?」とアンフェールの眉間に皺が寄せられる。そして、首筋を撫でていた指が顎を捉えるのだ。
「他の男に先に噛まれるくらいなら、俺が噛む。――そう思っただけだ」
囁かれる言葉に、唇に触れる吐息の熱さに、全身の体温が上昇するのがわかった。
この感覚、前にもあった気がする。それがいつなのか思い出せなかったが、このはち切れんばかりの心臓の痛みには覚えがあった。
俺はただ「そうか」と声を絞り出すのが精一杯だった。
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