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――アンフェールに項を噛んでもらう。
授業中もずっとそんなハルベルの言葉がずっと頭の中でぐるぐると反芻していた。
合理的ではあるが、俺とアンフェールの立場を考えば即決できるようなものではない。
首輪を付け続け、制御剤を飲む振りをし続ければ表向き他の人間にバレる危険性はないとは思うが。と、考えてアンフェールの顔が浮かぶ。
そもそも、どうアンフェールを説得させるかという問題が立ちふさがる。そしてそれは容易に超えられる壁ではない。
一先ずハルベルにはもう少し強めの薬を用意してもらうということでその場はひと段落着いたが、一種の脅迫観念のようになってしまっていることも違いないだろう。
……それとなくアンフェールに聞いてみるか。
そう考える自分自身にも正直、驚いた。今までだったら言うだけ無駄だとそもそもアンフェールに相談することも諦めてきただろうに。
今のアンフェールなら、俺の話しにも耳を傾けてくれるかもしれない――そんな淡い期待を覚えさせてくれるのだ。
考え事をしていると時間の経過というのはあっという間だ。
どこからともなく聞こえてくる鐘の音がその日の授業終了を告げる。
それぞれ教室から出ていく生徒たちに混ざって、俺も教室を出た。扉の側にはハルベルがいた。
他の生徒となにやら雑談していたハルベルだったが、教室から出てきた俺に気付いた生徒たちが気を遣ってそのまま別れを告げ立ち去る。それに「それじゃあ、また」と手を振り返していたハルベルはこちらへと歩いてきた。
「リシェス様。……おや?」
「……なんだ」
「少し顔が赤いみたいですね。……薬は飲まれましたか?」
「お前がうるさいから、ちゃんとセーブした」
触れてこようとこちらへと手を伸ばしてくるハルベルから身を引けば、なにかを察したようだ。「そうでしたか、すみません」と慌てて俺から手を引くのだ。
「今日は真っ直ぐ戻られた方がよろしいかもしれませんね。……お疲れでしょう。食事でしたら僕が後で部屋にお運びしますよ」
「……ああ、そのつもりだ」
「けど、その前に」とハルベルを見上げる。
少し高い位置にあるハルベルの視線がこちらを見下ろしていた。
「……生徒会執務室に寄らせてくれ」
本当は一人で行くつもりだったが、ハルベルの言葉に不安になった自分もいた。
そっと声を潜め、ハルベルに伝えれば俺の思惑を汲み取ってくれたようだ。ハルベルは「畏まりました」と小さく頷くのだ。
本当に、不便な体質だと思う。
リシェスとしては生まれてから付き合ってきたものだが、第三の性が存在しない世界での記憶がある今は窮屈で、息苦しくて堪らなくなるのだ。
オメガ以外の人間がいる空間では自分から変なフェロモンが漏れてしまっていないか注意を払わなければならないし、今の俺は人気のないところに一人で彷徨くことにも怖気づいてしまっていた。
ハルベルは原作では不遇な扱いをされるサブキャラクターではあったが、リシェスからしてみれば数少ないなんでも話せる相手である。
そして今の俺もハルベルがいてくれてよかったと思うことは度々あった。時折本当に大丈夫なのだろうかと不安になるときもあったが、その根底にある行動原理がリシェスのためだと分かっていたからこそ信じることができたのかもしれない。
それから、俺はハルベルとともに執務室のある階まで移動した。
あまりハルベルと一緒にいるとアンフェールが良い顔をしないというのは学習済みだったため、近くの通路でハルベルには待ってもらうことになる。
「それほど遅くはならないはずだ」
「ええ、分かりました。……アンフェール様と一緒に帰られるようでしたら僕もこっそり遠くから見守ってますね」
「……別にそれは言わなくてもいいぞ」
そんなことだとは分かってはいるが、どんな顔をすればいいのか分からない。対するハルベルは俺が照れてると思ってるのだろう、にこにこと上機嫌な様子だ。……本当、モノ好きなやつ。
それからハルベルと別れ、生徒会執務室の扉の前に立った。相変わらず大きな扉の前、そっと扉をノックする。「アンフェール、いるのか」と声をかければ、すぐに扉は開いた。
そこにいたのは生徒会役員の生徒だ。……名前は覚えていない。
「ああリシェス君、タイミングが悪かったね」
「アンフェール、いないのか?」
「それほど時間は遅くならないはずだよ。……中で待っておくかい?」
「ん、ああ……じゃあそうする」
そう答えれば、役員の生徒はどうぞ、と扉を大きく開いて俺を招き入れた。
大体の役員は俺が来ると厄介そうな顔をしたり変に気を回してくるのだが、この役員だけは別だ。リシェスのことを気に入ってるのかは知らないが、簡単に執務室に入れてくれるしどれだけアンフェールを待っていても嫌な顔を一つしないから俺も助かっていた。
「ゆっくりしててね、リシェス君。ああ、君が好きだと言ってた紅茶も用意したんだ」
「不要だ。それより、アンフェールはどこに行ってるんだ?」
「守衛となにか話してたよ。多分、明日の見回りの段取りについてじゃないかな」
――そうか、明日の朝はアンリがやってくる日か。
本来ならばアンフェールが見回りに行き、そこでアンリと出会うことになっていた。
どうにか阻止しなければならないが、あの男にまた会わなければならないと思うと指先が震える。
……どうにかしなければならないが。
そんなことを考えながら、執務室に置かれたソファーに腰をかけた。執務室には役員の男一人しかいない。
アンフェール以外の役員たちと親しくなるつもりなど俺には毛頭なかった。けれど役員の男は違うらしい。ここぞとばかりにいらないといった紅茶を用意し、隣に座ってくる。
「……不要だと言ったはずだが」
「まあ、ほら、せっかくだから……せっかくリシェス君のために用意したんだけど、なかなか機会がなかったから」
「いらない。腹は減ってないんだ」
罪悪感がないわけではないが、信用できる相手以外からの貰い物を口に擦る気にはなれなかった。
露骨に落ち込む役員だったが、すぐに「じゃあ一口だけでいいから」などと言い出した。
「……っ、おい、いい加減にしろ。しつこいぞ」
そう、押し付けられるカップを腕ごと押し退けたときだった。中身が溢れ、制服を汚す。
辺りにふわりといい匂いが広がり、『最悪だ』と口の中で舌打ちした。
火傷はせずには済んだが、すぐに洗わなければ染みになるだろう。
「あ、ご、ごめんねリシェス君……っ」
「……いい。それより退け」
「う、でもリシェス君もリシェス君だよ。そんなに嫌がらなくても良いだろ。ただのプレゼントなのに……ッ」
「…………」
なんか、嫌な予感がする。
落ち込んだと思えば逆上する役員に思わず顔が引きつった。
下手に優しくするつもりもなかったが、これは――面倒かもしれない。
「そうか、そりゃ悪かったな」
そう、このまま二人きりでいるのは危険だと判断した俺は立ち上がろうとする。瞬間、いきなり伸びてきた手に手首を掴まれた。
「……っ、おい、なんだ」
「り、リシェス君……っ、待って、どこに行くんだ?」
「別に、どこだっていいだろ……っ、触るな!」
いきなり背後から抱きつかれそうになり、全身が泡立つ。
咄嗟に役員の男を振り払おうとした瞬間、テーブルの上に置いたままのカップが床に落ちて砕けた。それを気にするわけでもなく男は俺のつむじに鼻先を埋め、そこで深く息を吸うのだ。
「な、何して……っ、おい……ッ!」
「リシェス君が悪いんだ……っ、こんな、こんないい匂いさせるから……っ」
「はあ? な、にいって……」
「アンフェール、アンフェールって……皆そうだ、アイツばかり……っ」
「おい、ふざけ、……っ、ん、ぅ……ッ!」
大きな掌で口を塞がれ、そのまま顔をおしつけるようにべろりと項を舐められる。じゅる、と唾液を塗り込むように舌を這わされ、血の気が引いた。
明らかに様子がおかしい。けど、ヒートは起きていないはずだ。
……フェロモンが漏れてる?ホルモンバランスが崩れたから?
どちらにせよ、最悪なことには変わりない。
「っ、ふ、ぅ――ッ、く」
「はぁ……っ、リシェス君……っ」
「ん、ぅ……ッ」
背後から覆いかぶさってくる役員にそのままソファーにうつ伏せに押し倒され、腰を押し付けられる。ごり、と嫌な感触が尻の辺りに感じ、ただ血の気が引いた。
そのときだった、いきなり勢いよく扉が開く。
「――リシェス様!!」
そして、扉から現れた見知った顔に安堵するのも束の間、ソファーの上、押し倒されている俺をみて血相を変えたハルベル。
「っ、貴様……」
「ち、ちが、これは……っ! リシェス君が誘って……」
まさかハルベルがやってくるとは思ってなかったらしい。青ざめた役員が言い終わるよりも先に、問答無用で俺の上から男を引き剥がしたハルベルはそのまま殴りかかる。
俺はその光景を眺めながら、ドッドッと未だ早鐘打つ心臓を落ち着かせるように手で押さえた。
――ハルベルがいなかったらどうなっていたのか、なんて考えたくもなかった。
男の呻き声を聞きながら、俺は汚れた首筋を何度も制服の袖で拭った。
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