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八代杏璃。
正体不明。当たり前のように卯子酉丁酉 のいた場所にいた男。
そして、本来ならば原作ゲームにいないはずの男。
そんな男が、今目の前にいる。
校舎の時計台の時計はぐるぐるに周り、本来ならば存在しているモブの生徒たちも今は顔貌すらなくただの濃い影だけが辺りを闊歩している。明らかに異質な状況下に対する恐怖よりも、目の前の男に対する恐怖の方が強かった。
「ねえ、なにか知ってるかな? リシェス君」
「お、まえは……なんなんだ。なんで」
「あー、ほら、そんなにたくさん考えないで。余計なことは考えなくていいんだよ。これ以上、君に負荷がかかってしまったら困るからね」
アンリの手を振り払いたいのに、思うように力が入らない。「それよりも」と細い指が俺の首を撫でる。
「ねえ。なに、これ」
緩くなった首の皮と首輪の隙間、するりと入り込んできたアンリの指にぐいっと首輪を引っ張られ、思わず息が詰まりそうになった。
「っ、は、なせ!」
「これ……項、まさかあいつに噛ませたの?」
「ぐ、ぅ……ッ」
べり、と被せられていたガーゼを無理矢理剥がされたと思えば、まだ癒えきっていない噛み痕にアンリの爪が食い込み、痛みに全身が硬直する。
お前には関係ないだろ、とその手を振り払いたいのに、首を締める首輪に息が詰まって声が上手く出ない。青ざめる俺を覗き込んだまま、アンリはその大きめな目を更に見開いた。
それは見たことのない表情だった。
「なんだよ……あー、そっか。なるほど? だからおかしくなっちゃったんだ、……あの男のせいか」
「っ、……ざけるな、なに言って……ッ!」
「どんな手を使ったのかな? まあ、元々リシェス君は素敵な子だし、見る目のないあの男の審美眼なかったのが悪いよ。悪いけど、……これは僕が求めていた展開とはちょっと違うなぁ」
ぶつぶつと独り言のように呟きながら、苛ついた子供のように親指の爪をガリガリと噛むアンリ。言いながらも俺に向けられた目や、がっちりと食い込んで離そうともしない指に、指先の感覚が段々麻痺していくのがわかった。
周りのモブらしき人影も誰一人殺されかけている俺を見て足を止める者などいない。
狭まる視界の中、意識を手放さまいと俺はアンリにしがみつく。
「っ、ぐ、く……っ」
「ロルバでいけるかな。……いや、データベースが壊れてたら怖いな」
「だったら、このルートでデバッグしていった方が確実かな?」そう、アンリは俺の首輪から手を離す。そのまま噎せ、必死に酸素を取り入れようと息を吸ったときだった。
すぐ目の前にアンリの鼻先が迫る。唇が触れ合いそうになり咄嗟に顔を避けようとするが、強引に唇を重ねられてしまう。
「っ、ぅ゛……ッ!」
最悪だ。最悪だ。また、同じ目に遭うのか。
せっかくアンフェールと番になれたのに、といの一番にそのことが頭を過る。
「っ、ん、む……っ」
「……っは、リシェス君、大丈夫だよ。君はちゃんと僕が幸せにしてあげる。……そのためにここまで来たんだ」
「君に会うために」と今度は軽く吸うだけのキスをされ、体が震えた。
そして、理解してしまう――八代杏璃が何者なのかを。
「お前は、ゲームの外から来たのか」
絞り出した声が震える。アンリ――八代杏璃は微笑んだ。
まだ俄信じがたい。それでも、それが俺の中で最も納得のいくものだった。
俺が『アルバネード戦記』の主人公であり、悪役であるなら、八代杏璃は更に外の人間になる。
それも、この世界に強く影響を与えられる立場の人間――プレイヤーだ。
どうやってこの世界に介入しているのかは不明だが、それでもこの壊れた世界を見る限り普通ではない手段を使っていることは間違いないだろう。
その結果、こうして俺のようなバグが起きている。
「流石リシェス君、鋭いね。それでいてこそ僕が惹かれたリシェス君だよ」
「なにが目的なんだよ、こんな……っ、こんな真似までして」
「ん? ずーっと言ってきたつもりだったけど……あは、君ってばやっぱり恋愛に対しては疎いのかな? そういうところもギャップがあって良いよね」
話を誤魔化すな、とやつを睨もうとしたとき。そのまま腕を掴まれる。
そして杏璃が小さく足を踏み鳴らしたとき、先程まで辺りに広がっていた昼下りの学園の背景は切り替わる。
――気付けば俺は、自分の部屋の寝室にいた。
つい先程まで燦々と照らしつけられていた太陽はカーテンで遮られ、薄暗くどんよりと湿った空気が流れていた。そのまま俺をベッドへと押し倒す杏璃。体勢を立て直すよりも先に、上に覆い被さってきた杏璃に制服を脱がされそうになり、血の気が引いた。
――あのときと同じだ。
けれど、決定的に違うものもある。
俺は今、ヒートになることはない。
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