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最終話
「っ、……この……」
死にものぐるいで抵抗する。
華奢な杏璃相手ならば俺でも敵うのではないかと思ったが、実際はどうだ。押し退けようと伸ばした俺の手を掴んだ杏璃はそのまま俺の掌にキスをするのだ。
「……っ!」
「無駄だよ。ここで君は僕に敵うことはできないよ。……だって、そんな風に仕組んだんだから」
べろ、と掌に這わされる生暖かな舌の感触に全身が震えた。
その言葉が本当だとしたら、そう考えるだけで目の前が真っ暗になった。
「そ、んなはずは……っ」
ない、はずだ。はずなのに。
必死に自分に言い聞かせる俺に、わずかに杏璃は眉を潜める。そして、その薄い唇に冷ややかな笑みを浮かべるのだ。
「なんだ、そんなに不安だった? ……リシェス君らしくないじゃん」
俺を見下ろしたまま、杏璃は俺の胸元に顔を埋めるのだ。抱き締められ、そのまま胸元に頬を寄せる杏璃は「はあ、いい匂い。リシェス君の甘い匂いだ」と呟く。
振り払おうと思えば振り払えたのかもしれない。けれど、それよりも他のところに意識がいってしまい杏璃を振り払うことを忘れていた。
「……」
それはほんの少しの違和感だった。杏璃の見せた表情になにかが引っかかった。
もう少しでその違和感がなんなのか気付けそうだったとき、杏璃の手がするりと胸を撫でる。逃げようとする体を抱き込み、そのまま俺に足を絡めてくる杏璃。
やめろ、と言い掛けて口を閉じたとき、シャツ越しにもみくちゃに胸を揉んでくる杏璃。思わず呼吸が漏れそうになったとき、その指先が尖り始めていた先端に触れて背筋が震える。
「ふ、……っ、ぅ」
「どうしたの? 急におとなしくなっちゃったね、さっきまであんなに頑張ってたのに」
――リシェス君らしくない。
そう杏璃が口にするのを聞いて、違和感は確信に変わった。
これだ、と俺は杏璃を止めようとしていた手を離した。そして、俎の上の鯛よろしく抵抗をやめた。
手足を投げ出し、なにをされてもなにを言われても無反応決め込む。
こいつはリシェスのことを好きだと言っていた。だったら、その大好きなリシェスらしからぬ行動が地雷になるのだろう。
「……なんのつもり?」
そして、案の定やつは引っかかった。
上半身を起こし、俺の顔を覗き込んだ杏璃。そこに先程までの楽しげな笑みはなかった。
「やりたきゃやったらいい。……勝手にしろ」
「……は?」
「……何をやってもお前から逃げられないんだろ? なら、もう――どうでもいい」
「なにそれ。……リシェス君らしくないね。君はもっと真っ直ぐで、何しても諦めることなんて――」
「俺は、リシェスじゃない」
畳み掛けるならここだ。
枕元のランプでぼんやりと照らされていた杏璃の表情が凍りつくのを俺は確かに見た。
「は? 何言ってて……」
「バグって言ってたよな。……ああ、そうだよ。お前のせいで俺も、あいつもグチャグチャになったんだよ」
「なにを言い出すかと思ったら、そんなわけ……っ、そんなわけないだろ」
杏璃の手が俺の体が離れる。そして髪を搔き上げる杏璃の顔は歪んでいた。認めたくないのだろう、笑いと、そしてその心当たりに青褪めている。
やはりこいつは、卯子酉の魂がリシェスの中に入っていることを知らなかったのだ。
ならば、と原作のリシェスが知らなくて卯子酉が知っている情報を引き出した。
「――『アルバネード戦記』」
そのゲームのタイトルを口にした瞬間、杏璃は息を飲んだ。大きめの目が更に大きく見開かれ、俺を見下ろしていた。
「だったよな。……お前の大好きなリシェスは、お前が俺の存在を強引に消そうとしたせいで俺の受け皿になったんだよ」
「――リシェスは、もういない」リシェスとしての記憶も思い出も確かに残っている。けれど、それは杏璃が求めていた純粋なリシェスではない。
卯子酉という混ぜものを合わせて出来たリシェスの形をしただけの別のものなのだ。
「お前、まさか……」
「散々人のデータ改竄してくれたな、杏璃。……俺は、卯子酉丁酉だ」
「――」
その言葉を吐いた瞬間、視界に砂嵐が走ったように歪んだ。目の前の杏璃を――いや俺がノイズに掻き消されそうになっているのかもしれない。
「待って、ねえ、本物のリシェス君は……どこに」
「……さあな、お前が俺のデータ上書きしたんだっていうなら……」
「……、……」
その先の言葉は、杏璃の顔を見ていると言葉にすることはできなかった。
杏璃のことは憎い。散々ろくでもない目に遭わされてきたのだ。
それなのに、まるでこの世の終わりみたいな顔をしてゆらりと俺から離れる杏璃を見て何も感じないわけではない。
ベッドから降りた杏璃はなにもない空間に向かってなにかをぶつぶつと呟いている。その危うい様子に嫌な予感がし、俺は咄嗟に口を開いた。
「ロルバするつもりか? ……してみればいい。今度こそ、次はリシェスごと消えてるかもしれないけどな」
ここでロールバックされ、全てが元に戻るのはまずい。また杏璃に外部から介入されると思うと気が気でなかった。
別のデータになるのならば、そこに存在するのが俺なのかもわからない。そもそも、こうして自我を得てしまったこと自体が《バグ》というのなら、俺の存在もなくなるのだろう。
だとしても、この世界がなかったことにされることだけは許せなかった。
「お前のせいだ、お前が殺した」
「……っ、黙れよ、僕はただ……っなにも知らないくせに、お前はリシェス君のこともなにも……」
その杏璃の声が震えてることに気付き、ぎょっとした。ぼろりと大きな雫がその目から溢れるのを見て、思わず目を疑った。
――泣いてる。
まさか杏璃に泣かれるとは思ってもいなかったため、一瞬思考停止してしまった。
そこまでリシェスのことを好きだったのか。そもそも、わざわざ元データをいじるほどの熱量とすれば納得もいくが。
ほんの一瞬、罪悪感に囚われそうになったときだった。杏璃がふらりとこちらを振り返った。
「杏璃――」
そして、ノイズの海に視界が塗り潰されていく最中。杏璃がなにかを手にしているのが見えた。
――斧だ。
そう、大きく振り翳されるそれがなんなのか理解した次の瞬間、意識はぶつりと途切れた。
◆ ◆ ◆
ほんの数秒、はたまた長い間眠っていた気がした。
「リシェス」と遠くから名前を呼ぶ声が聞こえ、体を揺すられる。
瞼を持ち上げれば、そこにはアンフェールがいた。ただでさえ険しい顔を一層険しくさせ、こちらを見下ろしていたアンフェールは俺を見下ろしたまま「リシェス」と口にするのだ。その声には確かに落胆の色が滲んでいた。
どうやら俺はベンチに寝かされていたようだ。夜が明け、白く染まり始めていた空がやけに眩しかった。
また最初からになってしまったのか、と思ったがそんな心配もアンフェールの顔を見れば全て杞憂だった。
――俺は、戻ってきたのだ。
けれど、どこを探しても八代杏璃の姿はなくなっていた。斧で殴られた記憶はあるのに、傷もない。
「急に倒れたから驚いたぞ」
「……」
「リシェス?」
言葉を発することを忘れ、ただ呆然とアンフェールを見詰めているとアンフェールは困惑したようにこちらを見る。
ああ、帰ってきたのだ。俺はちゃんと、まだ生きている。
そう頭で理解した瞬間、堪らず俺はこちらを覗き込んでいたアンフェールの胸にしがみついていた。
「おい……」
「なんでもない、ただ、白昼夢を見ていただけだ」
「……白昼夢?」
朝日は登っていく。
来たるべき転生者を迎えるはずの魔獣の鳴き声も聞こえてこない。その代わり、鳥の声が閑散とした明け方の学園に響いていた。
「なんでもない」
「変なやつだな。……おい、まだ寝てろ」
「もう朝だ。こんなところ、人に見られたら不良生徒会長って言われるぞ」
「言いたいやつには言わせておけばいい」
もぞりと起き上がり、座り直す俺にアンフェールはきっぱりと言いのける。
アンフェールらしいといえばアンフェールらしいのだろうが、それが《俺》に対して向けられているとなるとなんだかこそばゆいというか、違和感があった。……照れくさい、というべきなのだろうか。
「……変わったな、アンフェール」
伸びてきたアンフェールの指先に項を撫でられる。「それはお互い様だろう」と顔を寄せたアンフェールは小さく笑った。
「……それに変えたのはお前だ、リシェス」
そっと、どちらともなく触れ合う唇。混ざり合う熱。多幸感と朝日に包まれ、時計の針は進んでいく。
俺のハッピーエンドはここにあったのだ。
そうアンフェールにしがみついたまま、俺は目を閉じた。
そして、静かに世界は閉じていく。
《「アルバネード戦記」で予期しないエラーが発生したため終了しました。》
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「……」
目を開けば、見慣れた天井が目に入った。
気絶する前と変わらず抱き締めたままのぬいぐるみに頬を寄せる。金髪とエメラルドグリーンの特徴的な吊り目。柔らかなフェルト地が僕を包み込む。
「……リシェス君」
酷い悪夢を見た。
けれど、何も知らずに彼と過ごせた日々は偽りだとしても幸福でもあった。全てが夢であったとしてもだ。
どうやったらまた、今度はちゃんと成功できるのだろうか。明晰夢?いや、違う。これは確か……。
ぼんやりとしたまま、眼球を動かした。どれほど眠っていたのかもわからないが、手足に力が入らない。
床の上に散らばっていた錠剤を一瞥する。ああそうか、確か僕はこの方法であの世界に行ったのだ。
そして、あの男か女かもわからない女神と出会った。
――だったら、また同じことをしたらやり直せるのだろうか。
そうまだ微睡んだ頭の中、薬のケースに手を伸ばした。今度はちゃんと、リシェス君に謝らないと。今度は君を殺さないから。大事に、するから。だから。
こんなクソみたいにつまらない世界から僕を助けてくれた君と一緒に生きていきたい。
どうやっても死んでしまう君と幸せになりたい。
けれど、そのためには君と友達になって、恋人になって……番になりたい。
現実の肉体がどうなろうとどうでもいい、それよりも魂で君と結ばれたいんだ。
ざらざらと喉を伝っていく錠剤の感触。転がっていたいつ買ったか覚えてない中身の入った水を手に取り、それを無理矢理流し込んだ。
そして、指先からボトルが落ちる。意識が遠くなっていく。光も、全部。
【悪役令息オブ・ジ・エンド】END
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