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06

 恐ろしい夢を見てから数日、何事もなかったかのように穏やかな時間が過ぎていく。  そのときにはもう悪夢のことなど頭にはなく、リシェス様の体調のことばかりが気がかりだった。  明け方、自室で眠っていると突然胸の鼓動が大きく響いた――ような気がした。心臓を鷲掴みされたような感覚に思わず飛び起き、辺りを見渡す。当たり前に誰もいない。悪い夢を見た覚えもなかった。  なんだったのだろうか、今のは。  ドクドクとまだ脈打つ心臓を抑えながら起き上がる。落ち着くために水でも飲もうかとしたときだった。不意に、窓の外が明るいことに気付いた。もうそんな時間か、と思いながらもカーテンを開く。  丁度寮舎の窓の外からは近くの森が目についた。そのときだった、不意に空に違和感を覚えた。巨大な穴のようなものが丁度森の上に浮かんでいた。 「……は?」  見間違いか、疲れているのか。思わず目を擦り、もう一度空を見上げた。白ばんだ空の一部に走った巨大な亀裂のような穴は先程よりも大きくなっているように見えた。  それから間もなくして、空気中を震わせるような獣の咆哮が聞こえてくる。――森の方だ。一斉に森から鳥が羽撃いて行く。  そして、つい先程まで広がっていた裂け目はそのまま口を閉じたのだ。またたく間にずっとその切れ目すらも空に溶け込み、そしてその後は早朝特有の静寂だけが辺りを包み込んでいた。  ほんの数分の出来事だったはずだ。それなのに、僕にとっては長い間のことのように思えた。  ――見間違い、ではないはずだ。  先程とはまた違う意味で胸が高鳴っていた。  なにか、嫌な予感がする。根拠もなにもない。それでも今まであんなもの、見たことなかった。  なにかの前兆か、或いは――。 「……」  カーテンを閉め、水を取りに行く。  そしてその日、後になって早朝の森で異界からやってきた人間が見つかったと聞かされた。  ――彼の名前は、ヤツシロアンリ。  癖のない黒髪と、犬のように大きめの黒い眼が特徴的な幼さの残った青年だった。  アンフェール様の背に隠れるように歩いているヤツシロアンリを見た瞬間、頭の奥が痺れるように熱くなった。強烈な違和感を覚えたのだ。  言葉に出来ない。けれど自分自身の認識に齟齬が生じている。ドクンと大きく心臓が響いた。  ――本能がこの男を拒否している。  その場は声を掛けずに後に退く。自分がなぜここまで動揺しているのか、その理由すらも分からないまま教室へと戻った。  教室へと戻って授業を受けている最中もずっと、頭からアンフェール様と話していたアンリの顔と声がこびりついて離れなかった。  知っているはずなのに記憶にない。そして、僕は数日前のことを思い出していた。  ――リシェス様が死ぬ夢のことだ。  そして確かその夢にも見知らぬ異世界人が現れた。その異世界人のせいでリシェス様は嫉妬に狂われていた。――はずなのに、あれほど鮮明に思い出せていた夢の内容が今では塗り潰されたように思い出せなくなっている。  なにか、重大なことを忘れている気がするのに無理矢理記憶に蓋を閉ざされたかのような気持ち悪さだけが残っていた。  ともかく、転校生という存在がリシェス様によくない影響を齎すということだけは頭にあった。  それならば、避けなければならない。リシェス様のためにも。  ――こんなことリシェス様に言えば、「くだらない事を言ってる暇があるなら勉学に励むなりしたらどうだ?」と笑われてしまうだろう。  だから、これは僕だけの秘密にしなければならなかった。  その日の授業を終わり、すぐにリシェス様の教室へと向かおうとしたところに教師に呼び止められた。どうでもいい雑用を押し付けられてしまい、ようやくリシェス様の教室に辿り着いたときには教室にリシェス様の姿はなかった。  だとすれば、アンフェール様に会いに行ったのだろう。すぐに駆け足で生徒会執務室へと向かった。 「会長とリシェス様なら、例の転校生に学園の案内しについ先程出ていかれたばかりだよ」 「……そう、でしたか。ありがとうございます」 「ああ、気にしないで。それよりフォレメク君。リシェス君の好きな紅茶について聞きたいことが――」 「申し訳ございませんが、急いでますので。失礼します」  馴れ馴れしく話しかけてくる役員の手を振り払いにらみつければ、「あ、ああ」と狼狽えながら役員は手を引っ込めた。前々からリシェス様に対して馴れ馴れしい男だったが、お前みたいなやつがリシェス様を『リシェス君』などと呼ぶな。  指をへし折ってやりたかったが、今ここで下手に騒ぎを大きくしてリシェス様の顔に泥を塗るような真似はしたくなかった。  僕はまだ学園内にいるはずのリシェス様たちを探した。  アンフェール様が一緒ならば僕の出る幕はないと分かっていたけれど、それでも追いかけなければならない気がした。  一般教室棟から特別教室棟の隅から隅まで探したが、まるで避けられているかのように尽く入れ違いになってしまい三人の姿を目に入れることすらできなかった。  探し回っている間に校舎の外は既に日が傾きかけていた。血のように赤く染まる窓の外を見て冷たい汗が滲む。  ――寮舎へ戻ろう。  まだ自室に帰ってきていなければ寮の外で待ってると帰ってくるかもしれない。  そう自分に言い聞かせながら、僕はそのまま寮舎に向かった。

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