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07
寮舎まで戻り、そのままの足でリシェス様の部屋まで向かおうとしたときだ。
リシェス様の部屋のある棟へと足を踏み入れた瞬間、全身に寒気のようなものを覚えた。また、あの感覚だ。
気付かぬフリをしながら、それを無視して通路を抜けようとしたときだった。
人気の少ない、静まり返った通路の奥からなにやら妙な音が聞こえた。軋むような音と、荒い息遣い。時折聞こえてくるような低い呻き声に、胸の奥がざわつく。
――誰かがいる、その先の通路に。
それは明らかだった。けれど、それに加えて本能が『引き返した方がいい』と警笛を鳴らした。
もはや自分でも、自分自身がなにを恐れているのか分からない。そんな状態ですごすご引き下がるつもりもなかった。
床に張り付いたように動けなくなる足を無理矢理動かし、一歩踏み出す。そしてその目先に写り込んだ光景に息を止めた。
床の上に押し倒された何者かの上に、見知らぬ別の生徒が覆いかぶさっていた。両者の下半身は下着すら身に着けていない。そして、襲われていた男子生徒の頭に被せられた麻袋。生白い肌は血の気が失せ、青くすら見えた。
「――」
まさか、とそれを理解しそうになった次の瞬間、いきなり背後から頭を殴られる。そのまま倒れた全身は石になったみたいに指先まで動かすことはできなかった。頭から血が溢れる感覚はするのに、眼球すら動かすことはできない――この感覚には身に覚えがあった。
「おかしいな。……ちゃんとバグ元見つけてデバッグするように作ったはずなのに。リシェス君が可愛くて襲ってしまったのかな? ……あーあ、やり直しだよ。やっぱ自律タイプは駄目だな。僕の言うことも聞けないなんて」
ぶつぶつと呟くその声の主は倒れる僕の体を通り抜け、そしてそのまま夢中になっている生徒に向かって歩いていく。
――待て、今リシェスって言ったか?
聞き間違いではないはずだ。そんなはずが、でも、あの華奢な指は。その太腿をいとも簡単に掴めそうなほど大きな手に腰を掴まれ、ピストンの度に揺れる爪先。辛うじてそこに引っかかった靴下は、革靴は。
そんなはずがない、そう思いたかったのに見れば見るほど一致する箇所があった。
声を上げることも、止めることもできない。放り出された指先一本すらも動かせないまま、「作り直しだな」というどこかで聞いたことのある声とともに世界が切り替わった。
「……ッ!」
飛び起きる。汗がじっとりと全身に滲んでいた。まだ、網膜にはつい先程まで見た光景が焼き付いてるようだ。
――夢、ではないのか。
夢にしてはあまりにも最悪だ。あんな夢が自分の深層心理に存在すると考えただけで吐き気が込み上げてくる。
ベッドから起き上がり、水場へと向かう。間に合わず、込み上げてきた吐瀉物を吐き出したまま床の上に座り込んだ。全身の水分が抜け落ちていくようだった。
口を濯ぎ、吐瀉物を片付けて汗を拭いた。冷たい水を頭から被って目を覚まそうとしても、あの悪夢のような夢は頭に残っていた。
夢だと分かっていても、安心できなかった。
リシェス様になにかあったのではないかと思ってリシェス様の部屋へと向かう。扉には鍵がかかっている。それはそうだ。リシェス様はきちんと戸締まりをされる方だし。
つまり、この部屋の向こうにリシェス様はいらっしゃる。
……すべて夢なのだ。
そう自分に言い聞かせ、僕はそのまま薄暗い廊下を戻っていく。
そして再びリシェス様を向かいに行く準備をする時間まで眠りにつき、次に目を覚ましたときにはあれほど鮮明だった夢の内容もモヤがかかったように思い出すことができなくなっていた。
ただぼんやりと『最悪な夢を見たこと』『それはリシェス様に関する悪夢だった』ということだけが頭の中に残っていた。
そして、再び日常が始まる。
その日、リシェス様の体調が優れない様子だった。朝はいつも通りだったが、昼頃から具合が悪くなったようだ。
自室へと籠もられるリシェス様が気になって様子を見に行ったが、どうやら気分も優れないようだ。『放っておいてくれ』と突き放すリシェス様の姿はあまりにも痛々しかった。
そして寝間着の襟から伸びた白く細い首筋を見た瞬間、脳に電流が流れたみたいに痺れる。普段ならば無骨な首輪で覆われたそこに、あの首輪は存在しない。不謹慎だと分かっていたものの、薄暗い部屋の中より一層白く映えた肌に目を奪われてしまいそうになる。
そんな自分を叱咤し、僕はリシェス様と会話を交わしたあと食事を用意する。その旨をリシェス様に伝えてから部屋を出た。首輪を何故着けていないのか、聞くタイミングを逃してしまった。
恐らく、体調が大きく関係しているのだろうが。
リシェス様の体調は心的なものが影響しているように見えた。疲れたような、なにかに怯えているような姿を見て一瞬、消え掛けていた夢の一部が脳裏に浮かんだ。男に多い被さられ、大きく開かれたあの足を。
そして、振り払う。あれはどう見ても夢だ。それに、事実あのときはあった首を締められたような痕はリシェス様にはなかったし、僕だって現にピンピンしている。
夢と現実の境目が曖昧になるのはよくない傾向だ。自分に言い聞かせ、僕はリシェス様に食事を届けたあと学園を出ることにした。
目的地は学園を出て、森を抜けた先にある街だった。栄えたそこならば、リシェス様がリラックスできるようなものもあるかもしれない。
と、そこまで考えて以前もこんな風にリシェス様に贈り物を選んでいたような気がしてきた。
幼い頃だっただろうか、いやもっと最近だ。いつだっただろうか、などと思いながら街へと踏み込んだ瞬間、脳の奥の辺りが熱くなり始める。
頭痛とはまた違う。深夜に頭から水被ったせいなのか分からなかったが、耐えられないほどでもない。
振り払い、人混みを掻き分けて目的の店へと進む。
様々香油を取り扱う専門の店の扉を開き、そこの店主に話を聞きながら安眠効果のある香油を探した。そしてあっさりと目的のものを手に入れることが出来た。
人にプレゼントするものだと言えば、梱包も施してもらうことになる。リシェスの瞳の色に似た深い藍色の包装紙と金糸で出来たリボンが美しい梱包だ。
そして店主にお礼を良い、店を後にした。
……リシェス様、喜んでくれたらいいが。
既に暗くなった町の中、先程とは違う猥雑とした空気が流れていた。
暗くならない間にすぐに寮へと戻るつもりだったが思ったよりも店主と話し込んでしまったようだ。
早く帰ろう、と学園へと続く森へと向かおうとしたときだった。向かい側から現れた影にぶつかりそうになり、咄嗟に避けようとしたとき、手にしていたリシェス様へのプレゼントが入った紙袋が手から滑り落ちそうになる。
「……っ!」
しまった、と手を伸ばしたとき、僕の手よりも先にそれへと伸びる手があった。紙袋を受け止めたその腕につられて顔をあげれば、そこには――。
「……ユーノ?」
脳が処理するよりも先に口から出ていた人名に自分でぎょっとした。目の前にいたのは見知らぬ背の高い男だ。いや、違う。これは、ユーノは僕の知り合いの男だ。知り合いって、なんの。
「大丈夫か、ハルベル」
――あ。
「ああ、それより奇遇だな。君がこんなところにいるなんて」
「お前がここにいた気がしたから」
「そうか」
違う。こんなことを聞きたいわけではない。なのに肝心の聞きたいことが出てこない。
――なんだこれは。
自分の中、内側から塗り替えられているような感覚。脳の回路が上手く噛み合っていないようだ。それなのに、この口は勝手に回っていく。
「それより、あそこに戻るつもりなのか」
「あそこ? ……ああ、学園か。そうだな、リシェス様が心配なんだ」
「そうか」とだけユーノは口にし、それから「これ、返す」と手にしていた紙袋を手渡してきた。瞬間、全身に痺れるような感覚が走る。一瞬強烈な目眩を覚えたと思った次の瞬間、目の前にいたはずのユーノの姿は消えていた。
咄嗟に僕は中のプレゼントが無事なのを確認した。ピンク色の包装紙と白いリボンがちょんと結ばれて愛らしい梱包だ。
落下は免れたので中身が漏れることはないだろうが、それでもやはり気がかりだった。
……いや、こんな梱包だったか?
「……っ、ぅ゛……」
目眩に続いて頭痛がやってきて、咄嗟に頭を抑える。……そうだ、こんな梱包だった。愛らしいリシェス様にピッタリの包装紙を選んでもらったのだ。
ユーノは学園に来る前からの友人だし、あいつは学園にも通っている。ああ、間違いない。なにも、おかしくない。
「は、……っ」
――リシェス様のところに帰ろう。
何故だかとてもリシェス様の顔を見たかった。僕は今度は人にぶつからないように気を付けつつ、ふらふらとした足取りで夜の森へと踏み込んだ。
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