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08

 部屋へと帰ってきたときには夜も深くなっていた。リシェス様は既に眠りに付かれていた時間帯だったので顔を見るのは諦めたが、ちゃんと戸締まりをされた扉を確認して安心した。  リシェス様はこの部屋の奥にいる――それだけで安心する自分がいた。  ――何故?  いや、疑問に思うこと自体おかしい。リシェス様の身が安全な状況下にあるということに安堵するのはなんらおかしくはない。当然のとこのはずなのに。  前にも、こんなことがあった。それもつい最近。そのはずなのに、思い出そうとすればするほど記憶は出てこない。  僕の名前はハルベル・フォレメク。リシェス様の家に拾っていただけた御恩でリシェス様に長年仕えている。  僕が手にしているこれは、なんだ。ああそうだ、僕の主であるリシェス様が眠れていないようだったから、少しでも気が休まるように香油を用意したのだ。  ……何故、こんな当たり前のことを忘れているのだ。僕は。  記憶力には自信があった。けれど、たった今その自信はなくなってしまった。  部屋に戻り、眠りにつく前に僕は机についた。取り出した手帳に『リシェス様は疲れてる、香油、ユーノ』とだけ書き記し、そのまま疲労感に重くなっていく体を引き摺ってベッドへと飛び込んだ。  時計の針の音が遠くなっていく。肉体と意識が乖離していく感覚に包まれ、朝を迎えた。  翌日、珍しく寝坊をした。とはいえど普段よりも起床時間が遅くなってしまっただけで、急ぎさえっすればリシェス様を起こしに行く時間には間に合うだろう。  けれどそのお陰で部屋を出るときにリシェス様に渡す香油を持っていくことを忘れてしまうというミスをしてしまった。こんなこと普段の自分なら決してするはずないのに。  ただでさえ時間は押している状況だ。僕は一先ずリシェス様の部屋に向かうことを優先させる。  いち早く渡したい気持ちもあったが、自分のせいでリシェス様の貴重な時間を奪うわけにはいかなかったからだ。  とにもかくにもリシェス様の部屋へと向かえば、すでにリシェス様は起床されていた。驚いたし喜ぶべきことなのだろうと思ったが、ここ数日のリシェス様の体調を鑑みるにもしかして眠れなかったのではないのだろうかと余計心配になる。 「リシェス様、今日は随分と早起きなんですね」 「……ああ、なんだか目が覚めてな」 「そうでしたか。……」 「心配しなくてもいい、別に寝れなかったわけではないからな」  流石リシェス様、というべきだろう。僕がなにも言わずともその表情から察したらしい。  先回りされ、心を読まれて恥ずかしくなる反面休むことには休まれたのだと一先ず安心する。 「でしたら良かったです」と答えれば、リシェス様はこちらを見るのだ。 「あの、リシェス様……?」 「昨日は、悪かったな。……その、色々言ったりして」  ふい、と顔を逸らすリシェス様に思わず固まってしまう。 「り、リシェス様……」 「……おい、なんだその顔は」 「いえ、聞き間違いかと思って」 「失礼なやつだな。俺だって人に感謝くらいするし、謝罪もできる」  やはりどこか体調が優れないのだろうか。「失礼します」と声をかけ、そっと額に手を触れてみれば平熱だ。 「おい、ハルベル」 「熱はいつもとお変わりはないようですが……」 「お前な……」 「リシェス様、お気持ちはありがたいですが僕に謝罪する必要なんてありません。……言ったではありませんか、僕は貴方にならば何されても構わないと」  昨夜のやり取りを思い出す。  ただリシェス様の期限を取るためだけの方便ではない。僕は、リシェス様にならばなにをされても喜んで受け入れる。  リシェス様の望みが僕の望みだ――そう言えばまだ妙な顔をされてしまうのだろうか。  が、今日は違った。 「……ふうん、なんでもか」 「リシェス様?」 「だったら今日、一日俺に付き合ってもらえるか?」 「そんなの、お安い御用です」  だが、アンフェール様がどう思われるかは分からない。言いかけたところで、リシェス様は「じゃあよろしく頼む」と口を開いた。  それから、リシェス様は少しだけ考え込むように目を伏せられる。睫毛が影をつくり、より憂いた表情のリシェス様に少しだけ胸が弾んだ。 「……ここ最近、気になることがあるんだ」  それも一瞬、リシェス様の口から出た言葉に目を見開く。 「気になること、ですか?」 「ああ、身の回りで少しな」 「それは、何者かにつけられているとかですか?」 「……分からない。が、不審なことがあったらすぐ俺に教えてくれ」  頼んだぞ、というリシェス様の表情はいつもよりも強張って見えた。わかりました、と答えれば、少しだけその緊張が和らいだように見えたのは願望ではないはずだ。  何かあったのなら相談してほしい、というのが本音だったが、リシェス様にもなにかお考えがあるのだろう。少しでも頼って頂けることは光栄だ。  それに、また前のようにリシェス様と一緒に過ごせるということに純粋に喜んでいる自分自身もいた。

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