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 リシェス様に対して劣情を一度も抱いたことがない――わけではない。けれどそれは未だ僕が幼い頃、恋だとか愛だとかも分からない頃の話だ。  今現在のそれとはまるで比べ物にならない。  リシェス様に許される度に己の欲が肥大化していくのが恐ろしかった。  最悪な朝を迎えたが、リシェス様には絶対に知られてはならない。リシェス様の一日までも最悪なものにしてはならない。  何事もなかったように振る舞うのが精一杯だった。  幸い、リシェス様の睡眠を妨害せずに済んだ。それだけが救いだった。  僕がどれほど最低最悪の気分だろうが、時の流れというのは誰しも平等だ。また一日が始まる。    僕自身がリシェス様の平和を脅かす存在になってはならない。そのためには改めて己の立場というものを理解しなければならない。  何度も言い聞かせているが、ここ最近のリシェス様は僕に優しくしてくれるのだ。以前から心優しいお方だと分かっていたが、それでも後ろ暗い僕にとってはよりリシェス様に信頼される都度その華奢な指先で首を締め上げられているような息苦しさを覚えた。その苦痛すらも心地よさを覚えてしまうのだからどうしようもない。  授業を受けている間もずっとリシェス様のことが頭から離れなかった。教師の言葉が右から左へと抜けていく。頭の中では、昨夜のリシェス様の寝顔が脳裏にこびりついて離れなかった。  甘い匂い。唇の柔らかさ。もしあのときリシェス様が目を覚ましていたら――そんなことばかりを考えている内に下腹部に熱が溜まっていく。それを必死に堪えながら、僕は授業が終わるのをただ待っていた。  そして授業を終え、自分を落ち着かせた僕はそのままリシェス様の教室へと向かう。  余計な手間がかかってしまい、いつもよりも遅れてしまった。  午前の授業が終わり、なにやら騒がしい生徒たちを掻き分けながらも通路を歩いていたときだった。  野次馬が集まったリシェス様の教室の前、あの男の姿を見つけた。――この世界では珍しい、黒い髪。  アンリがリシェス様と一緒に並んでいるのを見た瞬間、ドクリと心臓が大きく跳ね上がる。  何故あの男がここにいるのか。見たところ、アンフェール様や他の者の姿もない。  それも、やけにリシェス様にべたべたと距離を詰めているアンリを見た瞬間全身の血液がかっと熱くなる。  強引にでも二人の間に割り込んでいきたくなる衝動をぐっと堪え、僕はリシェス様に声をかけた。 「あれ――リシェス様と、アンリ様?」  僕に気付いたリシェス様はほっとしたような顔をし、そして「丁度良かった」と静かに口にする。  話を聞けば、どうやらアンリが強引に押しかけてきたらしい。これから食堂へ向かうらしいリシェス様に「お前も来い」と誘われる。それを断る通りなどなかった。はい、と即答した瞬間、リシェス様の隣にいたアンリの視線が突き刺さった。  ぞっとするような冷たい目でこちらを見ていたやつに気付いたのも束の間、リシェス様に「構わないか」と声を掛けられたアンリは何事もなかったかのように「うん、勿論」と人懐っこそうな笑顔を浮かべて笑うのだ。  ――今のは、見間違いではないはずだ。 「……ありがとうございます、アンリ様」  やはりこの男をリシェス様に近付けるわけにはいかない。  腹の中でどんどんと膨らむ疑念を押し殺しながら、僕はアンリに微笑み返した。  なるべくリシェス様とこの得体の知れない男を近付けさせないため、こちらからアンリに話しかけた。それでも何度もリシェス様に話かけようとするアンリを止めるのはなかなか骨が折れたが、食堂ではなんとか乗り切ることができた。  が、何故かリシェス様の顔色はどんどんと悪くなる。考え事をされているようだった。リシェス様が手元のグラスを誤って倒されてるのを見て、すぐに気付いた。  テーブルの縁まで垂れた水はそのままリシェス様の膝元を濡らす。咄嗟にテーブル、そしてリシェス様の下半身にハンカチを乗せる。  躊躇いは、あった。けれど、『これはなにもやましいことではない』と自分に言い聞かせ、僕はリシェス様の太腿に触れた。 「……っ、ハルベル」  ――昨夜の感触が、熱が、興奮が蘇る。  アンリの前、それも周りに他の生徒もいる状況下。テーブルの下で触れるリシェス様の太腿の細さに息を飲む。動きそうになる体を必死に押さえつけ、僕はリシェス様の下半身の水を拭い取った。  震えたリシェス様の声や、指先から微かに伝わってくる震え、熱。これ以上近くにいたらまずい、と自分でも分かった。だから僕はリシェス様から手を離した。  普段はやらないようなミスをしてしまったことを恥じてるのだろう、リシェス様の頬は赤くなっていた。俯くリシェス様に「大丈夫?」と心配そうにしてくるアンリに「ええ、大丈夫ですよ」とだけ応えておいた。  それからアンリと別れ、僕はリシェス様を部屋まで送り届けることになっていた。  もしかして今夜も一緒に過ごすことができるのだろうかと淡い期待してしまう反面、恐怖にも似た緊張も覚えた。どんどん自制が効かなくなっている自覚があったから、余計。  今夜頼まれたときは、寝室には入らないようにしよう。そう胸に決意したのがリシェス様の部屋に入る前。  ――けれど。 「ハルベル、着替えさせてくれ」  いつもと変わらない、朝の日課のはずだ。それなのに、下着を除く下半身に身に着けていたものを脱ごうとするリシェス様にその意気込みも全て台無しになってしまう。乾く咥内。「分かりました」となるべくいつも通りを装い僕はリシェス様に微笑み返した。  上手く笑えているかどうかは不明だ。

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