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12※

 このときばかりは、どうしたものかと内心頭を抱えてしまった。  リシェス様のシャツに手をかけている間、自分の心を殺すことでいっぱいいっぱいだったのだ。  ただでさえリシェス様の匂いを近くで嗅いだだけでもあの夜のことを思い出すというのに、これは。  ――罰、なのだろう。これはリシェス様を汚してしまった僕自身への罰だ。  なるべく目の前にあるリシェス様の体を意識しないよう、目線を外したまま僕はリシェス様の制服を脱がしていく。それでもどうしても着替えさせる手前、ずっと目を瞑っていることもできない。リシェス様の背後に立ったままなるべく無心を努めながらも肌着一枚になったリシェス様にすぐに用意していた着替えのシャツを掛ける。その拍子に、肩越しに薄い胸元が視界に入り、心臓がドクンと大きく脈打った。 「ハルベル」 「――はい、」 「肩、強く掴みすぎだ。……少し、痛い」 「……失礼しました」 「……」  しまった、と後悔した。すみません、と付け足すが、リシェス様は何も言わずに正面を向いたままなにかを考えているようだった。  もしかして、不審に思われてしまったのではないだろうか。けれど、だとすればリシェス様は僕を部屋にあげるはずなどないのだ。  流れる沈黙にぐるぐると悪い考えばかりが頭を過ぎった。なるべく平静を装ったまま、僕はリシェス様の足元に屈む。そのまま腰のベルトに手を伸ばし、下も着替えさせようとしたときだった。ふと、こちらを見下ろしていたリシェス様と目が合った――合ってしまった。  頭上の照明のお陰で影が濃くなったリシェス様の表情は普段よりも昏く見えた。場違いながらにも先程とは別の緊張をした。目を逸らすタイミングを失い、暫く見つめ合うような形になってしまったとき、リシェス様の薄い唇がゆっくりと動くのだ。 「――随分と、アンリと仲良さそうだな」  どんな言葉でも受け入れる用意だけはしていたが、予想だにしていなかったリシェス様の言葉に思わず目を丸くした。  もしかして、先程からずっと表情が硬かったのは僕と八代杏璃のことを考えていたからというのか。  そう理解した瞬間、胸の奥が締め付けられる。なんといじらしいお方なのか。僕がリシェス様しか目に入らないと分かっているというのに、そんなことをお考えになられていたとは。  ふっと肩の荷が降りるが、またこれも僕の試練であることには変わりない。浮かれるな、と表情に出さないように気を付けながらも僕は曖昧に笑うことしかできなかった。  そのままリシェス様の熱がほんのりと残った制服を抱え、用意していた籠に乗せたときだ。シャツの下、ぎりぎり見えない下着の下から生えた生白く細いその二本のおみ足が視界に入った瞬間、全身の血液が下半身に集まっていくのを感じた。まずい、と重みを増していく下腹部に嫌な汗が滲む。誤魔化すように、屈んだまま手拭いを手にとった僕は濡れたリシェス様にそっと押し当てる。指先に吸い付くような生足の感触は紛れもなく本物だった。  堪えろ、と舌を噛んで痛みで熱を紛らわせながらも濡れた味を拭っていったとき。 「お前とは合いそうだな」  落ちてきたその寂しそうな声に、熱が引いた。  そんなわけがない、僕には貴方だけです――そうリシェスの太腿に唇を押し当てたかったが、言葉だけに留めておいた。そんなことをしてしまえば本当に歯止めが効かなくなってしまいそうだったからだ。リシェス様は目を伏せて「ああそうだな」とだけ呟いた。それから、替えの制服を履かせる間リシェスは物憂げな顔で何かを考えていらっしゃるようだった。  ◆ ◆ ◆  それから、リシェス様は制服を着替えたあとは再び教室へと戻り授業を受けることとなった。  リシェス様を教室へと送り届けたあと、僕は自分のクラスへと戻る前に一度厠へと向かった。  ――最悪だ。  個室の中、リシェス様の生足の感触を思い出して自慰に耽るハメになるなんて。  決してすっきりとした気分になることはないどころか、罪悪感と自己嫌悪だけは積み重なっていくばかりだった。  自制の出来ない人間など猿も同然だ。  僕は、それと同列になってはならない。そう頭で理解しているのに、先程のリシェス様の肩の細さや薄い胸を思い出す度に性器が熱くなる。舌打ちをし、頭を擡げ始めるそれに再び手を掛けた。  結局、教室に戻るのには時間がかかった。  それでも誰もなにも言わない。教師も生徒も、僕の立場を理解しているからだ。今は、それだけが救いだった。  教室に入ってからは時間は流れていく。  煩悩ごと出し切ったお陰で午後からの授業は少しは集中することはできた。  そして、時は進んで放課後。 「ハルベル、今日は先に戻っていていい」というリシェス様に「畏まりました」と頭を下げた。  リシェス様は執務室へと向かわれるということだ。今は、自分といるよりもアンフェール様といらっしゃる方がリシェス様にとっても喜ばしいことのはずだ。  そう分かっているはずなのに、リシェス様の言葉を聞いた瞬間胸の奥にぢり、と黒いなにかが蠢くのを感じた。  リシェス様に昔のように頼られることに対して素直に喜ばしいと思う反面、どんどん欲深くなってしまう自分がただ恐ろしかった。  本来ならば自室へと真っ直ぐに帰るつもりだったが、ここ最近のアンフェール様のことも気がかりだった。だから僕はリシェス様を見送り別れた後、その背中を追って執務室へと向かった。  人気のない通路の中、窓の外を眺める。丁度その通路の窓からは執務室の中の様子が見えるのだ。微かに開いたカーテンの隙間、椅子に腰をかけたアンフェール様の背中が見えた。そして、その奥、シャツ一つ身につけていないリシェス様が向かい合うようにアンフェール様の膝の上に座っているのを見た瞬間、僕はその場に座り込んでいた。口に手を当てたまま、無理矢理息を吐いて呼吸を繰り返す。 「……っ、リシェス様……」  ――悪い夢でも見ているのだろうか。  煮えたぎるようなおどろおどろしい感情がマグマのように噴き出す。頭を殴られたような衝撃だった。  婚約者であるアンフェール様と仲睦まじいリシェス様の姿を見るのは幸福のはずなのに。あれは。  アンフェール様だけに見せる赤らんだあの顔を、一糸纏わぬ姿を見た瞬間こみ上げてきたのは吐き気だった。 「……っ、……は……」  ドクドクと激しく脈打つ心音。リシェス様はあんな顔をしない。情欲に濡れたあんな端ない顔。ましてや、こんな昼下がりにアンフェール様とこんな、こんな真似するなんてリシェス様ではない。  リシェス様はこんなことしない。  制服の下、収まっていたはずの性器が硬くなっていく。ベルトを緩め、僕は座り込んだまま自分の性器を握った。羞恥心も嫉妬も失望も全ての感情が塗り潰されていく。  あれは、あれはリシェス様ではない。だったらなんなのだ。  繰り返す答えのない自問自答。僕がその場を後にしたときには既に日が暮れていた。  気付けば執務室のカーテンの向こうにはアンフェール様とリシェス様の姿もなくなっていた。  二人の姿が見えなかったことになんだか安堵しながらも、僕も学生寮へと帰ることにした。  網膜にはまだアンフェール様に抱かれるリシェス様の白い肌が焼き付いていた。

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