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自分がどうやって寮まで戻ってきたのかも覚えていない。
アンフェール様と一緒ならば心配もないだろう、と生徒会室の中で行われている密事から目を逸した。建前だ。腹の中では今すぐにでも生徒会の扉を開けてやりたかった。
そうしなかったのは、それは僕のやるべきことではないと分かっていたからだ。それでも頭の中では荒れ狂うように声が響いていた。邪魔しろ。見て見ぬふりをするな。あの男を許すな――そう、マグマのように感情は波打つ。
僕はあくまでも世話係で、リシェス様はアンフェール様に惹かれている。ならば、あれもリシェス様は望まれていたことなのかもしれない。いや、もしかしたら無理強いされた可能性も――。
「……」
だったら、リシェス様は従わないはずだ。リシェス様の気性は僕でも分かる。アンフェール様に陶酔してるリシェス様でも、全肯定するほど盲目ではない。
あの方は気高く清らかなお方だ、好いていない人間相手を前に簡単に肌を見せるなんて真似をしないはずだ。そうに違いない。
考えれば考えるほど目が回りそうだった。言い訳を並べ、乱れかけた自分の感情を正す。一時の感情に身を任せ、見失ってしまってはならない。
学生寮、自室へと向かう途中の通路。
夕陽で赤く染まったその板張りの廊下を歩いていたときだ。
「またお前か、エラー源は」
不意に背後から声が聞こえてきた。振り返ろうとしたが、体が動かなかった。そしてそれも一瞬、たった数秒のことだろう。
気付けば廊下を照らしていた赤い陽は傾きかけていた。そして振り返れば、そこには誰もいない――ただ僕一人だけがその廊下に立っていた。
「……」
僕は、何をしていたのだったか。
そうだ、リシェス様――リシェス様の迎えに行かなければならないはずだ。いや、でも確か今夜はリシェス様はアンフェール様と共に過ごすと仰っていたはずだ。
何故自分がここにいるのか分からない。ごっそりと記憶が抜き取られたような喪失感とともに、念の為僕は執務室へと向かう。既に執務室は閉められた後で、中に誰もいる気配はなかった。
ならば問題ないだろう、と胸を撫でおろし、僕は自室へと向かった。
頭の片隅で『本当に何も問題ないないのか?』と何者かの声が響く。あるわけないだろう、リシェス様とアンフェール様だ。僕が付け入る隙きなどないはずだ。それこそ思い上がりも甚だしい。
聞こえてくる声に蓋をし、自室の扉を開いた。
――何か、忘れている気がする。
けれどそれが何なのかわからない。小骨が喉に引っかかったような違和感を抱えたまま、僕は部屋に足を踏み入れた。
何も無い部屋の中、ふと甘い匂いがした。……リシェス様のために用意した香油を部屋に置いていたお陰だろう、普段ならば意識しないはずの匂いがやけに甘ったるく感じたのだ。
……今日はなんだか体が怠い。早めに休もう。
ぬるりとした下着の中の先走りの感触に気づき、余計違和感を覚えた。溜まっているのだろうか、と軽い自己嫌悪と自分自身の体への違和感を抱いたまま僕はシャワーを浴びて早々に眠ることにした。
◆ ◆ ◆
翌朝。
いつものようにリシェス様の部屋へと向かえば、扉越しに「少し待っててくれ」とリシェス様の声が聞こえてきた。その声は少し疲れているように聞こえて心配していると、案外すぐに扉は開かれることになる。
「リシェス様、おはようございます」
「……ああ、おはよう。……その、昨夜はアンフェールに送ってもらった」
「ええ、そのようですね。アンフェール様のご様子は如何でしたか?」
「……ぼちぼちだ」
そう呟くリシェス様の頬はほんのりと赤い。それに、少なくとも落ち込んでいないリシェス様を見て上手く行ったのだろうとほっとする。――と同時に、謎の胸のざわつきを覚えた。
「それはなによりですが――リシェス様、昨夜は眠れなかったのですか? あまり顔色がよろしくないようですが……」
「ああ、夢見が悪くてな。……言っておくが、アンフェールは関係ない」
「ええ、そのようで。……夢見が悪かったのですね」
リシェス様の安眠のために香油を渡したつもりだったのに、まさか逆効果だったとは。匂いは人の好みはあるが、もしかしたらリシェス様に合わなかったのかもしれない。
そう項垂れていると、リシェス様ははっとする。
「……お前がくれた香油はいい匂いでよかった。……悪夢の件は、多分、というか十中八九原因は俺にある」
「だからお前が気に病む必要はない」とリシェス様はそっぽ向いたままぽつりと呟いた。
……本当にお優しい方だと思う。僕が気にしているとすぐに考えてのフォローだったのだろう。嬉しくなる反面、リシェス様に気を遣わせてしまった自分を恥じたを
「ありがとうございます、リシェス様。……ですが、また悪夢を見るようでしたら香油は廃棄しても構いませんので」
「なにも、そこまでする必要は……」
「あります。……僕は、リシェス様の健康が一番ですので」
「…………善処する」
それにしても、他にもリシェス様の疲れを癒やす手がないか考えながら僕たちは食堂へと向かうことになる。
そして途中で八代杏璃がやってきて、やつを交えて三人で朝食を取ることになった。
疲れているリシェス様に執拗に絡もうとする杏璃をいなしつつ、僕は杏璃の話し相手を引き受けることにした。
八代杏璃を見ていると、なんだか頭の奥がざわつくのだ。厚かましく、身を弁えない人間ではあるものの害はない。それなのに、なんだろうか。何故だが他人のような気がしてならないのだ。
そんなに八代杏璃と親しくなった記憶も心を開いた覚えもないが、やつの存在がするりと自分の中に潜り込んでくる。その感覚が余計気持ち悪くて堪らない。
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