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第1話
「加瀬 部長?」
桜花企画活動公司 ではペーパーレス化を推進していて、社内での連絡には各自のデスクのPCや社用タブレット、社用スマホを使用することを徹底している。
とは言え、クライアントによってはまだ紙資料を必要とする場合がある。
明日の朝に上海到着予定のクライアントに手渡すための資料を、部長に確認してもらおうと資料を手にした、営業部第5班の郎 主任は、直属の上司である部長に声を掛けた。
だが、部長は心ここにあらずと言った様子で、虚ろな眼差しで窓の外を見詰めている。疲れているだとか、考え事をしているというのではなく、まさに虚ろなのだ。
心が、魂が抜けたような、普段の部長からは考えられない放心状態だ。
心配になった郎主任は、そっと振り返り、オフィスに人が少なく、こちらを意識している者がいないことを確認すると、加瀬部長の方に腰を屈めて小さく囁いた。
「志津真 ?」
有能な部下ではなく、恋人として郎威軍 が名前を呼ぶと、ようやく加瀬志津真も我に返った。
「あ?え?…ああ、何?何やったかな?」
慌てて取り繕うように、加瀬部長は郎主任の綺麗な顔を見返した。その顔は、いつもの飄々とした人の良さそうな笑顔で、郎主任も安心する。
「明日のクライアントに渡す資料です。確認をお願いします」
そう言って資料を差し出すと、急に真面目な顔になって部長は資料を受け取り、目を通し始めた。
「お疲れですか」
恋人としてではなく、部下として上司の異変が気になって聞いてみる。
そんな郎主任を、上目遣いでチラリと見た部長は素知らぬ顔で資料に目を戻し、周囲に気付かれないよう小声でサラリと答えた。
「疲れるようなこと、してへんし」
今日は、まだ火曜日。
2人が恋人として楽しく、満ち足りた夜を過ごしたのは、いつもと同じ土曜日ことだ。
それ以来、キスの1つ、手を握ることさえできないほど、お互いのタイミングが合わず擦れ違っていた。
ましてやそれ以上のことをしていないのに、疲れるはずが無いと、志津真らしい皮肉なジョークで言ったのだが、真面目な郎主任はそんな冗談を素直に受け止められない。
「ぼんやりすることが多いですよ。どこか調子が悪いなら…」
「この歳になると、暑さが堪 えるねん。心配すんな」
もう一度、郎主任に視線を送ると、年齢の割にかなりチャーミングなウィンクを1つ送り、部長は仕事に集中した。
そんな相変わらずの様子に、一応は安心した郎主任だが、それでも、あの放心状態がここ数日続いているのが気に掛かった。
それと言うのも、部長と同じ日本人の部下、百瀬 が先日に奇妙なことを口にしたのが引っかかっていたのだった。
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