15 / 15
15話 彼のために
あれから1年が過ぎ、PERSPECTIVEは今日も静かにパリの街角に佇んでいる。
昼のインタビュー番組で樹が紹介されることを絵はニュースで知り、すこし緊張した気持ちで、普段店ではつけないラジオをつける。
1年前、最後の夜。仮にも情交をしている相手を前にして、詩子の据え膳も食うと言う。そしてその口で、国に婚約者を残してきていると宣う。ひどい男。
忘れて終えば良い。というより、思い出そうとしなければ良い。それだけなのに、たった10日間の短い日々を絵はうまく消化できずにいた。
インタビューを聞くのは、やはり樹はつまらない男だったと、確信したいためだ。頭でっかちで自信家の、つまらない専門馬鹿。
樹に失望することを期待して、チャンネルを合わせる。
瞬間、ラジオの向こうで、樹の無機質な声が響き、その違和感に思わず絵は笑ってしまう。
そうか、樹さん、お酒が入ると、声色が変わるんだなあ。仕事の時はこんなに真面目なの、知らなかったな。ふと、かつて共に談笑した樹を身近に感じ、胸がぎゅっと締め付けられる。
若い女性インタビュアーが樹に尋ねる。
「少しプライベートの話をしても良いですか?皆さん聞きたいと思うので。矢柄さんは昨年のメディア出演以来、若きイケメン専門家としてSNSで話題です。ご結婚のご予定はあるのでしょうか。」
結婚の予定?樹は結婚したのではなかっただろうか。まさかあの後破談になったのか。もしかして、自分のせいで…?様々な思いが駆け巡る。
「身に余る言葉ですね。結婚の予定はありません。ですが、いつか結婚をしたい人はいます。彼にかっこいいと言ってもらいたくて、週2日でトレーニングをしているんですよ。」
先ほどとは打って変わった柔らかな口調で話す樹に、インタビュアーは、明るい声でこう続ける。
「…とっても素敵なお話でした。お相手はこの放送を見ているのではないでしょうか?二人の幸せな未来をお祈りしていますね。」
「まだ身体を鍛えきっていないですからね。出来れば見ていないことを祈りますよ。」はは、と朗らかに笑って、樹は応える。
ラジオを切ると、絵は思わずしゃがみ込む。
こんなの、期待しない方が無理じゃないか。
どうしても心が躍ってしまう。
だけど、相手が自分とは限らない。もしかしたら、スポーツ選手とか…そういう相手なのかもしれない。さらっと男色家であることまで告白して…。でも、樹のことだから、単に面倒ごとを避けるために言っているだけなのかもしれない。
彼の気持ちを確認したい。もし同じ気持ちなら…すべてを投げ打ってでも、彼と共に過ごしたい。会いたい。
樹への連絡手段は何もない。このまま、会いにくるかもわからない樹を待ち続けるしかない。
さっきの放送は、どこの局だ?なんにせよ、またパリに来ているということではないか。だとすると、もしかしたら今夜…。
居ても立っても居られない思いがして、だけど気持ちを落ち着かせるために、箒と塵取りを持ち絵は店の外に出る。
夏のパリの明るい日差しに目を細め、顔を落として小石を掃く。
ふと、砂利道から店に向かってくる足跡が聞こえる。
蒐集家の方かな、絵は思う。
最近仕入れたアートは、先日売れてしまったばかりだからタイミングがあまり良くない。またトスカーナに買い付けに行く時期か。
足音はどんどんこちらに近づいてくる。
だけどもしかして、この足音が、愛しい人のものだったら。けどまた期待して失望したくない。怖い。
えい。どうにでもなれ。
意を決して顔をあげると、そこに一人の男が佇む。
絵の瞳に、きらりと光が宿る。
「Bonjour. Monsieur.いらっしゃいませ。」
Fin.
ともだちにシェアしよう!