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14話 結婚するんだ

 「こんばんは、樹さん。今夜はもう遅いから、いらっしゃらないかと思いました。」  「あぁ。明日の夜に発つから、色々と片付けていたんだ。」  「10日間…早かったですねえ。こうして毎夜お会いしているから、仲の良い隣人が引越しをしてしまうような気持ちですよ。」いつものように明るく話す絵に、樹の胸は揺れ動く。  「寂しいと…思ってくれるか。」ああ違う、こんなことを聞いても、絵は俺の求める応えをするに決まっている。  少しの間。  「ふふ。寂しくはないですよ。このお店には、偶にですけど樹さんのような旅の方がいらっしゃるんです。もちろん、こんなに毎夜ではないですけどね。」意外そうな顔をする樹に、悪戯に笑いかけてこう続ける。  「彼らとはその一瞬、共にお酒を飲んで、会話を楽しむ。だけど、そのほとんどは、もう二度とこの店にいらっしゃることはありません。だって、パリには素敵な店がいくらでもありますし、他にも世界中の素敵な場所が、彼らを待っていますから。僕は彼らが店に来てくれる間だけ、良い時間を提供できるように努めます。僕が彼らの心に残る必要もないですし、ましてや彼らを引き止めるなんて。」  だから寂しいと思っても、それを口にすることはないのだな、と樹は悟ると同時に、たった一人この街で生きる絵の強さに、切なさと愛しさを覚える。  しかし、毎夜情を交わし合った樹は、たった一夜酒を酌み交わしただけの旅人となんら変わりないのだと絵から突きつけられたことに気づき、言葉をなくす。  何か、何か核心に迫るような言葉をかけたい。それでいて自分勝手ではなく、絵の心をほぐすような何か優しい言葉を。でも、どうやって?明日にはこの街を去る自分が、一体何を?  珍しく長考をする樹を、絵は柔らかな眼差しで見つめる。  「樹さん、ねえ、何か楽しい話をしましょうよ。せっかくの素敵な夜なんですから。」ミモレットとクラッカーを載せた小さなプレートに蜂蜜を添えて、ことりと樹の前に差し出す。  樹は我に返り、ありがとう、と呟く。 ――――  他愛のない話をどれだけしただろうか。気づくと腕時計は深夜1時を指し示していた。  そろそろ、帰らなければ。結局、何も核心に触れることはできていない。だが、もはやそれでも良いのかもしれない。来年にはまたパリにやってくる。そこで、また何事もなかったかのように絵を訪ねれば良い。また共に酒を飲んで、互いに気が乗れば抱き合って。それだけのことだ。  伝えたい言葉をすべて飲み込み、樹はチェックを、と絵に伝える。  「Bonvoyage, Monsieru. さよなら。」  店の出口へ向かった樹を、絵は柔和な微笑みで見送る。  さよならだと?  今までに絵はそんなことを言ったことがあっただろうか。  良い旅を、だなんて。まるで永遠の別れのようではないか。  瞬間、樹はくるりと踵を返し、絵の一人佇むバーカウンターに舞い戻る。  「樹さん…、忘れ物?」  クロスでカクテルグラスを磨いていた絵が、心配そうに樹を見つめる。  樹は静かに絵の手からグラスを取り上げると、驚いて開きかけた絵の口元を塞ぐように強引に口付ける。  「どうやら、今夜が最後らしいからな。」  あぁ、この男が。 この誰よりも強引で自信家で、それでいて人一倍繊細で優しい男が。今はこんなにも欲しい。    「樹さん…、寂しいよ。今日も明日も、毎日会いたい。…一人にしないで。」  感情を溢れさせて樹の背中に腕を回す絵に、あぁ、ようやく本心を聞くことができた、と樹は思う。と、同時にこの街に絵を置いていくことしか出来ない己の立場に歯痒い気持ちになる。  絵をこのまま待たせるのか。いや、待たせたところで、これからの人生を共に送ることなどできるのか。パリと東京で。男同士で。試練は間違いなく多い。それを乗り越えられるのか。  樹は僅かな時間で一気に考えると、曖昧に微笑んで、絵にこう告げる。  「実は帰国したら、結婚をするんだ。…向こうの上司の娘と。…絵と過ごした時間はとても楽しかったよ。ありがとう。」    溢れ出た言葉を取り消さないといけない。  冗談だったと、おどけて見せないといけない。   おめでとう、と樹を祝福しないといけない。  好きな気持ちを手放さなければいけない。  いつものように笑顔でいなければいけない。  しなければいけないことの余りの多さに、絵は混乱する。  だけどどうして。こんなにも胸が痛い。            

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