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受難の幕開け

 昨晩2時前、ヴェラスコ・ヴィラロボスは帰宅途中に車でスカンクを轢いた。アウディの右前輪に長い尻尾を巻き込んで、駄目押しの如く潰れた上半身が、怨み晴らさでおくべきかと言わんばかりにフェンダーとタイヤの間に噛んでいた。何よりもその酷い匂い! 電話した保険会社のオペレーターにすら露骨に嫌そうな態度を取られた。  交通局の事情聴取を受け牽引して貰うので精一杯、せめて匂いだけでも何とか、いやまずは肉塊を車から引き剥がすのが先決だろうと考えてはみた。考えるだけで何も果たせず、疲労でくたくたの身体をベッドへ倒れ込ませたのが起床の2時間前。通勤に公共交通機関を使わなければならないので、いつもより30分早く家を出なければならなかったのも、倦怠を一層煽る。  タクシーを使おうかとの誘惑に打ち勝ったのは、基本的に動きの鈍った脳の中で、けれど妙に冴えているある部分が訝しげに首を傾げたからだ。この街の市長の下で働くようになって1年と半分。電車を用いて市庁舎まで通勤した事は皆無だった。  ヴェラスコが居を構える東地区のアパートメントからだと、バスを一回乗り換えて30分。そこから高架鉄道で更に30分。ICカードが家にあったのは奇跡だった。  そもそも、公共交通機関を用いて通勤通学と言う経験がない。シカゴ大学のロースクールで学んでいた時のように、ロードバイクなら少しは街との一体感を味わえるのかも知れないが──これは真剣に考えている案だった。この前ハリーに「最近顔が浮腫んでる、と言うか丸くなったか?」と言われた事、本人は考え無しで発してとっくに忘れているだろうが、ヴェラスコ本人はかなり気にしていた。  生まれ育った土地に、近頃ここまで疎外感を覚えている理由は一体何だろう。夜勤帰りらしい、放心して座席に腰掛ける妊婦の前で吊り革に掴まり、ヴェラスコは考え込んでいた。  イーリングの街は夏の太陽を迎え入れる準備を整えたばかり。からりとした朝の空気は、既に白い熱波のヴェールを一枚被せられたかのよう。高架から見下ろす市街地もまた、夢の中の光景の如く、露出過多に色褪せていた。  高みから眺める景色は味気なく、昔よりも薄汚れて見える。問題は、これを改善したいと発奮するのではなく、ただ漫然と緩やかな蔑みの眼差しで見下ろす日々が、当たり前と化している事だった。  いや、こんな所で慢心していてどうする。ここはまだまだ低地だ。空気ですら旨いとはとても思えない。空調もまともに効かず、ガムみたいな人工甘味料と人の汗の匂いがする染みだらけのシートを備え付けた車両は、8割方の混雑に陥っている。既にワイシャツの脇へ滲んだ汗が不快だった。  スマートフォンに向けて項垂れていた頭をふと持ち上げた。目を凝らした窓の外には、ブラウンストーン造りの古めかしく高級な住宅街や、こんもり涼やかな緑地公園が広がっている。けれど懐かしさを覚える風景の中、今や何よりも存在を主張しているのは、灰色の足場シートでクリスマスプレゼントよりも厳重にラッピングされた工事現場だ。  3つの州を跨ぐ高速鉄道の駅舎は、あと数ヶ月で改修を完了する。元々あった市交通局管轄の駅の中でも一番古く、大きな建物は、本来ダッチ・コロニアル式のなかなか格式のある建物だった。州のお役人が派遣してきた建築家に見せられた完成図だと、外観はそこまで大きく損なわれないようだが。  ぶっ壊せば良いんだ、あんな駅。そうすれば冬になるたび集うホームレスも、地域住民が投げる虫けらを見るような視線で自尊心をズタズタにされない。彼らを食い物にするドラッグの売人やポン引きの餌食になることなく、素直にシェルターへ来てくれる。  ヴェラスコが主導して立案した冬季一時宿泊所は、去年の冬しっかりと成果を上げている。毎年、テントで暮らす人々を訪問しては役所へ付き添っている両親も「誇りに思う」と言ってくれた。  何よりも、ハリーが己の進言と活躍で、市政者として株を上げることが出来たのが嬉しい。弱者を決して見捨てない市長。それこそ、ヴェラスコが求める存在だったし、きっと彼自身も、己がそうある事を望んでいるだろう。  「君は馬鹿だなあ」と言うハリーの所感には二重の意味が込められている。わざわざ混雑に揉まれてかったるい電車通勤を敢行したこと。そして己について夢を見ていること。 「僕も君もブルジョアの坊ちゃんだ。どれだけ胸を痛めても、それは同情に過ぎないんだよ」 「まあ、やらない善よりやる偽善さ」  苦笑して宥めるエリオットへ、ハリーは明らかに気分を害したような、傷付いたような眼差しを向けた。 「やってる事の是非じゃない。シェルターについては世間からも評価されているし、誇れるアイデアだったと思ってる。でも、だからって困窮している人々の事を理解したつもりになったなら、僕達はとんだ傲慢なボケナスさ」  ヴェラスコが言い募る前に「それは、君が昔からそう言う立場の人と身近に触れてきた事とは関係ない」と残酷な発言が続けられる。 「おう、もっと言ってやれ」  ありとあらゆる不穏な葛藤が渦巻いていると言え、珍しく市長オフィスは閑静な空気が保たれ続けると思っていたのに。エリオットの正面で、来客用カウチにふんぞり帰ったゴードンが嘴を突っ込んでくる。 「特にヴェラ、お前、スイスの寄宿学校行ってたんだろ。この街の事なんて殆ど知らない癖に」 「タシスへは7年生からの編入だから、殆ど短期留学みたいなものさ」 「短期留学ねえ。そういやエル、あんたスタンフォードのビジネススクール時代に、アルバイトを3つ掛け持ちした挙句奨学金をもぎ取って、サマースクールへ行ったんだろ。オックスフォード?」 「イートンだよ。ハイスクールの時」  「2度とあの国は行きたくない」とぼやくエリオットに、ゴードンはにやつきを隠さない。粉塵へ次々に炎が燃え移り巨大な火の玉となるかの如く、興奮を隠さない部下へ、エリオットは煩わしげな薄笑いを向けた。 「話したいんだろう? お前が猫で犬を殺した話」  こう言うお喋りに目のないハリーが、期待の眼差しを向けるのを、ゴードンは心ゆくまで味わった。とんと態とらしくマックブックのトラックパッドを指で叩いてから、厳かに穂口が切られる。 「イェールを目指してた頃、ライバルどもがみんなやたらとコンサータやアデロールを飲んでて、効率良く勉強してるもんだから……まあ連中はコネ持ちの家庭教師も雇って貰ってもその有様だから、真性のアホだったんだろうよ。でもうちは親父が、心療内科なんてもっての外だってな、ラビに相談しろとか言い出す始末さ」 「その話、セオドア・ドライサーみたいなオチ?」 「うるせえよ、ヴェラ。小遣いでダチから買うのも限界になってきたから、頭がぼんやりして集中出来ないって訴えたり、鬱のふりをして週末の親戚の集まりに行くのを拒否したり……最終的に、夕飯の席でいきなり、テレビ台へ飾ってあったフランソワ・ポンポンの猫のレプリカを窓に向かって投げつけたら、いつも家の前でクソしてたネオナチの飼ってるジャーマン・シェパードにブロンズ象が当たって」   「不幸自慢はやめましょうよ。うんざりだ」  先程から恐らく、同じ書類を3回以上出力し直しているモーが、手汗でくったりしたコピー用紙から顔を上げる。 「人間は産まれる時、身分を選べない。だからこそ、努力こそが最も尊いんです……市長もヴェラも、理解しようとしてる。それが大事でしょう」 「だがなあ、モー」  拙い取りなしを、まず破いたのは当のハリーだった。最近また大きくなったように思える尻をぼてっとデスクに乗せ、当惑した目つきの秘書をじっと見つめる。 「努力も才能だ。才能は運に左右される。それを全て手に入れて、やっと理解が出来る……海兵隊に入った全ての人間が、君みたいに勲章を5つも貰って名誉除隊したうえ、良い知遇を得て市長秘書になれたか?」 「結局、僕達は全員優秀で恵まれた資質を持つ、比較的社会の上澄にいる人間で、この世の春は有り難く謳歌しておけって認識で良いですか」 「さて、春はいつまで続くかな」  軽く腰を捻るだけでデスクが悲鳴を上げる。モーの気まずげで露骨な視線を身に受けながら、ハリーは笑顔を呑気なものに切り替えた。  首を振り、ヴェラスコは先程暑さの余り脱いだ上着からスマートフォンを取り出した。 「とにかく本当に災難で……見て下さいよ、スカンクを撥ねたら酷いとは聞いてましたが、ここまでなんて」  興味津々で画面を覗きに行くハリーやゴードンに投げかけられる、エリオットの「仕事してくれよ」は、雀の涙程の抑止力にもなりはしなかった。

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