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幸運を呼ぶ黒猫

「このキャラクター、嫌いなんだよな」  不意にハリーはそう口にした。ブラックコーヒーとスノーボールを乗せた盆を両手で固く握りしめ、慎重な身のこなしで執務室へ足を踏み入れたモーへ聞かせるようにして。  事実、聞いて欲しい気分なのだろう。あの偽装結婚騒動の後位からだろうか。ハリーは、「恩人」である秘書へ様々なことを話してくれるようになった。移動中に魔の信号機へ捕まった際、車内で気まずい沈黙を紛らわす雑談、ランチタイムの気楽でほのぼのした世間話、そしてピロートーク。内容は、些細で何気ない、個人的な話ばかり。世間だと「退屈」の一言で容易く一蹴してしまえるだろう。  けれどモーは、ハリーが自分自身を不用心に開陳すればするほど、今まで心の中からどうしても消えなかった不格好な緊張感が、少しずつ溶けていくのを感じた。  今コーヒーと共に供される、開発者の正気を疑う程甘い菓子をハリーが好むと知ったのも、市長オフィスのソファで羽目を外した際のことだった。事後の余韻へ浸るのも程々に身を起こし、汚れた下肢はタオルで等閑に拭われる(以前快感の余りハリーが失禁して以来、モーは大きなバスタオルを数枚、オフィスのロッカーへ備品として用意してた)下着も履かずにぶらぶらと秘書官のデスクへ歩み寄り、引き出しは漁られ始めた。  普段はガムや口臭消しミンツ、非常食のプロテインバー位しか入っていないそこへ、だいぶ昔ヴェラスコに貰った菓子が入っていたのは偶然だ、しかも良い類の。発見したときにハリーが浮かべた、無邪気な笑みと言ったら。セックスの後に食べ物を片っ端から口へ放り込むという、究極の興醒め行為も、全て帳消しになる。  あれ以来、市庁舎職員の福利厚生として休憩室へ常備されることになったチョコレートとマシュマロの悪魔的化合物は、マグカップがデスクへ乗せられるより早く盆から取り上げられた。ビニールの包装が破かれた途端、ピンク色のココナッツ・フレークが、広げられた書類の上へぱらぱらと零れ落ちる。  油染みの浮いた紙の束は、テーマパークの企画書だった。午前中一杯、オフィスの応接スペースで膝を突き合わせていた、運営会社の企画担当者が持参したものだ。  分厚いファイルの中、ぎっしりと埋まった文字の内容は、モーの理解の範疇にとても収まるものではない。けれど今開かれるページは、ほぼ全てがイラストで占められている。子供時代のモーは愚か、彼の祖父母も故国のテレビで、スペイン語に吹き替えられた番組を見ていたかもしれない、老舗アニメーションのキャラクターだった。  黒猫をモチーフにした一番人気の主人公を初めとして、他にも同じ制作会社のキャラクターが、あるものはロゴとなり、あるものはアトラクションのコンセプトとして用いられる。写真と見紛う精巧なCGの完成予想図は、素人目のモーから言わせれば、十分に童心と郷愁を掻き立てるものだった。  いや、ハリーは企画書に文句を言ったのではない。どこか小ずるさすら想起させる、闊達で溌剌としたキャラクターの上に落ちた食べこぼしの屑を払う手つきは粗暴過ぎる。さながらこのいたずらっ子を罰しようと平手打ちしたかのような勢いだった。 「と言うか、この会社のキャラクター自体がそこまで。確かにアニメは観ていたけど」 「でも、このテーマパークのテーマは『ブリック・ブラックキャット』でしょう」  嫌いならば一体全体、何故誘致なんか。モーの疑問は幸いすぐさま、投げやりに振られる手に続いて回答される。 「ここしか呼んでも来なかったんだよ。いっそオリジナルのマスコットキャラクターを一から作ろうと思ったが、最近は寧ろそっちの方がライセンス料よりも高いんだな、見積書を確認して驚いた」 「可愛いキャラクターなのに」 「へえ、君がそういう事を言うなんて意外だな」  激務の合間を縫ってジム通いに励む市長は、己が少し太りやすい体質であると自覚している。ストレスが溜まると食欲と性欲が亢進しがちな事と同様。短い逡巡の後、ハリーは2個入りの菓子のうち、一つを袋から取り出す事を諦め、名残惜しげにモーへ差し出した。 「可愛いだなんて」 「俺にだってそう言う感情はありますよ」 「君もテレビで観てた? 夕方の6時からだったよな」 「はい」  ディズニーよりも知名度が高くなく、『ファミリー・ガイ』よりもシニカルではない。恋人と電話しているアルバイトのシッターへ放ったらかしにされた小学生が観ていても害のないアニメ。こんな街に出来る遊園地のコンセプトにぴったりだ。親に連れられた地元の子供達が15分と列に並ばず、楽しい思い出を作る事が出来る。以前ハリーが語ってくれた夢の場所、そのものではないか。  どっと湧き上がった切なさはポジティブなものだ。渋い顔のハリーには申し訳ないが。 「君は猫が好きだからブリックの事もお気に召すだろうけど。僕はどうしても」 「そんなに嫌うなんて、何かトラウマでもあるんですか」 「トラウマだなんて……ああ、大袈裟に言い過ぎたよ。ピザの上のパイナップルみたいなものさ。別に食べれない訳じゃないし、弾いたりもしないが、眼の色を変えて手を伸ばすつもりはない」  またぽろぽろとココナッツが舞い落ち、柔らかいマシュマロに整った歯列が食い込んだ。はみ出したチョコレートはそっと慎重に摘む指先と唇にこびりつく。親指を行儀悪く舐めながら、ハリーは肩を竦めた。 「昔家で買ってたシリアルが、いつもブリックだった。僕はトランスフォーマーが良かったのに……あれ、どうしてだったんだろう。何回かねだったはずなんだが、いつも母さんは忘れるんだ」 「じゃあトランスフォーマーのシリアルを常備しておくよう、総務課に頼んでみます」 「よせよ。ただでも精神年齢が低いってデイヴ辺りに陰口を叩かれてるんだ。このスノーボールだって君が手配したんだろう」 「でも、お好きなんでしょう。市長なんですから、そんな事で遠慮する必要、何もないんですよ」  市長付秘書として辞令が出て一年半。己が未だ、業務面において、優秀と言い難い位置にいることを、残念ながらモーは嫌と言うほど自覚していた。  出来ることと言えば、心を込めてハリーに語りかけること。持てる力を総動員して尽くすこと──例え出力不足であったとしても。 「君は随分と僕を甘やかすんだな」  最後の一口をより純粋に楽しもうと言うつもりだろうか。マグカップからコーヒーを一口啜り、ハリーは呟いた。 「甘いものばかり食べたら太るじゃないか。そうでなくても新陳代謝が落ちる年齢なんだ」 「また運動すれば良いんです。それに、少し位柔らかくなっても、俺は好きです」  するりと飛び出した慰めが露骨に性的なものだと、気付いたのはハリーが目を逸らしてからのことだった。思わずモーも赤面し、手の中の菓子を圧搾しそうになる。それでも眼下でむぐむぐと決まり悪げに蠢かされる唇から目を逸らす事ができない。 「まだついてますよ」  チョコレート、と己の口元を指差しても、ハリーはちらと投げかけた上目を、また明後日の方向に向けた。彼が明らかに少し拗ねている理由は、分かるようで分からないようで…… 「自分じゃ見えない、拭いてくれ」  まずい、今すぐ嵌めたい。  速やかに勃起へ繋がりそうな下半身の興奮は、一度歯を食いしばり、それから大きく深呼吸することで何とか低い閾まで持っていく。これをハリーが、呆れの溜息だと勘違いしてくれる事を心底願った。  顎をつままれ、ハンカチでごしごしと擦られる事位想定してくれていても良さそうなものだ。赤ん坊の如くじたばたともがく身体を解放し、モーはさっさと踵を返した。 「甘いものが駄目なら、何か塩辛いものでも」 「その組み合わせが一番過食に繋がるんだ!」  喚かれる捨て台詞は、残念ながら執務室の外にまで届く。ゴードンと一緒に駄弁っていたヴェラスコが、手の中でぺちゃんこに潰れたスノーボールを見て眉尻を下げる。 「取り上げたのか? 厳しいなあ、ハートマン軍曹」 「食わせてやれよ。今日はこのまま、臍曲げっぱなしだぜ」  スターバックスのタンブラーをちゃぷちゃぷ言わせながら、ゴードンも首を竦めて見せる。 「何か分からんが、企画書に目を通してから微妙に不機嫌なんだよな。ブレイク・エンタープライズの担当者が不安がる位に」 「確かブリック・ブラックキャットが嫌いなんだって聞いたことがある」 「じゃあ何でテーマパークなんか作るんだよ、リグレー球場にジャッキー・ロビンソンの銅像建てるようなもんじゃんか」  理解出来ない、と首を傾げる男達の前で、モーは誇らしさをじっくり噛み締めながら、ぺちゃんこの菓子をゴミ箱へ放り込んだ。

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