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08. 嫉妬

「…直ちゃん、もう体調は大丈夫?」  次に目が覚めた時朝日さんの姿はなかった。心配そうに俺を見詰める清子さんがいて、ゆっくりと体を起こした。怠さも頭痛も引いているし、随分楽になった。 「はい。すみません、迷惑かけてしまって」 「……直ちゃん…無理してない?」 「え…?」  清子さんは俺の頭を優しく撫でなから心配そうに問いかけた。 「さっきの彼…αなんでしょう?」  彼女はとても優しい人だ。Ωである俺を心配しての言葉だろう。彼は俺の事が好きで、俺はその気持ちに答えられないまま有耶無耶な関係を続けている、だなんてとても説明できない。つい口籠もってしまうと、清子さんが再び口を開いた。 「…誰にも、何にも囚われる必要はないのよ。ただ…直ちゃんには誰よりも幸せになってほしいの」  優しい言葉に目の奥が痛くなる。 「ごめんね、お節介で。もう遅い時間だからゆっくり休んで」  それだけ残すと清子さんは部屋を後にした。別に後ろめたい事がある訳じゃないのに上手く言葉にできなくて俺は一人になった部屋で頭を抱えた。 *** 「じゃあ清子さん、これ車に積んでおきますね」 「ええ、お願い」  誕生日、結婚記念日、お見舞い、就任祝い。季節を問わず花束には多くの需要がある。勿論そのアレンジは用途別や個人の好みによっても異なってくる。お客様の希望に沿った花束を制作するのは楽しくてやりがいを感じる。何よりも完成した花束を見て喜ぶお客様の表情を見るのが好きだ。 「こんにちは」 「いらっしゃいませ…あ、朝日さん…」 「一週間ぶりだね、顔色もすっかり良くなったみたいで良かった」  そう優しく微笑む彼はいつもと変わらない様子だった。手に持っていた鉢を置いてから彼の元へと駆け寄る。 「はい。あの時はありがとうございました」 「ううん、気にしないで。それと今日は花束を作ってもらいたくて来たんだ」  いいかな、と距離を詰めた彼からはいつもと違う甘い花のような香りがして思わず足が引けた。彼自身から香る匂いとは全く異なった香り、合成香料の香りだったからだ。それもきっとこれは女性ものの香水の匂いだ。 「…どうかした?」 「いえ…何でもないです。えと、予算とか決めてますか?」  Ω故に、匂いに敏感なせいかもしれないが、わざとなのかと思うほどふわりと香るその匂いに、胸がざわついた。ここに来る前に女性と会ってきたのだろうか。俺に“好き”だと言っておいて他の女性にも同じような事を言っているのだろうか。 「予算は五千円くらいで。知人の結婚祝い用になんだけど、花はおまかせでお願いできるかな」 「わかりました。少しお時間頂きますね」  ホワイトローズや淡い紫と鮮やかなピンクのスターチス、トルコキキキョウ、カスミソウ。全体的に白を基調とした結婚式らしい華やかな花束に仕上げる。終始視線を感じたが、気付いていないふりをして作業を続ける。正直もやもやして落ち着かなかったがこれは仕事だと割り切って丁寧にラッピングを施した。 「…こんな感じで大丈夫ですか?」 「うん、凄く綺麗だ。ありがとう」  こんな笑顔を他の誰かにも見せているのだろうか。けれど、誰かと会ってきたんですかだなんて、今の俺には聞けはしない。彼の恋人でもないただの友人の俺には聞く理由がない。 「ありがとう、助かったよ」 「気に入ってもらえたなら良かったです」  気まずくて今はできるだけ早くこの人と距離を置きたい。しかし会計を終えても彼が帰る気配はなく、仕事に戻ろうと踵を返そうとした時だった。 「直、今日は何時までなの?今夜食事でもと思ったんだけど…」 「…えと、すみません。今日は…」  嘘をつくのはどうにも慣れない。何か言い訳をと考えを巡らせるが、上手く声が出ない。とにかくこんな気持ちのまま二人きりにはなりたくなかった。 「っ、」  俯いたままでいると、朝日さんがこちらへ歩み寄り額に大きな手が触れた。驚いて腰が引けそうになるが、体が硬直したみたいに動けなくなって息が詰まる。 「...熱は無さそうだけど、やっぱりまだ本調子じゃなさそうだね」  すぐに離れていく手に安堵しながらも、自身の呼吸が震えているのを感じる。 「直...?顔色が悪いね、今日は休んだ方が...」 「......匂いが、」 「匂い?」 「それ...香水ですよね、女性物の...」 「え?」  当の本人は全くの無自覚だったようで、驚いたように目を丸くしていた。 「えと...ここに来る前に取引先と商談してたから、その時に移ったのかな?ごめん、気付かなかったよ」 「匂いが移るくらい近くに居たって事ですよね?」  肩が触れ合ったとか、何かしらの接触がなければ匂いなんてそう簡単に移る訳がない。 「少し触れられはしたけど勿論彼女とは何もないよ。けど...確かに香水の匂いがキツい人だったな」  少し触れられた?その“少し”が彼にとってどれくらいなのかわからないが、触られた事実は変わらない訳で。 「俺と会うってわかってるのに他人の匂い付けてくるなんて、わざとですか?」  一度吐き出すと吹っ切れたように嫌味が口をついて出る。八つ当たりにも程がある。 「…ふふ」 「何笑ってるんですか?」  イラッとして振り向けば、朝日さんの表情に目を疑った。手で顔を覆っているが、耳が真っ赤になっている。 「ごめん、その…嬉しくて。直が俺の事こんなに気にしてくれてるなんて思わなかったから」  一連の言動を思い出して顔が熱くなる。こんなの、まるで自分から好きだと言ってるみたいじゃないか。こんな…まるで嫉妬してるみたいな…。 「わ、忘れてください…!」 「待って!」  逃げるように背を向けたが腕を掴まれてそれは敵わなかった。触れている手はさっきよりもずっと熱くて嫌でも意識してしまう。  彼は徐に上着を脱ぐと俺を優しく抱き締めた。身長差から彼の胸に顔を埋める形になるが、肺を満たす香りは彼だけの優しい匂いだった。ああ、落ち着く、俺の好きな匂いだ。 「あ、さひさん…」 「……ごめん、我慢できなくて。これならまだマシかな…?」  俺は猫のように擦り寄って小さく抱き締め返した。 「明日、夜空いてないかな?一緒にいたいんだ」 「…わかりました、付き合います」  もうきっと、俺は自分で思っているより彼の事が好きだ。

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