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見えない鎖がほどけるとき ⑥

「で? この件を常務独断で持ち出し、すでにトリアント(とりひきさき)との契約を打ち切った、いうことですか?」  専務執務室は省エネ温度の二十七度のはずだが、冷たい空気が流れている。  常務はそれを感じ取れないのか、足を大きく組んでソファに座り、デスクで座っている光也をせせら笑った。 「別に、独断というわけでもなかろう。全案件の業務管理は本来私の仕事だし、トリアントの足切りは決まっていたことだ。それをお優しい専務が決断に踏み切れないのを見かね、気を回しただけのこと。わざわざ専務のお手をわずらわせる必要もないだろうとね」 「確かに。私は最終の確認をして副社長、社長に届けるのみとなればこんなにスムーズな連携はありません」  光也が口角を上げる。だが、目元は笑っていない。 「……届けるのみ、でしたらね」  声が氷柱のように冷たく尖った。 「常務。トリアントの工場内マシンについてご自身の目で確認されましたか?」 「当たり前だ」 「では、トリアントの社長が亡くなる直前に購入されたマシニングセンタ(切削機械)についても、もちろん?」 「……は……?」  常務の太い眉が歪んだ。  トリアントは航空機部品の製造下請けを担う町工場だが、先代での倒産危機を乗り越え、四代目となる社長が奮起して事業再生を実現した中小企業だ。だがその社長が先月脳梗塞で急逝し、後継予定者が未成年であったことから信用が失墜。経営危機を迎えている。  KANOUが買い上げていた部品は質が少々落ちても他社から補えるし、そのことで他社同士を競合させるきっかけにもなる。KANOUとしてはコストダウンに繋がるとして、トリアントとの契約を切る方針を立てていた。 「藤村秘書、報告書を」 「はい」  光也からの視線を受け取った千尋は、報告書の必要箇所を瞬時に拾い上げ、読み伝える。 「トリアントのPL(そんえき)推移ですが、月次計算書によれば純利益が半期で昨年比百二十%上昇しています。社長の急逝により株価は下落していますが、精密部品加工のコア事業は十分な競争力を持っており、技術力には定評があったため、残製品の流通がある間は利益が見込めます。そして、社長は今季来季の利益を見越し、社運を賭けて最新型マシンの導入に踏み切っていました。こちらです」  千尋が資料を差し向けると、常務は剥ぎ取るように手に取って、凝視した。 「国内に一台しかないはずのAsuka2(アスカツー)だと!?」 「はい。ご承知のことと思いますが、その一台は叶グループの西日本工業が保有しています」  これ以上千尋が言うまでもない。希少価値と精密性の高い切削機械を二台、KANOUが独占することになれば、国内のみならず海外へ流通するシェア率と製品信頼度は飛躍的に上昇することになる。そこで光也は、トリアントの買収交渉を進めていたのだった。 「常務」  光也は変わらず冷ややかに声を発した。 「夫人もご子息も社の存続を望まれており、取引は難航しましたが、ようやくKANOUの傘下となる気持ちを固めておられ、あとは親戚関係にある役員……常務がこのたびやり取りをしていた部長ですね。彼の承認を待つのみでした。負債整理、退職対象の職員への対処等すべてKANOUが請け負っても、トリアントの精鋭エンジニアとAsuka2があれば、それらを上回る利益が見込めていたのです。なぜ最後の最後まで確認をされなかったのですか?」  常務の顔は青ざめ、脂汗が浮かび始めている。 「トリアントはすでに他社と契約を進めているかもしれません。この回収、大変な労力になりますよ」  光也が席を立つ。長い足をソファにゆっくりと運び、書類を握っている常務を見下ろした。凄まじい威圧感がある。 「さぁ、まずは副社長にご報告ください。それから会長(じいさま)に。非公式ではありますが、話はお伝えしてあったので……お叱りを受ける前に。ね、義兄(にい)さん?」  千尋には、笑顔の光也の背後にシベリアの豪雪地帯が見えていた。

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