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見えない鎖がほどけるとき ⑦

 常務が去った専務執務室で、千尋は電話をかける光也に見惚れていた。 (さっきの専務、かっこよすぎる。さすが"氷の貴公子"! あの冷たい目、冷たい口調……僕もちょっと叱られたい……) 「藤村君、先ほどから視線が刺さるのですが」  電話を切るなり光也が言って、千尋は背筋を伸ばす。 「はい。失礼しました! ……あの、電話先はトリアントですか?」  話の内容からして、トリアントの買収交渉は平和的に続いている様子だった。 「ええ。トリアントは今後優良企業に認定される見込みがありましたから、個人的に株を所有していたのですよ。もちろん下落後も購入を続けていました。そちらがあるため、どちらにせよ私の意向なしではトリアントが単体でM&A(合併・買収)を進めることはできないんです」 「えっ!」  光也の意向なしでは、ということは、どれだけの株比率を保有しているのか。それも個人資産からとは。  千尋は改めて自分のボスになった人間の手腕と財力に驚愕した。 「残りの株式譲渡に応じていただければ、無事買収成立です。私個人の持ち物からKANOUに所有を移すので、トリアントとしては四代続いた会社を手放す形にはなりますがね」 「でも、そうした方がトリアントの痛手は最小限に抑えられるんですよね?」  光也のことだ。(のこ)された一家についても、退職対象になる職員についても、十分な措置を用意しているはずだ。 「ええ。ですから、本当は常務が一方的に契約を切る連絡をしても、髪一本ほどの影響もありません」 「はあ……専務、意地悪ですね」 「トリアントを不安にさせたことは確かですし、そもそも常務は詰めが甘いのです。部下に、それも特定の部下に任せ切り、長く胡座をかいていたようですのでね。早急に反省して改善していただかないと」  にこりと笑む光也はどこか挑戦的でいて、サディスティックだ。 (はぁ……。やっぱりかっこいい……僕も、僕も何かお灸を据えられることを……!)  一流企業の社員たるプライドと、仕事に真面目な藤村の外面はどこへやら。  千尋はきょろっと瞳を動かすと、給湯室へ行きコーヒーを準備した。それを運びながらわざと手を震わせ、コーヒーをソーサにこぼしてデスクに置く。 「あっ! すみません専務、コーヒーをこぼしてしまいました」  ♢♢♢  「藤村君、何をしているんですか? スーツまで濡れてしまったじゃないですか」  秘書が零したコーヒーは、ソーサーだけでなく専務のスーツの袖口を汚してしまった。 「困りますね。……舐めて綺麗にしなさい」 「な、舐めて!?」  そんなまさか。秘書は首を振り、ポケットから自分のハンカチを取り出して袖口を拭こうとした。 「誰が拭けといった。舐・め・ろと言ったんだ」  専務の声が鋭くなり、ハンカチを奪われる。あっという間に手首を縛られた。 「専務、何をっ……!」 「ほら、そこにひざまずけ」  とん、と肩を押されてカーペットに膝が崩れる。  長い人差し指で顎をクイッと上げられ、濡れた方の手を顔の前に差し出された。 「う、うう……」   逆らえない。秘書は赤い舌をちろり、ちろりと出して、薄いコーヒーの味を口内に含んだ。 「いい子だ。では、こちらもだ」  ジジ……。  ファスナーを下ろす音とともに後頭部に手が回された。  閉じていた瞼を反射的に開くと、目前には滾った雄。凶悪なまでに怒張し、飢えた獣のように涎を垂らしている。 「そんな……! 私はそんなことはできませ……ん、んぐうぅ!」  秘書の反抗など無意味だった。専務は秘書の小さな口に己の欲を無理に突っ込んで────  ♢♢♢  「藤村君?」 「は、はい! あの、すみません。汚してしまって……」  久々の妄想劇場から戻り、光也を上目使いに見てしおらしく言ってみる。 (専務! 今です。叱って下さい!)  膨らむ期待のせいで、目なんか潤んできたかもしれない。 「ん? ああ……藤村君、飲み物を運ぶときはトレイを使うのですよ。それより、火傷をしなかったですか?」  光也の男らしい指が、千尋の細い指を撫でた。つつ……と、緩慢に。 (……ん? 何か、違う)  目を瞬かせると、光也は千尋の袖の中に指を滑らせ、艶っぽい視線で見つめ返してくる。 「このスーツ、とてもよく似合います。藤村君の雰囲気にぴったりですよ」  今日まで休暇申請をしていて公に出ることはないからと、出社前に光也がセレクトしてくれたのは、一番カジュアルなグレンチェックのスーツだった。  部屋でワイシャツのボタンをかけることから、ひとつひとつ光也が手出ししてきたことを思い出す。  光也はスラックスのファスナーを閉めれば腰を抱いて腹に頬を寄せ、袖口を閉めれば手首に口づけをし、ネクタイを結べば顔を近づけ、舌を出すよう千尋に言った。  そして千尋も素直に舌を出し、つつき合ったりなぞり合ったりして、立っていられないくらいに蕩けてしまった────あれを。 「ぅう」  恥ずかしさに声が出ない。  光也は思惑が叶ったとばかりに笑みを浮かべている。 (……はっ! これもこれで、ある意味"羞恥プレイ"では!?)  しかし、こういう甘いプレイには慣れていない。   「コーヒー、入れ直してきます!」  そのままコーヒーカップに手をかけようとした光也を制し、給湯室へ走る。  しばらくの間給湯室で胸の鼓動を鎮めないとならなくなり、結局コーヒーは出せなかった千尋なのだった。

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