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混迷と昏迷のあいだで ⑩

 このまま社員に捕まり、役員の前に引きずられるのか。  それとも、知らないアルファの餌食にされるのか。 「……こっちへ」  しかし、千尋の腕を掴んだ者の声は冷静で、かつチェロのような優しい響きの声色をしていた。また、千尋を引きずるのではなく、庇うようにして身体を支えてくれる。  オメガかベータだろうかと虚ろな目を動かすと、その人は作業服を着て、つばのついた帽子を目深にかぶっており、目元が隠れていて顔がよくわからなかった。  見える範囲の肌は透けるように白く、帽子から出ている髪はヘーゼルブラウンで、肩くらいまで長さがあるのか、後ろでひとつに結んでいる。一見外国の女性のようにも見えるが、千尋をかかえる体は華奢でも男性のものだ。 「あなたは……?」 「それはのちほど。先に安全な場所へ行きましょう」  その人は足に力が入らない千尋の肩を支え寄り添いながら、会社の地下駐車場へと向かった。 「ここなら安心です。抑制剤はありますか?」 「あり……ません……」 「困りましたね。私は番がいるから持ち合わせてなくて……」  その人は千尋を社屋地下の駐車場に連れてくると、ガーデニング会社の名が入った軽ワゴン車の後部座席に乗せてくれ、隣に座った。  どうやらオメガ男性のようだが、誰なのか、信用していいのか。警戒しなくてはならないのに頭ががんがんして、思考を巡らすどころではなかった。  だが感覚でわかる。この人は大丈夫だと本能が言っている。 「それなら家に戻った方がいいでしょう。送ります」 「だ……駄目です! 僕、帰れないんです!」  彼の「帰ろう」の言葉に、千尋はやるべきことを思い出した。 「駄目なんです。絶対に今日やらないといけないことがあるんです」  ペニスも後孔も心臓と同じリズムで脈打っているが、絶対に記録を持って帰らなければならない。  千尋はシートから背を離し、スライドドアに手をかけて車から降りようとした。 「待ってください。話してみませんか? なにか手伝えるかもしれませんよ?」  肩に手がかかる。辛い発情期の体に優しい声色と手のぬくもりが染みて、涙がひと筋こぼれてしまう。 「ね? 一人よりは二人の方が心強いですよ、きっと」  彼の帽子のつばは顔の上半分を隠しているので、やはり顔ははっきりとわからない。けれど緩やかに弧を描く唇や声の穏やかさに導かれ、千尋はこくんとうなずいた。 *** 「……なので、どうしても当時の社内の様子を撮影した監視カメラの映像がほしいんです」  発情期の症状は冷めやらないが、同じオメガだからか、彼といると少し冷静になれる。  千尋はここまで来た理由をかいつまみながらもきちんと伝えた。 「そう……。でも専務室の秘書とはいえ、一社員に監視カメラの映像は渡せないでしょうね。守衛はKANOUに委託された外部の会社ですし」 「でも、もう他に思い浮かばなくて。これしか僕にできることはないから、なにがなんでもお願いしようと思って来ました。僕はもう、うずくまってやり過ごすだけの自分に戻りたくないんです。僕は、自分の力でこの先の仕事を、未来を手に入れたい。僕を支えてくれる人に恥ずかしくない人間でいたいから、可能性のあることはやっておきたいんです」  膝の上でぎゅっと手を握ったあと、彼に頭を下げた。 「だから、行きます。今なら症状も少しおさまっていますから」  再度ドアに体を向け、ドアハンドルに手をかける。  行くなら今しかない。助けてくれたこの人は会社に出入りしている業者だろうから、調べればお礼は後日できる。 「……それなら私が力になります」 「え?」

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