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第1話
初めてコマンドを実行したときの感覚が忘れられない。ふっと足の力が抜けて尻が床についたとき、背中からぞくぞくと何かが這い上がってきて身体が震えた。ただ床に座っただけなのに、しょうちゃんは顔を綻ばせて俺の頭を撫でた。しょうちゃんの手が、声が、表情が、俺の心を満たしていく。
あれは、高校１年生のとき。入学したてでまだクラス全員の名前と顔が一致していなかった頃だ。慣れない環境でのストレスも相まって、連日身体の不調に悩まされていた。
「三井、こっちおいで」
身体が重い。頭痛がする。机に突っ伏していた俺に声をかけたのがしょうちゃんだった。そのときは彼がまだ「しょうちゃん」であること気付いておらず、俺の不調に気付いたクラスメイトが親切に保健室へ連れて行ってくれるのだと思っていた。
連れて来られたのは、空き教室。何かおかしいと思いながらも、後に続いて教室に入ると、すぐにドアを閉められた。
「おすわり」
しょうちゃんの声を聞いた途端、ふっと足の力が抜け、一瞬重力から解放されたような感覚があった。
「……え？」
目前には、しょうちゃんの膝があった。気がつけば、床に座り込んでいた。
「やっぱりSubだったか。よしよし、偉いぞ」
理解が追いついていない俺の頭を、しょうちゃんが両手でわしゃわしゃと無造作に撫でた。「え、待って。どういうこと？」
「俺Domなんだ。自分の第２の性がわかってないわけじゃないだろ？」
「そう、だけど……」
彼はDom。俺はSub。彼に命令されて、身体が命令を実行した。ただそれだけのことだが、この状況を飲み込むのに時間を要した。Domの命令を受けるのは初めてだった。
「おーい、大丈夫か？」
声をかけられてハッとする。空き教室の床に座り込んだまま放心していた。しょうちゃんが俺の顔の前で手を振っている。
「立てる？」
しょうちゃんに手を差し伸べられ、その手を取った。ぐいっと力任せに引っぱられるが、腰は浮くものの足に力が入らず立ち上がることができない。
「腰が抜けちゃったか。まぁいいや」
パッと手が離され、俺の腕はだらりと床の上に落ちた。どうしよう。ピクリとも指が動かない。このままじゃまずいと危機感が募るが、身体に力が入らない以上どうすることもできない。それに、なんだかソワソワして心が落ち着かない。
しょうちゃんが埃っぽい机の上に座り俺を見下ろした。逃げられない状態で、今度はどんな命令をされるのだろう。
怖いはずなのに、どこか期待している自分がいる。
自分の気持ちに整理がつかず混乱している俺とは対照的に、しょうちゃんはどこか楽しそうな表情を浮かべている。
「明生くんだよね。俺のこと覚えてない？」
「は？」
しょうちゃんがじっと俺の顔を見つめる。正直それどころではないが、期待の眼差しでじっと見られて無視できるものではなかった。
しょうちゃんの顔を見つめ返し記憶を探る。こいつの名前は確か、鈴鹿。下の名前は覚えていない。鈴鹿という名字には覚えがない。どんどん険しくなる俺の顔を、しょうちゃんはニヤニヤしながら見下ろしている。
「あれ、もしかしてしょうちゃん！？」
ふっと思い浮かんだ名前を口にすると、しょうちゃんがパッと表情を明るくさせる。右目の下のホクロに見覚えがあった。
小学生の頃、よく一緒に遊んでいた渡辺庄一くん。小学３年生の頃だったか、親の都合で転校してそれきりだった。
「やっと思い出してくれた。いつ気付くかなって思ってたけど、全然気付く気配ないんだもんな」
「だって、名字が違うから」
「親が再婚したんだよ。それより、また会えて嬉しいよ」
しょうちゃんが転校するまで、一番仲良しの友達だった。今日までご無沙汰だったのは、文通が２、３回で絶えてしまったからである。小学生時代の友情とはそんなものだ。相手が昔の友人と知りいくらか緊張感は和らいだが、それにしてもずいぶんと印象が変わった。
「明生くん、もう一回俺の名前呼んで」
一瞬、身体が強張った。しょうちゃん、と口が勝手に動いた。
「この間、鈴鹿って他人行儀で呼ぶんだもん。こっちの方がいい」
しょうちゃんが嬉しそうだと身体がゾクゾクと高揚した。この感覚は何だろう。
「じゃあ、眠って！」
パン、としょうちゃんが手を叩く。目の前が真っ暗になり、身体が前に傾いた。
「おいおい、マジかよ……こんなにコマンド効きやすくて大丈夫かな」
眠りに落ちる寸前、しょうちゃんの声が遠くに聞こえ、ふわりと身体が浮いた感覚があった。
突然けたたましい音が鳴り、ビクリと身体が反応する。反射的に枕元にあったスマホに手を伸ばし、アラームを止めた。
二度寝をする前にむくりと上半身を起こす。眠い。身体がだるい、重い。しっかり寝たはずなのに寝た気がしない。それでも身体に鞭を打ち、ベッドから足を下ろす。今日も仕事に行かなければならない。
ヒトには男女の他に第２の性が存在する。Dom、Sub、Normalの３種類。支配する性のDomと、支配される性のSubと、どちらにも属さない性のNormal。
Domが命令し、Subが実行する。DomとSubはこのやりとりを通して支配欲と被支配欲を満たす。これは本能なので、欲求が解消されないとストレスが溜まり心身共に不調を来してしまう。
今の俺のように。欲求不満になると、決まって初めてコマンドを実行した時の夢を見る。
その点、NormalはDomとSubのようなコミュニケーションを必要とせず、個として独立している。なぜ大多数の人間は免除されているのに少数のDomとSubはこの呪縛に囚われないといけないのか。思春期の頃は自分の性を呪ったものだが、おとなになった今はもう、考えるだけ無駄だと割り切っている。
重い足取りで自室を出て階段を降り、真っ先にキッチンへ向かった。母さんが台所に立っており、制服を着た弟が朝食をとっていた。父さんはすでに出社している。
「冬也、ちょっとだけ頼むよ」
テレビを見ていた冬也がこちらに顔を向ける。瞬時に察してくれたようだ。
「兄ちゃん、まずは「おはよう」でしょ？ 言って」
冬也が冷たく言う。年の離れた弟に睨まれて、ゾクリと身体が反応する。
幸か不幸か、冬也はDomだ。ただ、冬也はしょっちゅう不調を起こす俺とは違って、Domの欲求不満で不調になったことは今までない。DomとSubにも個人差があり、冬也のようにほぼNormalと変わらずに生活できる者もいれば、俺のように相手が欠かせない者もいる。
「おはよう、冬也」
「おはよ。じゃあ、おすわり」
言われるがままに冬也の前、床の上に膝を折った。弟の顔を見上げ、次の命令を待つ。
「よくできました」
冬也が俺の頭を撫でた。それだけで嬉しくてたまらなくなる。もし俺に尻尾が生えていたら、ぶんぶんと左右に振っていただろう。いっそ、冬也の犬になりたい。冬也の足に寄りかかり、多幸感を噛み締める。恥やプライドを捨てて一切を相手に委ねることは、とても楽で心地好い。
上司と部下、主人と奴隷。人間の社会はいつの時代も支配する者、支配される者で構成されている。まだまだ第２の性については明らかになっていないことが多いが、Sub性は縦社会に適応するために進化した性だと考えられている。
「牛乳空になっちゃった。淹れてきて」
マグカップを受け取り、すぐに冷蔵庫へ向かう。先ほどまで身体が重かったのが嘘みたいに足取りが軽い。
牛乳を入れたマグカップを冬也の前に置き、また床に正座した。
「ありがとう」
褒めて貰えるかと思ったら、フォークに刺したブロッコリーを突きつけられた。
「はい、食べて」
顔をしかめ、おずおず口を開ける。冬也が半笑いで無理矢理をねじ込んできた。口を閉じ、咀嚼する。今日のものは茹ですぎで半分溶けており水っぽい。塩味が効いている分まだマシだが、そのせいでブロッコリー本来の甘みが強調されている。
ブロッコリーは昔から嫌いだった。今日みたいに茹ですぎているとドロっとしていて変な甘みがあるし、茹でが甘いとパサパサしてこれはこれでおいしくない。
冬也は俺がブロッコリー嫌いと知っていて食べさせてくる。そして、俺の反応を見て楽しんでいる。
「よくできたね。偉い偉い」
ブロッコリーを飲み込むと、ようやく冬也に褒められた。嫌いな野菜を食べて頭を撫でられるなんて幼稚園児みたいだけれど、悔しいことに悪い気分ではない。むしろ気持ちよくて、足を崩し冬也の足に体重を預けて甘えた。
「兄ちゃん、そろそろ着替えてご飯食べないと時間まずいんじゃない？」
我に返った時には、頭が冬也の膝に乗っていた。
何事もなかったかのように立ち上がり、席に着く。手を合わせていただきますを言う。目の前には母さんが用意してくれたご飯と味噌汁があり、少し冷めていた。
傍から見れば、先程の俺と冬也のやりとりは異常だろう。最初は怪訝の目を向けてきたNormalの母さんも、今は慣れたもので見なかったことにしてくれている。
「今日しょうちゃん会ってくれるって？」
「うん、大丈夫だって」
しょうちゃんが転校する前は、よく冬也も含めて３人で遊んだ。正確には、冬也が俺の後をついてくるので仕方なくしょうちゃんと相手してやった。冬也はまだ小さかったが、しょうちゃんのことは覚えているらしい。
しょうちゃんとは高校で再会した後、同じ大学へ進学して就職でまた別れた。俺もしょうちゃんも地元に残ったので、たまに連絡を取り合いたまに会ってガス抜きに付き合ってもらう。
DomとSubのコミュニケーションは、相手がDomなら誰でもいいわけではない。Subの意見としては、少なくとも信頼関係がないと相手に身を委ねることはできない。
冬也に相手をしてもらう時、安心して身を委ねられるけれど緊張感が得られないという点では物足りなさがある。逆に、冬也は身内ではやりづらいらしく俺に対してDomとしての支配欲求は湧かないらしい。応急処置にはなるが、残念ながら相性がいいとは言えない。
「冬也はいいよな。相手がいなくても症状が出なくて」
卵焼きに箸を伸ばす。うちの卵焼きは甘め。砂糖の量は母の匙加減なので、毎度甘さが違う。テレビには地方の交通事故のニュースが流れていた。
「あ、言ってなかったっけ。相手できた」
何事もなかったかのように、あっさりと冬也が言う。
「Subの彼女ができた」
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