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●一章 

●一章   兄との一件からひと月が過ぎた。あれ以来、兄はふらふらと気紛れに部屋に来ては性行為を求めてきたり、かと思えば何もせずにただ一緒に眠ったりと自由奔放に過ごしている。俺はというと、変わらず使用人としての日々を過ごしている。  兄との時間が交わるのは小休憩を取ることが出来る夕刻と、それから深夜、村の人間が寝静まった時だけ。兄が訪ねてくるときは、軽い床の軋む音が合図だった。ぎい、ぎし、と気を使いながらも古びた床板に響く自然な悲鳴が耳に入れば、そっと襖が開かれる。セックスをする時はいつも、兄が下準備をしてくるからか着物が乱れているし、そうでない時はかっちりと肌を隠している。  今夜はどうやら後者のようで、兄は静かに布団の空いたスペースに侵入し、くうくうと寝息を立てている。下瞼の中央にあるホクロをゆるりと撫でれば、小さく呻いて身じろぎする。  兄が何をしたいのか全く理解が出来ない。昔から何を考えているのかよくわからない人だった。表情に喜怒哀楽が現れにくく、感情を表に出したところも数える程度にしかない。 「俺には、アンタが何をしたいのか分からない」  頬を撫でながらため息を吐いて兄に背を向けて転がる。日が明けるほんの少し前に目を覚まして部屋から出ていくであろう兄は相も変わらず無防備にくうくうと寝息を立てている。俺がどんな気持ちでいるかも知らないで。  翌日、屋敷内はてんやわんやしていた。どうやら、創造神が予告なく兄を訪ねて来たらしい。理由を問いかけても丸無視であることからなにかお怒りなのではとざわついている。  俺はというと、生きた心地がしない。兄との一件で、創造神の怒りを買うだろうことは分かっていて、その矛先が自分であればよいのだが、恐らくそれは間違いなく兄に向かうだろう。乱暴に抱かれるか、はたまたすぐにでも連れていかれるか、あるいは八つ裂きにされて殺されるか。兄に待つ運命を考えれば、あの瞬間に兄を止めていればよかったのだと後悔が湧きたつ。しかしながら、当の兄はというと、平然と素知らぬ顔で茶を飲み、厨房で村長と話をしていた。 「澪桜、創造神様が急に訪ねて来られるなど滅多にないことだぞ? 身に覚えがあるなら言いなさい。ああ、いや、それよりも早く、客間に行かないか? 創造神様は首を長くしてお待ちだ。かれこれもう三十分も待たせている。早く行ってくれないと困るのだ」 「待たせておけばいいじゃないですか。どうせ、向こうは限りのない命なのですから」 「澪桜……っ」  兄は静かに言い放ち、また茶を一口飲む。物静かなその仕草に村長は肩を落とした。その様子をじっと見ていた兄はため息を吐く。飲んでいた茶を台に置いて立ち上がる。部屋を出ようとしていると分かって慌てて身を潜める。ほっとしている村長に見えないように口元に薄く笑みを浮かべた後、そのまま静かに客間へと向かった。 「待ちわびたぞ、澪桜」 「そうですか、それはどうも」  つんと冷たい態度を崩さずに、兄は創造神の隣に腰を下ろした。素っ気ない返事に村長が顔面を蒼くしているが、創造神は対して気にした素振りもなく、むしろ楽しそうに笑っていた。 「相も変わらず可愛げのない男だ」  兄の無礼に対しては慣れた様子で、出された高級菓子を口に運ぶ。兄が来て機嫌をよくしたようなその姿に同席していた村人たちはどこかほっとした顔をしていたが、しかし次に神が放った言葉で重たい沈黙が下りた。 「素っ気ないのもいいが、ひとつ説明を貰おうか。どうして私との約束を破った?」  ぴりっと空気が張り詰める。息を呑む村人を気にも留めず、兄はなんのことやらと首を傾げた。創造神は先ほどまでの笑顔を潜めて、剣呑な空気を隠しもせずにさらに問いかける。 「何故、私以外に身体を許した、と聞けばよいか?」 「……さあ、なんの話でしょうか」 「存ぜぬふりを続けるならその身体に問うてもいいのだぞ、澪桜」 「…………最低」  軽蔑したように顔を歪めて、兄はため息を吐く。やはり神は兄が既に誰かに抱かれたことを察知したらしい。わざわざ村に降りてきたのだから兄も分かっていたことだろう。ざわつき始める村人たちを他所に兄は不機嫌そうに問いかけた。  「それで、俺が決まりを破って誰かと寝たと言ったらどうするおつもりですか」  「べつにどうもしないさ、お前が素直でいてくれればな」  神はくすくすと笑いながらグラスに入った赤いワインを一口飲んだ。不機嫌そうな兄の髪の毛を指先で擽って鼻歌を口にする。それに神経を逆撫でされているのか、兄の眉間の皺は深くなるばかりだ。  兄は暫くの間沈黙を貫いたが、やがて諦めたように深くため息を吐いた。同時に眉間の皺も少し緩まる。そうして全員が兄の口から零れる言葉に耳を澄ませていれば、その小さな唇はとんでもない一言を告げた。  「趣味の悪いクソ野郎に抱かれる前に、好いた男に抱かれることは悪いことでしょうか」  沈黙。皆が目を丸く開いて口をあんぐりと開けている。村長なんかは手に持った湯呑みを傾けすぎて中身が零れている。余りの衝撃に誰も口を開けないでいれば、ぷっと吹き出す声がした。その方向に目を向ければ、創造神が肩を震わせている。 「またお前は身も蓋もないことを言う」  けらけらと笑うその神に兄は心底不服そうな顔で、あなたほどではないですと切り捨てる。くつくつと笑う男神は暫くそうやって笑い転げていたかと思えば、すっと目を細めて冷たく言い放つ。 「本当に、思い通りにならぬ奴だな」  創造神、イル=アトスの剣呑な空気に村人は息を呑む。平然としているのは兄だけで、俺も背筋に嫌な汗を掻いている。言いつけを破った兄に怒りを示すのは当然だが、コロコロと空気が変わりすぎて余計に真綿で首を締められているように感じる。 「貴方の言う通り、番を産めば別に何をしたっていいでしょう。夫婦でもあるまいし」 「それは最もではあるが、そもそも私の番が死んだのはお前たち人間から成りあがった薄汚い存在に穢されたからだ。二度も奪われるのは勘弁願いたい」 「…………俺は貴方の物ではないですけれど」 「その生を与えたのは俺だ。願いだって叶えてやっているだろう。これ以上何を望む?」  はあ、と大きくため息を吐いて兄は目蓋を閉じて茶を口に運ぶ。不遜な態度の神を嫌っているのか、兄はそれ以降神が何を問いかけても答えることはなかった。機嫌を悪くするなと甘く囁き、その肩を抱き寄せても眉一つ動かすことのない兄に、やがて神の方がやれやれ強情な奴だと肩を竦めて見せた。  はた、と神と視線が交わる。切れ長のその瞳は真っすぐにこちらを射貫いて、そして、ゆっくりと唇が動く。はっきりと、音を立てずに告げられたそれはー……。 「用が済んだなら帰ってください。迷惑です」  ふと、兄の声が静寂を切り裂いて、意識が引き戻される。どれくらいの間ぼうっとしていたのか、動揺する俺はちらっと兄に視線を向けた。ばちりと視線がかち合うが、むすっと頬を膨らませた兄はぷいっと視線を外して席を立つ。どこへ行くのかと問いかけようとしたが、その質問は神に先を越される。不服そうな兄はお手洗いですとぶった切って部屋を出ていってしまう。  部屋に残されたイル=アトスは愉快そうに笑って、「用も済んだし、そろそろお暇するか」と立ち上がった。見送りに慌てる村長たちを手で制して、神はすっと長い指を差す。 「今日の見送りはお前に頼むことにしよう。確か……、ああ、伊織と言ったか」  びくりと肩を跳ねさせた俺に神はくすくすと笑って、そう警戒するなと身支度を整える。いつもは精霊と呼ばれる小さな使いを侍らせているが、今日はそうではないようで、部屋を出ていく神を追いかければ、二人きりで廊下を歩くこととなる。  神は鼻歌を歌うばかりだ。先程まで兄が挑発していたのにも関わらず機嫌がよさそうな彼に対して、俺だけが不自然に緊張している様はさぞ滑稽だろう。じんわりと滲む手汗を誤魔化すように袴の布を握る。喉が張り付いて気分が悪い。ぐちゃぐちゃに胃の中を混ぜられているような不快な空気を感じていれば、神が鼻歌を歌うのを辞めた。 「緊張しているのか? 兄のように噛み付いてくるかと思ったが、お前は物静かなタイプなのだなあ」  イル=アトスはそう言ってけらけらと笑い、足を止める。急にどうかしたのかと彼を見ようとした瞬間に、手首を力任せに引かれて体勢を崩す。そのまま身体を誘導されて、壁に背中をぶつけた痛みで顔を歪めていれば、神は小さく囁いた。 「私の可愛い孕み胎に手を付けたのはお前だな? いや、澪桜に誘惑されたというべきか?」  ぎくりと身を固めれば、神は口元に浮かべた笑みを崩さず、そのまま続ける。 「そう怯えるな。アレが自由すぎるのがいかんのだ。可哀想にな」  頭をぽんぽんと撫でた後、しばらく俺の顔をじろじろと観察していた神が、ゆっくりと顔を近づけてくる。唇が重なる直前にはっとして慌てて顔を逸らすと、耳元を生温かい感触が這う。ぬるりとしたその感触に背筋がぞわりと粟立つ。 「口付けを避けるためとはいえ、不用意に急所は晒さぬ方がいいぞ、伊織」  吐息交じりの声がそう囁いてゆっくりと身体が離れていく。その意図を理解できないで混乱する俺を嘲笑うように神は背を向けて歩き出した。先程よりも距離を取ってその後を追う。兄も、この神も、何を考えているのかさっぱりだ。  神が村長の家の庭に張った自らの住処へと繋がる門の前までくると、彼はここまででよいと笑って白く光るその先へと消えていく。主が潜り終えると、キラキラと光っていたそこは輝きを失い、透明な膜がすっと薄れて、アーチ状の額だけが残される。しばらくそこを眺めていれば、とたとたと騒がしい足音が近付いてくる。そちらを見れば、兄が心配そうな顔で走り寄ってきていた。 「伊織……っ、何も、なにもされていないか?」  慌てた様子の兄は先ほどの仏頂面はどこへやら、心配そうに頬に手を添えて俺の目を覗き込んでくる。大丈夫だと笑って見せれば、兄はほっと息を吐く。 「あの男を一人で見送りしていると聞いたが、なにか話したのか?」 「…………いや、なにも」 「……そうか、それなら、いいのだけど」  探るような目に答えに詰まってつい誤魔化してしまう。いつも神は、兄と村長を含めた複数の村人に見送られる為、俺が一人で見送りに出ていると聞いて慌てていたのだろう。頬が少し赤らんでいた。安心させるように世間話をしただけだと言えば、兄はふっと顔を緩める。面倒な相手だから、今度からは拒否していいんだからなというと、茶を飲もうと俺の手を引いた。  嗚呼、もしも……、もしも世界が狂っていなければ、この先の結末で、誰も地獄に堕ちる必要はなかったのだろうか。

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