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二十一 そんなわけないのに。
隣の部屋に帰ってきた気配を感じて、俺は壁にかかった時計を見た。どうやら門限ギリギリまで兄と話していたらしい栗原に、声をかけようかと思案する。少しだけ迷って、俺は結局栗原の部屋の扉を開いた。
「栗原ー。帰ってきた?」
「……先輩」
疲れた顔をして、栗原が顔を上げた。勝手知ったるで上がり込み、ベッドに座る栗原に近づくと、栗原は腕を伸ばして腰にしがみついてきた。
「わっ」
「疲れちゃった」
腹に額を擦り付けてそういう栗原に、つい髪に触れて優しく撫でてしまう。栗原がくすぐったそうにして顔を上げた。
「先輩?」
「あ、ごめん、つい」
「ううん。それ、気持ち良いから」
そう言って、瞳を閉じて頭を差し出す。俺は一瞬、躊躇したが、手を伸ばして頭を撫でてやる。ふわふわした髪が気持ちいい。
「大丈夫? 家のこと?」
「いや、そういう訳じゃないですよ。何も起きてないんで……ただ、亜嵐と話すと疲れるんです」
俺は栗原の頭から手を離し、隣に座った。ベッドが沈み込み、ギシと音を立てる。本当は男二人が乗るべきではないのかも知れない。
「亜嵐は少し――周囲が見えていないタイプというか。まあ、芸能人なんてそんなもんなのかも……だから、話していて疲れるんですよね」
つまり、空気が読めないヤツってことだ。確かに、芸能界みたいな場所に居られるのは、ある程度鈍感だからなのだろう。まあ、偏見だが。
「そうなんだ」
曖昧な返事を返しながら、なんとなく栗原は、兄との煩わしさから逃れるためにも、寮生活を選んだのかも知れないと邪推してしまった。
(寮は楽だって、言ってたもんな)
「まあ、仕事で行き詰まったみたいです。相談できるのが俺しか居ないみたいで」
「頼りにされてんじゃん」
からかうようにわき腹をつついてやると、栗原はから笑いして溜め息を吐いた。相当、疲れたらしい。
「まあ、もう寮に来るなって言ったんで」
「そうなの? まあ、来てもらっても、入れないしね……。電話して来れば良いのにね?」
「あー。俺が面倒がって避けるの、わかってるんですよ」
「はは」
栗原の様子に、苦笑いする。兄弟仲が悪いと言うことではないようだが、栗原にとっては心底面倒なようだ。
「そもそも、相談なんか要らないんですよ。亜嵐は大抵、ウダウダしてるだけで自分で解決しちゃうんで」
「それでも、聞いて欲しいんじゃないの? 栗原は特別な存在なんだからさ」
手を伸ばして、栗原の手に重ねる。栗原がこちらを見た。
「……鈴木先輩」
「ん?」
なんだろう? そう思ってじっと顔を見つめていると、なぜか栗原の顔が近づいてきた。頬に手を添えられ、ドクンと心臓が鳴る。
額に、栗原の前髪が触れた。
「――」
ドッ、ドッ、ドッ。
心臓が、急速に速くなる。手が熱い。息が、頬にかかる。
「く――」
「先輩」
栗原は急に視線を逸らして、パッと身体を離した。
「遅くなっちゃいましたね。俺も、シャワー浴びないと」
「――あ、うん……。俺も、そろそろ戻るね」
「お休みなさい、先輩」
フワリと、蕩けるような笑みでそう言われて、俺はぎこちなく「お休み」と返して部屋を抜け出した。
自分の部屋に帰り、動揺したせいでもつれた足に引っ掛かり、その場に座り込む。
「―――」
まだ、ドキドキしている。顔が熱い。
(――キス。されるかと、思った……)
そんなわけないのに。
そんなはずないのに。
栗原の柔らかそうな唇が、俺の唇に触れたがっている気がして。一瞬、その妄想に囚われて。
酷く、俺を混乱させた。
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