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第1話

三月三十一日、この日の郵便局はせわしない。 「えーこのたび……」 第一集配営業部長以下課長や主任が移動するということで忙しい結束の時間に局長が転出者の紹介をしている。 部長は人望がなく、怒鳴ってばかりの無能と言われていたこともあり、誰も出ていくことを喜ぶ目で挨拶を気のない拍手で見送ると、急いで作業を始めた。 「おい、石原」 呼ばれた俺が振り返ると、班長が申し訳なさそうにこちらを見た。 「今日も頼めるか」 「ま、しゃーないですね」 俺より一年早くにバイトに入った重さんは、配達率が悪く、今日みたいな七割の日でも超勤をしてくる。 「重さん、夕方電話するから」 「あ、ああ……」 これで同じバイトで同じ給料だからイヤになる。そう思いながら俺は自分の準備を始めた。 「よし」 点検をするとゆっくりバイクを走らせる。 道路に出る前に点検があって、一時停止やその他見られるのだ。 一時停止線で停止してバイクを走らせると、春休み中でうろつく子どもの飛び出しに気を使いながら、最果てのアイランドシティへとバイクを走らせる。 近年開発されたこの地域は高層マンションが次々に建設されていて、海に面していることもあって季節によってはバイクがおしもどされそうになるような風が吹く。 「こんなとこ、住む人がいるのが不思議だよな」 そうぼやきながら集合ポストに郵便を入れていく。 マンションの多い場所は書留以外は集合ポストで済むのが楽だと思う。 時折ある書留やポストに入らない定形外を持ちあがるため昇り降りしながら、午前中の配達を終えると、局へと戻った。 「ふぅ……」 ヘルメットを外して息を吐くと、局の近くの商業施設に向かうと総菜を買って、家で炊いてきた白米の入ったタッパを開いて休憩室でかきこむ。 「石原って、おかずより米だよな」 「いいじゃないですか」 「まあ、若いと腹が減るよな」 でかもりシリーズのカップラーメンを食べる職員たちから笑う声が聞こえて、塩分過多にならないようにだよ、と内心突っ込んでおく。 「じゃ、昼からも頑張るか」 「明日からくる部長がマシな人だといいな」 部長なんて誰が来ても変わらないだろう、そう思いながら、白米をかき込んだ。 四月一日、出発の準備をしていると、局長が新しい部長と共に降りてきた。 「えー、今度一集の部長になる、鴨原君だ」 「鴨原です。集配は二年ぶりですが、よろしくお願いします」 聞きほれてしまうような声に思わず伸びあがると、紺のストライプのスーツを着たイケメンがいて思わず「うわ」と小さな声が漏れた。 直ぐに部屋を出て行った背中をぼんやりと見ていると、バンと背中を叩かれた。 「石原、今日も頼む」 「分かりましたって」 止まっていた手を動かしていると、隣の班から声が聞こえてきた。 「部長って、前ここにいた、あの鴨原?」 「やっぱり?わー、やりにくいな」 前の同僚が部長なのはやりにくいのか、そう思いながら違うなと気が付いた。 部長はあきらかに三十代の顔だったが後ろで喋っている奴らは五十代だ。 自分より年下の知り合いに頭を下げるのが嫌なのだろう。肝の小さいヤツだな、そう結論づけるとそそくさと出発の準備に取り掛かった。 バイクに郵便を乗せ、出発のためにヘルメットを被ってバイクを動かす。 一時停止線で停止し出発しようとした時だった。 「ちょっと待って」 近づいてきた鴨原部長がグッとヘルメットのベルトを調節した。 その瞬間、いい匂いがして思わず胸がドクンと音を立てた。 「ダメですよ。ベルトはちゃんとしないと、命にかかわります」 心地いい低音の声にさらに胸が高鳴った。 「は、はい」 「安全運転で」 にこりとした笑顔を向けられどぎまぎしながらバイクを発進させる。心臓の音が止まらない。 なんで、郵便局みたいなムサイところであの人は香水なんてつけてるんだ?それにあんなに耳元で喋られたら、死ぬ……いや死にそうになる。 信号で停まったところで息を吐いて頬をバチンと叩いた。 「やばいだろ、俺」 多分惚れた。そう思いながら、バイトと部長という身分違いの恋にため息をついた。 「明日から物調が始まります。物調の時は忙しくなりますので頑張ってください。それと週間予報を見ると来週から暑くなるそうなので、体に気をつけてくださいね」 柔らかな低音ボイスと鴨原部長のご尊顔に見惚れながら朝礼を終わるといそいそと準備をはじめる。 この一か月、鴨原部長が立哨(りっしょう)の時は優しく声をかけてくれることが楽しみになっていた。 「重さん、今日はどう?」 「いや、その、多分大丈夫」 「わかった」 一応声をかけて準備を終えると今日も一日頑張るぞ、と気合を入れた。 夕方配達を終えて戻ると、まだ重さんが配達から戻っていなくて、もしかすると手伝いに走らされるかもしれないな、と思いながらノロノロと片付けていると、「なんだと!」と鴨原部長の大きな声が聞こえてきた。 「それで、どこで失くしたんだ!うん、うん、他の郵便は……配達できてない?分かった、今から行く」 誰かが何かを紛失したんだと思いながらヒヤヒヤしていると、鴨原部長と目が会った。 「小西さん、石原君、ちょっと」 手招きされて慌てて部長席に行くと、難しい顔をした鴨原部長がこちらを見た。 「重森さんがアイランドシティの入り口のところで午前中に書留を飛ばして紛失して探しているらしい。そこから配達が出来ていなくて、郵便を持っているそうだ。とりあえず行って残りの書留をふたりで手分けして配達してくれないか」 「分かりました!」 「すまない。私は局長に報告してから重森さんのところに向かうから」 立ち上がった鴨原部長が局長室へ向かうのを見送って急いでバイク置き場に向かう。 「重さん、朝落としたなら朝言えばいいのに」 「ほんとですよね」 バイクで急いで重さんのところに向かうと、落ち込んだ重さんがバイクの側にへたり込んでいた。 「重さん、大丈夫?」 「あ、ああ」 「部長直ぐにかけつけるって言ってるから。とりあえず俺らに書留ちょうだい」 「あ、ああ」 書留バックの中のものを受け取って、班長と共に手分けしてバイクに乗り込む。 「とりあえず、遅くなって申し訳ありません、は言わなきゃだよな」 バイクを走らせながら最初の家の住所を思い出して交差点を曲がると、目的のマンションに向かう。 十通ほどの書留を配達し終えて局に戻ると重さんがぼんやりと座っていた。 「重さん、見つかったの?」 「部長が探して……」 「そうなんだ」 落ち込んでいる重さんになんて声をかけていいか分からなくて、班長が帰ってきたところで退勤するために着替えると自分のバイクに跨った。 「部長、ひとりで探すの大変だろな……」 朝から探して見つからないというのが引っかかって家の方向ではなくバイクをアイランドシティの方に向けた。 見慣れた郵便局のバイクがさっき重さんがいたところに停まっているのを見つけて、空きバイクで駆けつけたのだと分かった。 「部長、見つかりました?」 スーツの上着を脱いで低木の植木の中を懐中電灯で探している鴨原部長に声をかけると、バッと驚いたように振り向かれた。 「石原君、どうして」 「いや、気になって。どのあたりまで探しました?」 「とりあえずこっち側は」 「朝、向こうに風吹いてたので、俺向こう探します」 「風、向こうだったのか」 「はい」 体を起こした鴨原部長が道向こうの街路樹を探し始める。 「俺も探します。部長ここから向こうで、俺がここからあっち探します」 「いや、時間外だ、止めなさい」 「いいんです。部長の役に立ちたいだけなので」 そう言ってスマホのライトを使って街路樹に顔を突っ込む。 三十分ほど探していると、ポンと背中を叩かれた。 「見つかった。すまなかった」 「良かった、破損してません?」 「ああ」 手元を覗き込むと、破損も汚損もなさそうでホッとした。 「配達しなきゃですよね。部長住所分かります?」 「すまないが分からないんだ」 「じゃあ、俺が先導します」 バイクにまたがり部長を振り返ると、鴨原部長もバイクに跨った。 「行きます」 声をかけて走り出すと、目的のマンションにたどり着く。 「石原君、ありがとう」 「いえいえ」 インターホンを押し、マンションに消えていった部長を見送って、部長の役に立てたことが嬉しくて、鼻歌を歌いながら家の方に舵を切るとバイクを走らせた。 「おはようございます」 翌日出勤するとバッと鴨原部長がこちらを見た。 「石原君」 「はい」 「昨日はありがとう」 「いえ」 朝から声をかけられただけで嬉しくて、ウキウキしながら準備を始めていたが、時間になっても重さんが来ていないことに気が付いた。 「班長、重さん来てないよ」 「ほんとだ!課長!」 バタバタと慌ただしく計画席に向かった班長を見て、嫌な予感が駆け抜ける。 「重森さんはどこを配ってるんですか?」 こちらへとやってきた部長の声に顔をあげると、腕を組んでジッと班長の話を聞いている。 「昨日の分の郵便もあるのに。課長に行ってもらうようにしますが、はぁ……」 額を片手で押さえた部長の横顔がカッコ良くて思わず見とれてしまいそうになりながら、思わず手をあげていた。 「俺も少し持って出ます。元々重さんひとりで全部配達出来ないから手伝ってるし」 「石原君」 「はい、お任せください」 ドンと胸を叩くと、ふっと部長の口元が笑った。 「じゃあ、課長が電話が終わってきたらどうするか話し合ってください」 「はい!」 ポンと肩を叩かれた瞬間、いい匂いがして思わず胸がドクンと音を立てた。 少し多めに郵便を持って出たこともあって五時過ぎに局に戻るとほとんどの人が帰る準備をしていて、慌てて処理をはじめる。 「石原君」 部長がこちらに歩いてきて、首を傾けると見目麗しいお顔がにっこりとほほ笑んだ。 「昨日のお礼をしたいんだけど、時間あるかな?」 「はい、いっぱいあります」 俺の返事に部長がふっと笑った。 「それじゃ、私は荷物を取ってくるから通用口で」 「はい!」 鴨原部長に誘われた、それだけで嬉しくなってしまう。 急いで着替えて通用口から外に出ると、鴨原部長が待っていた。 「バイクを取りに戻れるように近くに行こう」 「はい」 「ああ、ちょうどタクシーが来た」 局の搬送口にきたタクシーに手をあげた鴨原部長がアプリを見せるとドアが開いた。 「近場で申し訳ないのだが、筥崎宮まで」 「参道の入り口でいいかい?」 「出来れば本殿側に」 タクシーが走り出し、ドキドキしながら窓の外を見ていると、クスッと鴨原部長が笑った。 「緊張しなくていいのに」 「いや、なんかドキドキして」 「石原君は面白いね。明るいし」 「そうですか?」 あなたは癒しですけどね。そう心の中で呟く。 タクシーが止まると、鴨原部長が歩き出した。 「鳩太郎は行ったことあるかい?」 「いえ」 「そうなんだ。じゃあ誘って正解だったな」 そう言って古い建物に入っていった。 「予約していた二名の鴨原です」 「どうぞ」 俺のために穴場を選んでくれたんだ。そう思うと嬉しくて鴨原部長の後をついていくと、奥の席に通された。 「石原君がバイクじゃなかったらね。ここはクラフトビールが美味しいんだよ」 「部長と飲めるなら、バイクおいて帰ります」 「いいの?」 「はい、俺、家この先の吉塚です」 「そうなんだね。良かった。今日はコースだけどビールの飲み放題がついてるから」 「お待たせしました。贅沢コース二名様ですね。飲み物はお決まりですか?」 「石原君はどれにする?」 「このベルギービールってコースに入ってるんですか?」 「はい」 「じゃあこれで」 「私も同じものを」 注文をすると部長がネクタイを緩めて上着を脱ぐ。その仕草がカッコ良くて思わず見とれた。 「部長ってスーツ似合いますよね」 「そうかな?ありがとう」 「部長っておいくつですか?」 「今年三十七だよ。石原君は二十五だったね。郵便局の前は何してたの?」 「え、専門学校でて、一度エンジニアになったんですが、納期がしんどくてやめて、おととしから東局に」 「そうなんだ」 ビールが運ばれてくると、鴨原部長がグラスを掲げた。 「お疲れさま」 「お疲れ様です」 カチンとグラスをあわせてビールを飲む。 「うん、香りがいいね」 「部長と飲んでるからめちゃくちゃ美味しいです」 「はは、本当に石原君は面白いな」 「俺、部長大好きですから」 「そう言われると嬉しいね」 「本当ですよ!ね、部長って香水つけてるんですか?」 「ああ、匂うかい?」 「ううん、部長の匂いすごく好きなんです。すごい出来る男、って匂いで」 「あはは、残念ながら無能だよ」 グラスを持つ手が綺麗で羨ましい。 「無能が部長になるわけないじゃないですか」 「今は手をあげれば部長までは行けるからね」 「でも、それでも前の部長とは全然違いますよ。挨拶もしてくれるし、前に重さんやらかした時、部長ふんぞり返って課長に行かせてたし」 そう言ってグラスのものを飲み干すと、ビールのお替りを頼む。 「そんなに前の部長とあわなかったのか」 「みんなそうでしたよ。なのに口を開けば営業って言うから」 「まあ、一応営業部だからな」 「あ、でも部長の声でなら怒られてもいいかもしれない」 想像してしまってクククと笑うと呆れたような目をされた。 「石原君はМ?」 「まさか。でも部長の声好きなんですよ」 「本当に君は私を褒めてばかりだな」 「えへへ」 食事はどれも美味しく、ビールも美味しくて話が弾む。 「部長ってどこに住んでるんですか?」 「多々良だよ」 「もしかして持ち家?」 「うん」 ニコニコと笑いながらビールを飲んだ鴨原部長がグラスを置いた。 「部長結婚してるとか?」 「バツイチだよ」 「えーーー!」 思わず大きな声が出てしまった。 こんなにカッコ良くて、こんなにいい匂いで出来る男を捨てる人がいるのかと思うと静かな怒りが湧いてきた。 「そんな驚かなくても」 「理由聞いていいですか?」 「あはは、単身赴任先から金曜の夜中に帰ったら、他の男と寝てたってだけだよ」 「うわー、なんなんすかその奥さん、部長みたいなカッコいい人差し置いて」 「やめたくない習い事があるって言うから単身赴任したんだけどな、なんだろうな……単身赴任する前からだったよ」 ビールでなくワインを飲み始めた鴨原部長が苦笑いを見せる。 「この話、内緒だぞ」 「もちろんです。部長、そういうの忘れて飲みましょう」 カツンとグラスをあわせてビールとワインを飲み干す。 「俺だったら部長を悲しませることしないのになー」 「あはは、石原君酔ってるね」 「酔ってませんよ。本気です」 ぐっと鴨原部長の手をつかむとクスクスと笑われた。 「太陽みたいな石原君に好かれるのは悪くないな」 「太陽ですか?」 部長にそんな風に思われているのが嬉しくて口元が緩んでいく。 「へへ、俺、部長の太陽になりますね」 体も頭もふわふわする。大好きな鴨原部長が目の前にいて、俺を見て微笑んでくれている。 神様ありがとう、今日だけでこんなに幸せな時間をいっぱいくれてーー

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