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第1話 狼と暮らす1
狼を拾った。本人が「自分は狼だ」と言うのだから狼なんだろう。青灰色の柔らかそうな髪に灰褐色の目をした、百九十センチを超えそうな長身の男を狼と言うのなら、だが。
(そんな馬鹿な)
それが正直な感想だ。俺は狼だという言葉を信じちゃいない。いくら流れ者が多いこの島でも、そんな言葉を信じる人はいないだろう。
(そもそも、料理洗濯掃除上手の狼とかいないだろう)
自分を狼だと言い張る男はジンと名乗り、拾ってくれたお礼だと言って毎日料理をしている。それどころか洗濯もやれば掃除もするし、キッチンや風呂までピカピカに磨き上げる。大きな体を器用に動かして、そりゃもう優秀な家政婦だと言わんばかりに家事全般をこなしていた。一人暮らしだった俺の生活は、おかげで随分とマシになった。
路地を何度か曲がり、途中の店でビールとミルク、それに今朝なくなったコーヒー豆を買った。それを片手に住み慣れた、なのに少しばかり勝手が変わった我が家へと向かう。
「今夜も肉だな」
家に近づくと肉を焼くいい匂いが漂ってきた。そういえばジンが作るものはほとんどが肉料理だ。「ま、狼なら肉食で当然か」と、本気でもなんでもないことを思いながら玄関のドアを開ける。
「おかえり、カグヤ」
柔らかそうな長めの後ろ髪を束ね、濃紺色のエプロンをしたジンがキッチンから顔を出した。
「ただいま」
そう答えれば、いつもどおりふわりと笑顔を返す。その顔にドキッとするのは何度目だろう。
(落ち着け、俺)
ジンの笑顔に妙な気持ちが湧き上がるようになったのは、おやすみのキスをされるようになってからだ。
初めてされたとき、あまりに自然だったせいで怒ることができなかった。唇にされたのにだ。二日後にもキスをされた。一度目で怒らなかったのに二度目で怒るのも変だよなと思ってやっぱり怒ることができない。そういうことが何度か続き、気がつけば毎晩のようにキスをされている。
キスをするとき、ジンはいつも嬉しそうにふわりと笑う。そのせいで同じような笑顔を見ると変な気持ちになってしまうに違いない。
「今夜はチキンソテーと茹で野菜、それに今朝のパンの残りだよ。……カグヤ、どうかした?」
しまった、うっかり男らしい顔に見惚れてしまっていた。反応しない俺を不思議そうに見るジンに「何でもない」と返事をし、買って来たものを渡して奥の仕事部屋に逃げた。
薄暗い部屋の作業台に近づき、拾ってきたばかりの材料たちを置く。今日の収穫は硝子の欠片と貝殻、それに打ち上げられた珊瑚なんかだ。それらを並べてから食卓へと戻った。
「明日は作業?」
「あぁ。そろそろ新作を納品しないといけないからな」
「じゃあ、しばらく忙しくなるね。お昼は手軽に食べれるものにしよっか」
「そうしてくれると助かる」
「任せて。おいしいサンドイッチ作るから」
そう言いながらニコニコ笑うジンは、大きな一枚肉で作ったチキンソテーを一口サイズに切り分けて俺の皿に載せていく。その横には根菜の茹でたものを、これまた一口サイズに切り分けて載せ、最後にソースをかけた。
ジンは、こうして自分で切り分けた食べ物を俺に食べさせるのが好きらしい。「俺は狼だからね」とか何とか言っているけど、まったく意味がわからない。
(もうすっかり慣れたけどな)
こんな生活が二カ月も続けば、これが普通だと思えてくるから不思議だ。
食事を終えてから仕事部屋で道具の点検をしていると「先にシャワー浴びちゃって」という声が聞こえてきた。部屋から出れば、ジンが片付けたりゴミをまとめたりしている。
「何か手伝うか?」
「ここはいいから、シャワー浴びてきて」
たしかに手際の悪い俺が手を出すほうが手間になるだろう。そう思ってさっとシャワーを浴びた。頭をタオルでゴシゴシ拭いながら出てくると、着替えを持ったジンが入れ替わるように風呂場に向かう。
「あ、先に歯磨きしてから本を読むこと」
俺より大きな背中を見送りながら、思わず「母親かよ」と口にしていた。
「まぁ、何度も言われる俺も俺なんだろうけど」
先に言わないと俺が寝落ちするとわかっているのだ。俺のほうも自覚があるから、おとなしく言われたとおりにする。
(どれだけ甲斐甲斐しいんだかな)
これで狼だと言い張るのだから本当に意味がわからない。
歯磨きをしてからソファに座り、読みかけの本を手にする。数ページ読み進めたところで段々瞼が重くなり、案の定寝落ちしてしまった。
「ほら、もう寝よう?」
「……ん」
こうしてジンが優しく揺り起こしてくれるのもいつものことだ。ぼんやりしながらも寝室へ行き、そのままベッドに寝転がる。ジンはそんな俺を抱き込むようにしてから、ふわりと笑って「おやすみ」と唇にキスして目を閉じた。こうして今日も狼だと言い張るジンとの一日が終わった。
俺は親父から引き継いだ小さなアクセサリー工房を営んでいる。工房と言っても作業するのは俺一人で、手作りで作れる量を観光客相手の店に卸している小規模なものだ。
俺が得意なのは、浜辺で拾った貝殻や流れ着いた硝子、たまに上がってくる珊瑚なんかと金属を合わせたネックレスやブレスレットだ。親父がやっていたのを見様見真似で引き継ぎつつ俺なりのアレンジも加えている。幸い、金属を加工するための道具類は揃っているから試行錯誤しながら試すこともできた。
そんな手作り感満載のアクセサリーだが、南の島特有の雰囲気を醸し出しているからか観光客にはそこそこ受けがいい。おかげで俺一人、いやジンと二人で食べていくのも問題なかった。仕事場兼自宅であるこの家も祖母 さんから親父、そして俺が受け継いだものだから家賃を払う必要がない。
(最近じゃ家賃も上がる一方だって話だしな)
ただの南の小さな島だったここは観光地として有名になりすぎた。最近では目が飛び出るほどの家賃相場になっているのだと、卸先の店主が話していたのを思い出す。
(たしかに、前は観光客なんかいなかった場所でも見かけるようになった)
地元住人しか歩くことがないこの辺りではまだ見かけないが、プライベートビーチのようだった近くの浜辺でもチラホラ観光客を見かける。
なんだか土足で踏み荒らされている気がしないでもないが、ほかに目立った産業がない小さな島にとって観光客が増えるのはありがたい。かく言う俺も観光客のおかげで収入が安定しているわけだから、文句を言うわけにもいかない。
(そろそろ硝子モノを増やすかな)
もうすぐ夏季休暇がやって来る。年中温暖なこの島でも、もっとも観光客が多くなる時期だ。
この時期は俺が作るアクセサリー類もよく売れるので、売れ筋の硝子モノを増やすようにしている。ほかにも夏らしいものを中心に、いつもより多めに作って納品していた。
(今年は、ちょっと大振りな指輪でも作ってみるか)
角が丸くなり、表面も削れて淡く光を反射する硝子を見ながらデザインを考える。
俺が使う硝子は、いわゆるシーグラスと呼ばれるものだ。島のあちこちの浜辺には珍しい形状の貝殻のほかに多くの硝子が流れ着く。それをアクセサリーにしていたのが親父で、俺も同じように硝子や貝殻を素材に使っている。
昔は「そんなものを材料にして」と眉を潜める人もいたらしいが、俺は小さい頃からこのシーグラスが好きだった。一番好きなのは、出来立ての硝子にはない曇りガラスのようなくすんだ色味だ。柔らかく光を反射するところも、肌を傷つけない丸みを帯びているところも気に入っている。小さい頃なんて浜辺で見つけるたびに、まるで海の欠けらのようだと思ってワクワクしたものだ。
(これもいつかアクセサリーにしたいとは思うけど)
ストックしてあるシーグラスの中から、やや灰色がかった青い硝子を取り出す。傷なのか元々の特徴なのか、真ん中に白い線が入っているのがどことなくジンを思わせた。
ジンは左側の耳の後ろに、白にも見える銀色の髪の毛が少し混じっている。そこだけ色が抜けたような不思議な色合いだが、俺にはそれがたまらなく綺麗に思えた。
そんなジンの髪を思い起こさせるこのシーグラスは、ちょうどジンを拾った日に見つけたものだ。いつかアクセサリーにと考えてはいるものの、なんとなく手放し難くて結局は箱の中に戻している。
「カグヤ~、そろそろお昼にしない~?」
「あぁ、わかった」
作業部屋を出ると、揚げ物とソースのいい匂いがした。
「今日はキャベツたっぷりのメンチカツサンドだよ」
「うまそう」
「ちょっと待ってね」
そう言ったジンが、サンドイッチを器用に一口サイズに切り分け始めた。料理が何であっても、やっぱり自分で切り分けたものを俺に食べさせたいらしい。サンドイッチの次はパイナップルやパパイヤを切り分けている。
「別にそのままでいいんだけど」
「うん、わかってる。でも俺がそうしたいんだ」
「習性みたいなものだから」と、あのふわりとした笑顔で言われたら断るのも何だなと思ってそのままになる。
こうして今日もジンが切り分けた食事を食べ、ジンに細やかに世話をされる一日を過ごした。そうして最後は唇にキスをされて抱きこまれるようにして眠りにつく。
(……ん?)
足元で何かがゴソゴソするのを感じて目が覚めた。右を向いて寝ている俺の背中が暖かいのはジンの体が触れているからだろう。腹にはジンの腕が回っていて、寝入る直前もこの体勢だった気がする。
「……ん……」
不意に吐息のようなものが首筋をくすぐった。同時にジンの足が少し動いて、俺の素足をわずかに擦る。
(なるほど、これで目が覚めたのか)
一度眠ると滅多なことでは目が覚めない俺でも、さすがに肌を擦られれば目が覚めるらしい。そんなことを思っていると、また吐息のようなものがうなじに触れた。しかも今度は鼻先が触れているような感触までする。
すぅーっと息を吸い込む音のあと、ふぅっと小さく漏れる吐息。やけに熱く感じられる呼吸に妙に胸がざわつく。そのまま何度かジンの熱い呼吸をうなじに感じていると、小さな声で「カグヤ」と囁くのが聞こえてきた。そうして少しだけ押しつけられた下半身の熱に、今度こそビクッと体を震わせてしまった。
「起こしちゃって、ごめん」
くっついていた熱が離れていく。それにわずかな寂しさを覚えながらも、何も答えられない。
「これ以上はちょっと無理っぽい」
「ジン?」
「ごめんね、発情期に入っちゃったみたいなんだ」
(はつじょうき……?)
言葉の意味が理解できずポカンとしている間にジンがベッドから起き上がった。「俺、あっちで寝るね」と言って寝室を出て行く背中を見送る。
「発情期って、動物とかがなるあの発情期か?」
明け方近くに起きたこの出来事に、俺はすっかり目が覚めてしまった。そうしていつもよりも随分早い時間に起きることになった。
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