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第1話

 俺が神の使者みたいなその人と出会ったのは、アジサイが綺麗な梅雨の時季だった。バイトを始めてようやくひと月経った頃だ。まだ午前の涼しい時間に楓さんは窓際の席に座って静かにコーヒーを飲んでいた。大きな窓から雨に濡れた樹々の葉が見える。鬱陶しいはずの天気なのに、物静かな楓さんの背景になると途端に風情があるように思えたし雨音が彼のためのBGMみたいに感じた。彼はそういう人だ。 「新人さん?」  会計をしている時、不意に声を掛けられた。見た目通り、落ち着いていて心地の良い声質だった。俺よりも少し背が高い。 「はい、一か月前から」  陽の光にも透けない程の黒い髪は彼の肌をより白く見せている。体温を感じさせない頬が動き、雰囲気が和らいだ。 「頑張ってね」  真っ直ぐに目を見て微笑む顔は、言葉を忘れてしまう程に綺麗だった。 「マスターあの人よく来るんですか? 俺初めて男の人に見惚れちゃった!」  楓さんのテーブルを片付けがてら俺はキッチンへ飛び込んだ。ランチに向けて仕込み中のマスターはこちらを見ることはないが応えてくれた。 「楓くんは特別人の目を惹くよね」 「楓くん……名前までぴったりなんだあ」  俺はその人の名前を知った後で改めて先程の佇まいを思い描いた。窓辺で一人静かにコーヒーを飲みながらカバーを掛けた本を読んでいた。時折窓の外を眺めてまたひとくちコーヒーを飲む。ずっと観察していたわけではないけれど多分そんな感じだった。決して派手ではない。服装も髪型もシンプルで目立つわけでもなかった。それなのにずっと眺めていたくなるような特別な雰囲気があった。彼の名前は楓さん。よく似合う名だと思った。 「日曜のこの時間によく来てくれるよ。たまに食事もしに来る。バイトが入ったって話したらどんな子かなって気にしてたんだよ」 「それで話し掛けられたんだ」 「そう、声掛けられたの? 感じの良い子だろ? 黙ってるとクールに見えるけど優しい子だよ。今度来たら挨拶してごらん」  この喫茶店アンセムのマスターはとても人好きのする人で、マスターと話すのを楽しみにしているお客さんも多い。店自体は昔からある建物を借りているため古びているが、マスターの奥さんのセンスによりレトロで落ち着いた趣がある内装になっている。城下町であるこの街によく馴染む古き良き、愛される喫茶店だ。この店が愛される要素はいくつもある。そのうちのひとつがこのマスターの人柄だ。 「朝は食べて来たのかい? トーストくらいなら焼いてやるよ。日曜のランチはもっと忙しくなるから夕方まで休めないよ」 「じゃあ片付け済んだら頂きます!」  俺がこの店で雇ってもらったのもマスターが声を掛けてくれたのがきっかけだった。今年の春に、大学進学のためにこの街へやってきた。自然も多く、街並みも美しいこの街は新生活を迎えるにあたりとても良い環境だった。大学ではすぐに友達もできたし講義の内容も新鮮だった。  それでもストレスはあった。その時俺はあることで悩み胃を痛めていた。この店はアパートの近所にあり、ぼーっとしたくて訪れた。 「学生さんかな?」 「はい、四月にこっちに来ました」 「そうかい、好きなだけゆっくりして行きな」  その日の会話はその程度だった。それでもマスターが俺を気に掛けてくれたのが伝わり心が温まった。俺は一種のホームシックのような感情から定期的に店に通うようになり、すぐにマスターとは顔なじみになった。 「光くん、バイトしないかい? もうすぐひとりいなくなっちゃうんだよ。簡単な賄いも出してあげるからさ」  それは願ってもいない申し出だった。決してバイト代は高くないが心の休まる場所を得られることが何よりも重要だった。  二度目に楓さんに会ったのは梅雨が明けきらない頃だった。日曜の午前、俺は来客を知らせるベルが鳴るたびにドアへ視線を向けた。最初はよく来るおばちゃんで、次に来たのは多分同じ大学の学生ふたり組。そのあとは近所のおじいさん。しばらくしてから段々と来客の間隔が狭くなり、ランチ前なのに結構な賑わいを見せていた。ベルが鳴るたび振り返り、どこか透かされた気持ちになっていた。それは黒い髪と白い肌が神秘的な男性客が見えたことで自覚した。  また会えた! そんな気持ちが胸に広がった。傘を傘立てに挿すだけでも様になる。楓さんは見ただけで得をしたような気分にさせた。 「いらっしゃいませ!」  先ほど来店したお客さんにお冷を渡しながら挨拶をすると楓さんは反射的に、といった様子でこちらを見た。目が合うと表情が和らぐのがわかった。多分、俺の声が大きかったのだ。  それから俺は楓さんに話し掛けるタイミングを計っていた。が、雨の日のランチ前だというのに混雑した店内は忙しく、なかなか楓さんのテーブルにたどり着くことができなかった。 「なんか今日やけに忙しくないですか?」 「まあ日曜だからね」  もうひとりのバイト店員である美弥子さんに声を掛けると平然と返された。しかし美弥子さんも忙しなく食洗機から食器を取り出しているため返事は片手間だ。 「先週はこんなに忙しくなかったですよ!」  淹れたてのコーヒーをトレイに乗せ、提供するテーブルを確認する。 「なんでこんなに忙しいんだろうね~」  キッチンを出る寸前に美弥子さんが駆け寄りトレイにミルクピッチャーを乗せてくれた。そして意味ありげに笑いぽんと軽く背中を叩いてまた食洗機の方へ戻ってしまった。 「え、何ですか! 俺のせい?」 「いやあ、どうかなあ」  美弥子さんは楽しそうに言いながら食洗機から取り出した大量の食器をトレイに乗せて持ち上げようとした。 「美弥子ちゃん重い物は持たないの!」  すぐにマスターの奥さんが悲鳴を上げて美弥子さんを叱った。この店のコーヒーとメインフードはマスターの担当で、奥さんは軽食とデザートを担当している。最初に会った時よりもお腹が膨らんできた美弥子さんは今日もいつもと同じ内容で注意を受けて笑っている。 「光くん、それ運んだら代わってあげて」 「大丈夫だよ~」 「美弥子ちゃん!」  俺はあと数か月でこの店を辞めてしまう美弥子さんの引継ぎという形で雇われた。美弥子さんには転勤族の旦那さんがいる。子供が産まれるまでの間はここでバイトを続けるとのことだ。美弥子さんは二年ほど前から働いているそうで、マスター夫婦も雇用主の責任以上に美弥子さんを気に掛けている。日々のやりとりからふたりが美弥子さんの初めての出産をとても楽しみにしているのが伝わってくる。 「大変お待たせしました! コーヒーおふたつと、ミルクはこちらに置きますね。お食事はもう少々お待ちください」  女性ふたり組のテーブルにコーヒーを届けると、ひとりはこちらを見向きもせずはしゃいでいる。大学生には見えないが、社会人にしては落ち着きが無いように見えた。 「ねえほらコーヒー来たよ」 「はあ、今日も麗しいわ」  溜息を吐きながら席に向き直った女性はとても満足げだ。なんとなく女性が見ていた方に目をやるとそこにはやはり艶のある黒髪の人がいた。そして、もしかして、と思い周りを見ると他にも同じテーブルに視線を送るお客さんがいることに気が付いた。 「お兄さん、いいかい」  声を掛けられた方を振り返るとおじいさんが伝票を手に持ち軽く振った。 「はい、お会計ですね!」 「やっぱあたしは光くんだなあ」  おじいさんが椅子を引く音に紛れてそんな声が聞こえた気がしてぎくりとした。  案の定、楓さんが会計をした後は嘘のように落ち着いた。ランチタイムにはまた忙しくなるのだが、楓さんが退店してからの束の間で俺は妙な混雑の理由がよく理解できた。 「すごいですね楓さんの人気……」 「そうでしょう! 私がバイトに雇われたのも楓くんファンで賑わうからだってマスターが言ってたよ」  ランチタイムがそれなりに忙しくなるのは既にこれまでのシフトで経験済みだ。しかし先程の異様な熱気は感じなかった。それに先週楓さんが来なかった日曜はさておき、前回楓さんが来た日曜はこんな静かな興奮みたいなものは感じなかったような気がする。 「楓さんって何してる人なんですか? なんだか芸能人みたい」 「確かに楓くんがモデルなんてやったらなんでも着こなせるんだろうなあ」  俺たちはそれぞれの作業を止めてなんとなく楓さんのモデル姿を想像してみる。……ああどんな服でも様になるだろうなあ。 「アイドルなんかもできそうですよね。あの静かな感じで歌ったり踊ったりするのギャップありません?」 「ああ、絶対人気出るね! 光くんコンビ組んでデビューしな」 「俺ですか?」  美弥子さんがニカッと笑ったところでマスターから端材で作ったサンドイッチの賄いが出された。俺にはコーヒーを、美弥子さんにはオレンジジュースを付けてくれた。ランチの時間が迫っているため俺たちは雑談を中止してサンドイッチに齧りついた。最後のひとくちを食べているとドアベルが鳴った。立ち上がろうとする美弥子さんを制止し、コーヒーを飲み干してからホールへ向かった。  アンセムでのバイトは楽しい。マスター夫婦も美弥子さんもいい人で常連お客さんも良くしてくれる。一時期まともに食事も摂れないくらい弱っていたが、今こうして元気に過ごせているのは間違いなくこの人達のおかげだ。  大学も楽しいけれど、俺には余計な刺激が多すぎる。 『明日の飲みほんとに来ないの? この子来るかもだよ、さすがに可愛くない?』 『今度バイト先遊びに行ってもいい? 友達が光のことイケメンって言ってたの』 『エミリとどうなった? あの後家行った?』  怒涛の日曜シフトは確かに疲れるが充実感がある。それに比べてバイト終わりに見る部活仲間からのメッセージはどうだ。スマホに表示された文面からは何も良いエネルギーを感じない。ただ疲労感が上乗せされるだけだ。 「はあ……」  美弥子さんは夕方には既に上がっており、陽が暮れ始めた頃に俺も上がる。外に出ると空気はじめじめと重く湿っているが雨は止んでいた。うんざりした気持ちから溜息を吐くと涼しい風が吹き抜けた。揺れる葉の音の方へ目を向けるといきいき咲いたアジサイと、その上に涼し気な顔が見えた。 「楓さん!」  思わず彼の名を口にすると当然楓さんは驚いた顔をした。顔を顰められても不思議ではないのに彼はそうしなかった。すぐに軽率な言動を悔いて改めた。 「すみません、マスターから名前を聞いていたのでつい」 「ああ、なるほど。バイトの子、かな?」  恐らく消去法から出た答えなのだろうが、俺はそれでも嬉しかった。 「そうです、楓さんも今日お店来てましたよね!」  ずっと話し掛けてみたかった相手とようやく話せるチャンスが巡って来た。俺は直前の重怠い疲労感を忘れて楓さんに飛びついた。 「うん、傘を忘れちゃったから取りに来たんだ。あるといいんだけど」  俺は楓さんが黒い傘を傘立てに挿していたのを思い出した。雨粒を払った後に綺麗に細く巻いた傘だ。そういえば湿度は高いが雨が降っていたのは午前中だけだ。 「俺見てきますよ、黒い傘ですよね!」  楓さんの返事も聞かずに踵を返して店のドアを開ける。ベルが響いた。 「何、忘れ物?」 「そう!」  マスターの問い掛けに口だけで応え、傘立て目掛けて回り込む。しかしすぐに見つかるはずだった傘はそこになく、ビニール傘と留め具の外れた青い傘しか残されていなかった。どちらも忘れ物に違いない。すぐにまたドアベルが鳴る。 「あります?」  後ろから声がして振り向くと、俺の肩越しに傘立てを覗く白い顔が間近にあった。 「……無いかも、です」  本当は置き去りにされた傘を手渡してほっとしてもらうつもりだった。それが何かの手違いでその場からなくなってしまっている。きっと困るだろう、残念に思うだろう。俺はそう感じるよりも先になんて綺麗な肌だろう、なんて考えていた。 「楓くんどうしたの」  俺が楓さんに見惚れていると再びマスターが声を上げた。店のバイトと日中来ていた常連客が一緒に現れたのだから不思議に思うだろう。 「さっき来た時に傘を忘れてしまって。出掛けたついでに寄ったんですけど誰か持って行っちゃったみたいですね」  マスターを振り返る楓さんをこっそり盗み見る。この時季でもサラサラな髪は綺麗なラインを作ってうなじに合流している。定期的なメンテナンスがされているのか真っ白なうなじに余計なものはなく、清潔感が漂っている。あまりに隙がないものだから物珍しさで眺めていると不意に楓さんがこちらを向いた。  また少し驚いた顔をする。こんな至近距離でじろじろ見られていたのだから面食らうだろう。俺は気まずさを感じながらも眉の形まで綺麗な事に気付き、取り繕うことも忘れた。 「探してくれてありがとう」  入口横の擦りガラスから優しく夕陽が差している。暖かい色に染まった楓さんが真っ直ぐ目を見てそう言った。俺に向けて、俺だけに聞こえるくらいの声で。その声の量と色は確実に心に届くものだった。 「あ、いえ、全然」 「傘が無いんじゃこの時期困るだろう」  この時間は昼間に比べてゆったりしているのでマスターも傘探しに付き合ってくれるようだ。  しかし楓さんの反応はあっさりしたものだった。 「無くなってしまったものは仕方ないです、諦めます」  折り畳み傘もありますし、と付け加える。あれは適当に買ったビニール傘とは違うきちんとした物だった。どの傘よりも丁寧に畳まれて売り物みたいに綺麗だった。 「新品みたいな傘だったのに……だから取りに来たのかと思いました」 「そんなことない、結構使った物だよ。忘れたまま邪魔になっていたら迷惑だと思ったんだ」  思いがけない楓さんの答えに咄嗟に返す言葉が浮かばなかった。俺がまごついている間に楓さんは「わざわざありがとうね」と笑顔を残して夕陽の中に吸い込まれていった。

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