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第20話
扉を閉めた後、俺はそのまま玄関にへたり込んだ。走り込みの後みたいに身体中から汗が噴き出してその辺に心臓が転がり落ちたみたいに鼓動がどくどくと鳴り響く。
とんでもないことをした。勢いに任せて俺はとんでもないことをしてしまった。
だけどその後悔を大きく上回るくらいの高揚感とある種の達成感に満ちていた。
腕の中に感じた体温と湿度を思い出して先ほどまでのあった存在を抱きしめる。首筋から耳に掛けてかぁっと熱くなりこめかみから汗が伝うのと同時にぞくぞくと身体が震えた。薄暗い玄関で思い切り迫り、楓さんとの背丈の違いをリアルに感じた。キスをするには少しだけ遠い、本能的に計算した一瞬の間がどれだけ幸せだったか。触れるだけの口付けだったけれどあの唇の柔らかさは一生忘れることはないだろう。
浮ついた数日を過ごしてから俺は徐々に冷静になっていった。翌週の日曜日のバイトを終える頃には完全に血の気が引いた。あの翌日と合わせて楓さんは二週日曜日に来なかったことになる。来店の間隔が決まっているわけではないが、あの日をきっかけにもう店に来ない可能性を実感したのだ。
とんでもないことをしたと、あの夜無視した感情が怒涛になって押し寄せる。
それは当然のことだ。俺が楓さんに恋をしたのは不可避だったにしてもそれは一方的な感情だ。俺だって気のない相手から一方的に好きだと言ってキスをされたら顔を合わせるのは避けてしまう。それが同性なら尚更だ。
「やっちゃったぁ……」
「どうした?」
あの夜楓さんが僅かに残して行った焼酎の瓶は甲斐によって空けられた。俺はスーパーで安く売られていた酎ハイを流し込んだ。酔えれば何でもよかったけれど甲斐の焼酎だけは飲む気にならない。
「好きな人とご飯行ったんだ」
甲斐は大きくリアクションをしようとする素振りを見せたが目を丸くするに留めた。
「店で飲んでさ、そのあとはふたりで家で飲んで、向こうは酔っててすげえ可愛くてさ……」
グラスを握った手はそのままに、甲斐の喉が鳴る。
「勢いに任せて好きって言ってチューしちゃった」
「え、いいじゃん! 何がダメなん? 彼氏いるの?」
女の子相手ならそう言うだろう。相手は成人男性でしかもハイスペックな年上社会人なのだから良いとかダメとか以前の問題だ。俺がひとりで舞い上がり過ぎた。暴走と言っても差し支えない。あまりにも痛い。それが問題なのだ。
「彼氏は……いないはずだけど、とりあえず脈なさ過ぎて振られもしてない。もう会えないかもって思うとしんどい……」
「連絡は?」
「したけど、反応微妙」
さすがにまずいと我に返り始めた週の真ん中あたりで『今度はいつアンセム来るの?』と震えながら送ったメッセージには『仕事が忙しいので未定です』と返ってきた。それは本心なのか「困ります」なのか今の俺には判別できないでいる。
「でも男の家で飲んでおいて脈なしってことは無くね? てかもう会えないって相手誰?」
甲斐の当然の発言に言葉が詰まり、自分が茨の道を歩もうとしていたことを痛感した。
「……ほんとにチューだけ?」
「俺は悪い男じゃないの!」
自分の言葉をなぞりまたあの日の楓さんの顔を思い返す。俺は楓さんを裏切ったことになるのだろうか。誓ってそんなつもりはなかったのだ。ただどうしても溢れる想いを止められなかった。幾重にも重なった好意と焦燥で暴走してしまった。
それでも楓さんにとって無体を働いたことは悔いてもあの時感じた幸福感は今も鮮やかに心に残っている。
「せめて好きって言えて良かったか……。チューもできたし。向こうには迷惑だったと思うけど……」
まずいアルコールを飲み下すとふわっと頭が揺れた気がした。
「おいおいまだわかんねえじゃん。そんなきっぱり拒否られたの?」
唇の触れた楓さんは確かに驚いていた。俺が間を詰めるまでに完全にその雰囲気はあったはずだ。楓さんは決して固まって動けないという感じではなかった。驚きながらも——期待を込めて言えば——俺のキスを受け入れた。
「……いや」
「え、じゃあ全然あると思うけど」
相手が男でも? と喉までせり上がる言葉を酒で押し戻す。
楓さんは鈴木さんに話しただろうか。あれだけ俺を警戒していた鈴木さんはあの通話を終えた後のことを知ったらどう言うだろう。きっともう俺とは関わるなと、そう言うに決まっている。ああふたりは結局どういう関係だったのだろう。本当にただの友人同士だったのか、少なくとも鈴木さんは楓さんに対してかなり大きな感情を持っていると思うのだけど。俺が楓さんに会えなくなって、それでも鈴木さんはこれまで通り楓さんと仲良くして、それ以外にだって俺の知らない楓さんの人間関係は続いていくのだ。
「また会いたい……会えないのやだ……会いたい……」
記憶の中の楓さんが霞むと同時に視界もぼやけて朧げになる。
「……そうだよなあ」
それだけ言って甲斐は水を入れたグラスを差し出した。
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