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第1話

 チリーン……――。チリーン……――。  古い日本家屋。その縁側に真っ赤な風鈴が風を受けて、短冊を揺らしている。それがいつ聞いた物なのか、どこで見たものなのか全く記憶がない。それでも、夏になると必ず見る夢。 「よし、き……。良樹……。起きろ……」 「ん……」  耳慣れた声。見慣れた低い天井。いつも見ている穂積の顔。 「そろそろ起きろ。午後から学校だろ?」 「うん……」  あの夢を見た後は、いつも同じ気分になる。悲しくて、怖くて、何か大切な物を失ってしまったかの様に、心にぽっかりと穴が開く。 「……穂積。もう一回しよう」  頬に直接当たる穂積の背中が温かくてきもちい。 「俺はこれからバイトなんだよ。お前と違って俺は働かないと生活できないからな」 「じゃあ、今日のバイト代オレが払う。だから、セックスして」 「あのなぁ……。その冗談やめろって言ってんだろ?」  頭を掴んでオレを引き剥がす穂積が、ため息を漏らす。 「それに本気で俺を買いたいなら、自分で稼げ!坊ちゃんが!」  人は目に見える物に依存する。外見。家柄。言葉。みんなそうだった。 「だったらもういい。浮気する。金で買ったやつとセックスする」 「良樹、いい加減にしろよ?」  でも穂積は違う。大学で初めて会った時、中身を見てくれた。愛想笑いではなく。心から笑ってくれた。叱ってくれた。それが何よりも嬉しかった。 「じゃ、抱いてよ」 「帰ってきたらな」 「今」  だから我儘を言う。穂積を困らせる。それが確かなものであると信じたいから。 「……さっさとシャワー浴びて服着ろ!遅刻するぞ」 「やだ」 「なら、勝手にしろ。俺はもう行くからな」  ベッドのスプリングが重みを失って微かに揺れる。 「行かないで!」  振り返る事無く真っ直ぐ玄関から出ていく穂積の背中。今回こそは本当に嫌われたかもしれない。  チリーン……――。チリーン……――。  耳の奥底でまた、風鈴が鳴った。  オレだって本気で勉学を疎かにするつもりはないし、それに穂積のお陰で大学生活は苦じゃない。友達と呼んでくれる相手がいる。呼んでいい相手がいる。全部、穂積がいてくれたから。 「……山葉のおじさんの家?」 「そう。旅館やってるんだけど、離れを立て直そうって話になってな。掃除やらなんやら手伝ってくれるバイト探しててさ。兄貴は社会人になって来られそうにもないし、弟もバイトだなんだって忙しそうにしてるしよ。かといって俺一人で手伝うには広すぎてな。だから、一緒に行かないか?海もあってな。穢れのない女子の水着姿が拝めるぞ~!」  それ自体には興味はない。でも、友達とどこかに出かけるのは初めてでわくわくする。 「行くよ」 「よっしゃ!じゃ、穂積にも話しといてくれ」 「あ、うん……」  穂積は話を聞入れくれるだろうか。あの家にまた居させてくれるだろうか。穂積を知ってしまったオレが穂積を失ったらどうなるんだろう。 「どった?喧嘩でもしたか?」 「いや……」  元に戻るだけだ。あのただただ、広いだけの空っぽの部屋に。 「ただ、いま……」 「おかえり」  明かりの点いたキッチン。その壁の真ん中にある脱衣所から穂積の声がして、トランクスだけを穿いた穂積がタオルで濡れた髪を拭きながら出てくる。 「良樹もシャワ―浴びろよ。夕飯作ってやるから」  そう言った穂積は背中を向けて部屋へと向かっていく。 「穂積」  ガラリとクローゼットを開ける音。穂積はそこに畳まれて置かれたシャツを手に取る。 「約束。帰ったらセックスしてくれるって」 「メシ食ってからでいいだろ。腹減ってんだよ」 「やだ。今すぐして」  今すぐでないと意味がない。開いてしまった穴は塞がなければ、埋めなければ肥大していくだけだ。オレは穂積のトランクスを引きずり降ろし、今、オレが欲してやまない物を口に含む。 「……っいいかげんに、しろ!人の顔見りゃ、セックス、セックス、セックス!そんなに、セックスだけしてぇんなら、おっさんでもなんでも買えよ!」  俺を睨みつける穂積は、ジーパンを手に取りパンツと一緒に一気に穿く。 「……どけ!」  オレの肩を軽く蹴った穂積は、そう言い残して玄関の扉から消えていった。そして、この日。穂積は帰って来なかった。そのよく翌日も。翌々日も。  オレは穂積を待ちながら残り香を頼りに、少しでも穴を埋めたくてただ自分を慰め続けていた。 「はぁ……穂積……、穂積……、ん、ぁ……ッ」  手でペニスを扱き、布団に擦り付け。何度もイッた。何度イっても穴が埋まる事は無く、ただ、むなだけが蓄積していく。  だからだろうか。その日見た夢は。風鈴の音と共にオレの名前を呼ぶ声がした。それは、とても優しくて、懐かしくて、暖かかった。 「え?聞いてないのかよ?明後日だぜ?」  それでも学校にはオレも穂積もちゃんといた。ただ一緒に居ない。少し離れた場所にお互いが座っている。それだけの事。 「悪い。ちょっとオレがバイトとかでバタバタしてたから、話すタイミング掴めなかったんだろ」 「え。じゃあ、穂積来られそうにない?」 「いや、明後日なら大丈夫だから、おじゃまさせてもらうよ」 「そっか良かった~。やっぱ穂積くらいがタイいい奴じゃないと力仕事頼みにくいからな。助かるよ」  どうせオレは貧弱だ。いらないなら、いらないとはっきり言えば良いのに。 「他には本田と鈴木が来るから、力仕事は十分だな。後は良樹が適当に当日、俺達動かしてくれば、俺の計画はバッチリだ」 「え?」 「得意だろ?さっさと終わらせて残りの時間遊びまくろうぜ~。なんか、夏祭りもあるんだってよ。水着だけじゃなくて、浴衣女子も拝めるぜ~」  山葉は指折り数えてやりたい事を話す。それを穂積は笑って聞いている。今日も家に帰って来ないつもりなんだろうか。家に帰って来ない間、穂積はどこで何をしてるんだろう。 「穂積、今日は帰って来る?」 「さあな……」  穂積は視線を合わせることなく、それだけを言うと筆記用具などをカバンにしまっていく。 「……話はそれだけか?」  片手でスマートフォンを操作し、メッセージを送っているのか何かを検索しているのか、親指を上下左右に数回動かす。 「話がないなら、俺。バイト行くから」  スマートフォンをカバンのサイドポケットにしまった穂積は、やっぱりオレを見る事無く歩き出していく。  一人残された穂積の部屋。穂積の意識。穂積の気配。この場所がこんなにも辛くて嫌な場所になるとは思わなかった。 「……」  明日の用意もある。だから戻ろう。なにもない、何も知らないオレの家に戻ろう。  玄関のドアを開けると緩やかな風が流れ、その風に乗って風鈴の音が聞こえる。玄関のカギを閉め、そのカギをドアポストに落とすと、オレは穂積の部屋を後にした。

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