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月が綺麗ですね③

 近くの公園まで行こう。  少し前を歩く成宮先生に、俺はただ黙ってついて行く。  相変わらず、真ん丸な満月が俺達の頭上で輝いていて、その眩しさに思わず目を細める。  時折吹く、春の匂いを含んだ爽やかな風が俺と成宮先生の髪を静かに揺らした。  何となく気まずくて、顔さえ上げられない自分が情けなくなる。だって成宮先生は、部下である俺を純粋に心配してくれているだけなんだ。  なのに、なのに……俺の心の中は下心でいっぱい。  ごめんなさい。俺はあなたが好きです。  満月が、また朧月に姿を変えてしまわないよう、必死に泣くのを堪えた。  次の瞬間、俺の右手に温かいものが触れる。  恐る恐る顔を上げた視線の先には、成宮先生と手を繋ぐ自分の手があった。  なんで、なんで俺……成宮先生と手を……。  事態が理解できなくて、俺は言葉を失ったまま、身動きすら取れなくなってしまった。  トクン……トクン……。  鳴り止め、俺の心臓。  成宮先生に聞こえちゃう。  頑張れ、俺の涙腺。  泣いたら、成宮先生に俺の想いがバレちゃうだろう。  でも、でも……俺はやっぱり……。 「あ……」  突然成宮先生が後ろを振り返った。  満月の光が、成宮先生の表情を鮮明に映し出す。その顔は、切なそうにも、苦しそうにも、幸せそうにも見えた。  それは、色んな姿を持つ月のようにも見えて……あまりにも綺麗で、思わず視線を奪われてしまう。  俺たちは、満月の下で見つめ合った。  サラサラと風が俺の髪を撫でていき、夜空に輝く星達の囁き声さえ聞こえてきそうだ。  辺りは静寂に包まれ、俺たちを照らすのは月明かりだけ。  そんな中、成宮先生が春の日差しのように笑う。  いつも眉間に皺を寄せて、俺を叱ってばかりいる成宮先生の笑顔に、俺は一瞬で魅了されてしまった。  この人は、こんなにも優しい笑みを俺に向けてくれるんだ……。胸がぎゅっと締め付けられて痛いくらいだ。  無意識に洋服の襟元を掴む。  きっと心はこの辺りにあるはずだ。だって、こんなにも胸が苦しい。息も上手にできなくて、目頭が熱くなる。  頬が徐々に熱を持って、体が小さく震えた。 「水瀬、月が綺麗ですね」 「……成宮、先生……」  トクン。  俺の鼓動が甘く高鳴る。 「お前なら、この意味……わかるだろ?」  その昔、文豪夏目漱石が『愛している』という言葉を『月が綺麗ですね』という言葉に置き換えた、という逸話が残されている。  成宮先生。本当に月が綺麗ですね。  俺の頬を涙が伝う。  この言葉には、実は返事の仕方も語り継がれている。[[rb:二葉亭四迷 > ふたばていしめい]]が書き記した書物の中に、その答えは記されていた。 「成宮先生。俺は、死んでも構いません」  男が泣くなんて、かっこ悪いってわかっているんだけど、涙は止まってくれなかった。  まるで、辛かった過去を洗い流すかのように、涙は次から次へと頬を伝う。 「駄目だよ」 「え?」 「一緒に生きてもらわなければ困る。ようやく、想いが通じ合ったんだからさ」  そう微笑む成宮先生の目にも、うっすら涙が溜まっているように見えたのは、俺の気のせいだろうか? 「成宮先生。今なら、月に手が届きそうです」  それくらい、今の俺は幸せだ。 「なぁ、水瀬。お前と一緒なら、きっと月に届くはずだ。だって俺は、ずっとずっと月となって、お前を見守っていたんだから」 「月となって……?」 「あぁ、そうだよ」  そのまま成宮先生に強く抱き締められる。一瞬呼吸が止まりそうになったけれど、それ以上に嬉しくて。  俺は夢中で成宮先生にしがみついた。  成宮先生の腕の中は温かくて、とてもいい香りがする。 「前に言っただろう? お前は月下美人みたいだって。だから、俺は月となってお前を照らし続けていたんだよ」 「成宮先生……もしかして、ずっと前から俺のことを?」 「そうだよ。例え、月下美人に気付いてもらえなくても、いつも見守っていた」  成宮先生が俺の額にコツンと自分の額を押し付けてくる。成宮先生の前髪がくすぐったくて、思わず肩を上げた。 「月も綺麗だけど、水瀬も綺麗だよ」  ふわりと、優しく唇と唇が重なる。 「嫌です、恥ずかしい……兎が見てます」 「大丈夫だよ。餅つきが忙しいって。だから、なぁ、もう一回?」 「んふッ……う、ん……」  少しだけ強引に唇を奪われた俺は、大人しくその唇を成宮先生に捧げる。だって、この完璧すぎる男は、キスだって蕩けそうになるくらい上手だから。 「ふぁ……成宮先生のキス気持ちいい……」 「ふふっ、水瀬可愛いな? もっとするか?」 「はい。もっとして……」  怖いくらい静かな公園で、俺たちはキスに夢中になった。  もしかしたら兎に見られているかもしれないけれど、もうそこは見て見ぬふりをしてほしい。  ねぇ、成宮先生。満月が綺麗ですね。  何でこんなに綺麗だかわかりますか?  それはね、二人で見ているからですよ。 「水瀬、帰ろう?」 「はい」  差し出された成宮先生の指に、俺は自分の指を絡ませた。  繋いだ成宮先生の手は、とっても温かい。  ねぇ、成宮先生。  月が綺麗ですね。

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