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第1話 遺書

 夏の蒸し暑さも一段落し、ようやく秋の訪れかと思わせるような爽やかに高く澄んだ空だった。市ヶ谷に向かう足取りも自然と軽くなるが、出勤するなり上官から呼出がかかって一気に滅入る。狐塚(こづか)准尉の部屋に向かいながら呼出の理由に思いを巡らせた。真っ先に思い浮かぶのは数日前に指示された解析についてだ。まだ結果を報告できる段階にない。馬鹿正直にそう伝えれば叱責されるのは目に見えているので、無理矢理にでもこじつけた進捗報告をせねばなるまい。そんな作業に時間を取られるせいで解析が進まないのだと文句を言いたくなる。あるいは、それよりもこちらを先にやれと新たな任務を押しつけてくるかもしれないが、どちらにしても煩わしい。だが、珍しいことでもなかった。狐塚准尉の呼出は常に突然で、タスクの優先順位はそのたびに変わる。 「久保田曹長。これを頼む。最優先だ」  案の定だ。狐塚准尉から渡されたのは、洋形2号と呼ばれるサイズの、宛名も差出人も書かれていない、ただの白い封筒だった。便箋が数枚入っていそうな厚みがある。見てすぐ分かるような汚れや血痕は付いていない。わざわざチャック付のビニール袋に入れられていることから、何らかの証拠品であることは推測できる。 「手紙ですか」 「おそらくは遺書、だな」  遺書と断定することもできないほど「読めない」。それは「雨でインクが滲んで判読できない」といった意味ではないはずだった。 「遺書が暗号で書かれているんですか」  俺は聞き返す。遺書を暗号で書く、そんな酔狂な奴がいるのかと驚いたわけではない。調別(ここ)でそんなものを扱うことに合点が行かなかったのだ。陸上幕僚監部調査部第二課別室、通称「調別」。それが俺の所属機関であり、確かに暗号を扱うには扱うが、やっているのは主に他国の軍用機の発する通信傍受とその解析だ。個人が作った暗号文書の解読なんて警察の管轄だろう。それを何故。  俺の訝し気な表情に気づいているのかいないのか、狐塚准尉が言った。 「死んだのは網代(あじろ)だ」  俺は耳を疑った。今度は聞き返すこともできず、ただ呆然とした。  網代。――網代脩吾(しゅうご)。俺と同時期に技術海曹として任用された男。年は網代のほうがひとつ上だったが、出身地は違えど似たような経緯で同じ職場にたどりついた俺たちは、ほかの同僚の誰よりも親密な関係にあった。その彼が何の前触れもなく自衛官を辞めたのは、一年ほども前になる。 「網代一曹が……?」  やっとのことでそれだけ言った。 「そうだ。富士の樹海で首を吊った。警察の調べではどこからどう見ても紛うことなき自殺だったそうだ。蹴り飛ばした踏み台は横倒しになっていたが、脱いだ靴はきちんと並べてあって、その隣には丁寧に畳んだ上着、その上にそれがあったとか」 「彼にはまだ小さい子がいたはずでは」  上官の話の最中に口を挟むのは御法度だが、言わずにはいられなかった。狐塚准尉は特に不満の顔も見せずに、むしろ同情の視線を俺に向けて言った。 「半月前にやっと三歳になったばかりの娘がな。その誕生日の翌日だったそうだよ、死んだのは」 「そんな」 「警察で二週間調べたがお手上げで、何か心当たりはないかと打診があった。状況的には自殺確定だが保険屋がゴネてるらしい。多額の保険をかけて、自殺の免責期間が過ぎるのを計算したようなタイミングだったものだから。まあ、どいつもこいつも面倒事を押しつけたいだけだろうが、こちらとしても機密事項でも書かれていたらまずいんでね。うちにいる、奴の同期なら分かるかもしれないから現物を寄越せと引き取ってきた」  奴の同期、とは即ち俺のことだ。狐塚准尉がどう取り繕ったか知らないが、誰が調別に属しているかについては公にされていない。薄々は察しているであろう警察相手にも、だ。俺にしても、防衛庁陸上幕僚監部の事務官として市ヶ谷駐屯地に勤務している、というのが対外的な説明だ。実際の職務内容は極秘であり他言無用、親にも妻子にも――もっとも俺には妻も子もいないが――言ってはならない国家機密扱いなのだ。  もっと言えばそれは同僚が相手でも同じだった。我々は隣り合った席にいてもお互いの任務の内容は知らない。特定の目的に沿って組まれたチームで動くことはあれど、そのプロジェクトの全容を知る者はおらず、それぞれ自分に与えられたタスクが全体図のどこに嵌まるピースなのかを知らないままに、ただ指示通りに動くだけだ。俺のピースは俺と直属の上官である狐塚准尉だけしか知らないし、狐塚准尉もまた、誰かの指示を受けているピースでしかない。そんな環境ゆえに仕事の愚痴も自慢も口にできない俺たちは、職場の同僚と「仕事帰りに一杯引っかけて帰る」といったつきあいもなかった。 ――そう。極めて例外的だったのだ、俺と網代の関係は。 「自分は何も知りません」  しかし、狐塚准尉に返した言葉もまた、事実だった。特別な仲だと思っていたのに、一年前、突然姿を消した網代。その更に二年前の結婚のときだって何も知らされずにいた。三歳になったばかりだという彼の子供、少なくともその子が母親の胎内に宿ったときから裏切られていた俺が何を知ると言うのか。 「当たり前だ。だから今から解析しろと言っている」 「……承知しました」  俺は用意してあった書類袋に手紙をしまいこみ、自席に戻った。

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