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第2話 希望の海

 自席は前と左右を背の高いパーティションで区切られていて、隣席の作業は見えないし見られることもない。背後はすぐ壁で通路にもなっていないから、通りすがりに覗き見られる心配もない。ほぼ個室のようなものだ。より注意深さを必要とする解析や実験をする際には用途に合った別室を使うため、この席での作業は、とっかかりの調べ物や事後の報告書をまとめるといった事務作業がほとんどだ。それでも全ては秘密裡に行わねばならないから、こんな息の詰まる環境にいる。とは言え、もともと一人で過ごすのは苦じゃないし、集中してことに当たれるこの環境は悪くない。下手に人間関係の喧噪に巻き込まれるよりよほど快適だ。  俺は例の遺書を取り出した。手袋をすべきかと思ったがやめた。殺人事件の証拠品ではない。重要なのは中身の解読だ。  さっき見た通り、封筒には宛名も差出人も書かれていない。迷わず中身を出す。テープや糊付けの形跡はなく、最初から封はされていなかったと思われた。便箋は二枚。いや、便箋ではなく、四つ折りにされた汎用的なA4サイズのコピー用紙だ。それでも便箋に見立てたらしく一枚は白紙だった。一枚きりの手紙はマナー違反だという説があるから、それを忌避して白紙を入れたのだろうと思う。網代には確かにそういう古風なところがあった。  礼を欠くことを気にしながら、そのくせ肝心の本文は暗号というバランスの悪さも、網代らしいと言えば網代らしい。 ――ただ、遺書は似合わない。おまえが自ら命を絶つなんて、そんなはずがない。そうだろう、網代。……いや、脩吾。  俺は十字についた折り目を眺めながら頭を抱えた。解読が難しそうな予感があったせいもあるが、それよりも。 ――何故これを俺が読まねばならない?  宛名はない。  だが、これは間違いなく俺宛てなのだ。  警察が解けなかった暗号文。当然彼の妻にも、家族の誰にも、地元の友人らにも、解読などできなかっただろう。手書きながらも、無地の紙に定規を当てたかのような整然とした文字の並びは、死ぬ直前に錯乱状態で書いたとは思えない。これは冷静に、計画を練った上で書かれたものだ。俺以外の目をかいくぐり、俺にだけ読まれることを意図して。俺以外の誰かに届けたい手紙ならば、その名に宛てて、暗号なんかじゃない、普通の文章を書けばいいだけの話だ。妻子への懺悔なり感謝なり、あるいは欺瞞に満ちた社会への恨み節を。そうでない以上、これは、俺宛ての、俺に読まれるための手紙のはずだった。  彼と初めて個人的に話したのは、市ヶ谷駐屯地(いちがや)からの帰り道だ。珍しく同じタイミングで退勤し、駅に向かうことになり、どちらからともなく話しかけた。無論、仕事のことには触れない。 「今夜はいい月だな」  見上げる脩吾につられて、空を見た。雲ひとつない夜空にぽっかりと浮かぶ月。満月ではなくわずかに欠けているが、ここ数日は雲が多い空だったから、久々の月明かりの気がした。 「こう明るいと星が見えませんね」  少しばかり天邪鬼な返事をする。悪い癖だ。 「こんな都心じゃ月のない晩だって星なんざ大して見えないだろう」 「そうかもしれませんけど」 「かもしれない、じゃなくて」そこまで話して、脩吾は一瞬黙り、かと思うと俺の顔をまじまじと見た。「東京出身か?」 「はい」 「なるほど。大して星がないのがいつもの見慣れた空ってわけだ」 「そうです」 「で、なんでさっきから敬語なんだ? 久保田一曹」 「年上だと思って」  俺の言葉に脩吾は吹き出した。 「老けてるって言うのか。俺はまだ二六だ。おまえは? 大して変わらないだろう?」 「二五です。やっぱり年上じゃないですか」 「ひとつ違いを気にするのは中学生の部活までにしてくれ。同期で同じ階級なんだから、もう少しフランクに行こうぜ」  更に言えば、同じ技術海曹でもあった。ただ例の如く彼の「専門分野」が何かは明確には知らない。調別に来た以上は、情報処理分野の有資格者か無線技術士あたりなのだろうが、俺が後者の資格持ちで来た身なのを考えると前者の確率が高い。例年十数人程度しかない技術曹の募集枠で、同じ期に同じ資格保持者を複数名採用するとは考え難いのだ。 「敬語をやめろと?」 「第一歩として、な?」 「何の第一歩なんだか」 「友情を深める第一歩ってこと」 「この職場で?」 「この職場だからだよ。一歩外に出たら俺のことは脩吾でいい」  脩吾は、黙っていれば渋みのある二枚目で、言い換えれば少々古くさい、昔の銀幕のスターのような顔立ちをしていた。常に温和な表情を浮かべているが目だけは笑っていないあたり、映画は映画でも任侠物だろうか。年上に見えたのはその容姿によるところが大きい。 「脩吾」 「そうそう、その調子。久保田の下の名は何だっけ?」 「希海(のぞみ)」 「そうだった、希海。思い出したよ、希望の海、って書くんだよな? 音だけ聞いたときは女の子かと思ったけど」  気にしていることをズバズバ言う脩吾に、何故か腹は立たなかった。 「女の子じゃなくて残念だったな」 「海自にはぴったりの名前じゃないか」 「単なる偶然だ」 「そういうのは運命と言うんだよ」  技術者のくせにロマンチックなことを言う男だと思い、苦笑を返しつつ、つい本音が出た。

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