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第46話 【番外編】

「あと一時間ってとこかな…それでもう、今日は閉めちゃうよ?」 雨が降ってきたから、客足がピタッと途絶えたようだ。この店は最近、急激に客が増え、入れない日もあるくらいだった。週末は外にテーブルも出て、外飲みが出来るようにもなっている。 だけど、今日は午後から雨が降ってきたから、外飲みは出来ず、店に入れなく諦めて帰っていく客を何人も下野は見ていた。 さっきまでは、蓉と海斗がここにいて、三人で楽しく飲んで食べていた。 お腹がいっぱいだという二人と、じゃあなと言い外で別れて、またここにひとりで戻ってきて、カウンターに座っている。この時間だし、雨も降っているから客はみんな帰って行ったようだ。 今、イタリアンバル『バーシャミ』に、客は下野ひとりである。 とりあえずと、店のマスターは水を置いてくれている。今日は酒を飲んでいない。 海斗と蓉も不思議に思っていたようだ。いつもはビールにワイン、ハイボールと酒は何でも好きで飲んでいるが、今日は酒を飲まないんだと伝えると、二人はきょとんとした顔をしていた。 「下野さん、振られちゃった?来ないんじゃないの?雨だし…」 店のマスターには知られていると思う。海斗と蓉と別れてから、ここに戻ってきても何も言わず、今日は酒を出さずに水を出してくれている。 「そうかなぁ…やっぱり、振られたと思う?」 連絡をしても返事は返ってこない。それでも一方的に待ってると連絡を送っていた。 来ないかもしれない。 それでも、何となく今日は酒を飲む気にならなかった。連絡をしたから、自分でも笑っちゃうくらい緊張しているのかもしれない。 「ああ…雨が強くなってきた。明日も雨かなぁ。明日は日曜日だから、うちはランチだけなんだよなぁ。だから早く止んでくれないかなぁ…」 マスターの独り言を聞く。 雨は憂鬱だ。気持ちも空気も重くなる。 「…んっ?そうでもないか。下野さん、あと一時間ね。今から一時間でいいよ。オマケしとくよ」 「え?何が?」 マスターが一時間オマケをすると、訳がわからないことを言っている。それに、そうでもないとも言っていた。 何のことを言っているのか。雨足のことだろうかと、入り口を振り返り外の雨を確認する。 「ほら、振られてないみたいだよ」 入り口を指差してマスターは言った。そこには傘をたたんでいる人の姿が見えた。 「料理は適当に出す?飲み物は?」 「…ああ、適当にお願いしていいか?」 声が上擦ってしまいそうになった。入り口から真っ直ぐこっちに向かって歩いてくる人がいる。ずっと会いたかった人だった。 「春ちゃん」 「…ちゃん付けで呼ぶな」 下野が立ち上がり、テーブル席に誘導した。春は居心地悪そうにしているが、何も言わずに席に着いてくれている。 「よかった、来てくれて。メッセージ読んでくれてたんだな」  下野がそう言うと、コクンと春は頷いている。どうやら一方通行ではなかったようだ。 「さっきまでは、蓉と海斗もいたんだ。だけど、お腹いっぱいになったから帰ったよ。でも、春ちゃんがもしかして来るかもとは、二人には言ってないよ?」 「来ると思ってなかったくせに…」 軽く上目遣いに睨まれた。どんな形でも視線が合うって嬉しい。 仕事では一緒の席に着くことはあったが、プライベートでは久しぶりだった。 マスターとアルバイトの子と二人で、春に飲み物と、幾つかの料理を運んでくれた。ありがとうございますと、礼儀正しく春は答えている。 「春ちゃん、仕事どう?忙しい?陸翔が下についたんだって?大変か?」 質問ばかりになってしまったが、色々と話をしたいことはある。 「そうなんだよ。陸翔が急に異動してきて、マーケティング部は今めちゃくちゃ忙しくなった。陸翔ひとりが来ただけで、こんなになるなんて、アイツある意味凄いよな?」 仕事の話になると饒舌になり喋ってくれる。少しずつ春の近況報告を聞けて下野は嬉しく思っていた。 「…え?そうなの?蓉と海斗が引っ越しするのか…また一緒に住むのか?仲がいいな、本当に」 「そうらしいよ。何か、蓉のベッドが壊れたんだと。で、いい機会だから引っ越しするんだって言ってた。ベッドが壊れたから引っ越しなんて可笑しいよな」 蓉と海斗の話になると春はケラケラと笑ってくれるようになった。昔に戻った感じがして下野は嬉しく思う。 「あはは、ベッドなんてそう簡単に壊れるか?蓉も海斗も本当に面白い。でも、今は海斗も経営企画部に異動になったし、忙しそうだよ。いよいよ、アイツも腹括ったか?」 「海斗は覚悟決めたって言ってた。本当に良かったよ。俺はアイツのこと心配だったし…忙しくしていても、目的があればいいだろう?これからアイツの時代になるんだろうから」 「忙しいって…お前も忙しいじゃないか。デリカテッセンの王なんだろ?」 腕まくりをして料理を食べている。シャツから出ている春の腕は細い。 春は小柄だからスーツより私服の方が似合っている。今日は土曜日だから久しぶりに春の私服姿が見れていた。 「いや…そう呼ぶなって。まぁ、忙しいけど、今は軌道に乗ったし。人も多く雇えるようになったから、少し余裕は出てきたよ。関西からこっちに引っ越してきて、また前のところに近い場所に住んでるんだ」 春とは同期入社だ。以前春は、下野の家にしょっちゅう遊びに来ていた。 だけど、ある時から避けられるようになっていた。ある時とは、下野が退職を決めた時からだ。 「前のところって、この辺?」 「ん?そうだよ」 春はふーんと言い、食事を続けている。サラッとしている春の髪は少し伸びたなと、感じた。その髪に触れたい衝動が起きる。 「そうか…関西からこっちに帰ってきたのか。でも…俺はまだ怒ってる。一緒に会社で頑張ろうって約束したくせに」 やっぱりまだ春は怒っていると言う。昔は一緒に頑張ろうと言っていたが、その約束は下野の退職で叶えられなくなったからだ。 「ごめんな。でも、辞める前に春ちゃんには相談したろ?そんで、俺と一緒に来ないかって言っただろ?俺はまだそれは諦めてないよ。今も春ちゃんと一緒に仕事はしたい、俺のところに来て欲しい。だからちょっと遅くなっちゃったけど、約束通りやっと連絡して会うことができた」 「…約束はしてない」 この話をすると平行線になるのは、もう何年も前から同じである。 「…下野さん、そろそろいい?」 マスターから声がかかった。あと一時間のオマケが終了となるようだ。 「春ちゃん、パンケーキ好きだよな?パンケーキ食べる?うちにあるよ?作ってあげるよ」 昔よく春に作ってあげたことがあった。パンケーキが好きな春に、下野は自宅に招きよく作っていた。今日も来てくれないかなと思い、パンケーキミックスを買ってある。 マスターにお会計をしながら春に声をかける。まだ春と一緒にいたい。春もそう思ってくれているはずだ。そう願いたい。 「やだ。今はパンケーキより、ホットケーキが好きだから」 春がワザと困らせるようなことを言う。遠回しに家に来るかと誘ったが、うんと返事するのが恥ずかしいようで、ツンと澄まして困らせることを言う。だけど、春の顔は赤くなっていて可愛い。 「…はい。これあげる。ミルクと卵があれば出来るから。パンケーキじゃなくて、ホットケーキが作れるから」 店の奥からアルバイトの子が、ホットケーキミックスの箱を抱えて春に渡した。 下野と春の話し声が聞こえたのだろう。たまたま店にあったホットケーキミックスを持っていけと、アルバイトの子は言い、それを渡された春は驚いて固まっている。 「あはは、ありがとう。助かった」 これで春が家に来てくれる口実が出来たと思うと嬉しい。笑いながら下野が挨拶し、春の背中を押して外に出る。 雨はもう上がっていた。 「春ちゃん。俺、ちょっと飲んでるから、手を繋いでもいい?」 「…えっ?う、うん…」 下野と春の間で、飲んでいる時は手を繋ぐという約束がある。その他にも約束はあるが、春は覚えているだろうか。 「久しぶりだね、春ちゃん。本当に久しぶりだ。ずっと会いたかったよ」 「忘れてたくせに…」 「忘れてないよ。ずっと考えてた。連絡、遅くなってごめんね」 「…うん」 「ホットケーキでしょ、それから何食べる?明日は日曜日で休みだから、久しぶりに春ちゃんの好きな物をいっぱい作ってあげるよ」 会いたかったと、もう一度心の中で呟いたら、春にも伝わったようで、握っている手をキュッと微かに握り返してくれた。 end

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