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第1話

 妊娠可能者定期検診の日がやってきた。  小川達彦はかかりつけの妊産科医院の待ち合いでぼんやりと読書をしていた。  妊娠可能者定期検診は、α女性、β女性、そしてΩの男女が年に一度受ける事が努力義務とされている検査であり、達彦はΩ男性だ。  Ω自体が少ないため、βとΩは同じ検査日に指定されて居る。今のところΩはたった一人だけで、β女性が好む人工香料に満たされた空間はあまり居心地が良いものでは無い。  後からやってきたΩ男性と思われる人も、少々強面の割には気まずそうにそそくさと達彦の隣にやってきて、会釈をして座った。退屈していた達彦は、見た目の割に身を小さくしているその人に話しかけてみる事にした。 「慣れませんよね、この空間」 「ですよね……ここ今年から通ってるので、お仲間が居て良かったです。去年まではΩ専門病院行ってたんですけどね」 「Ω専門病院は、なんせ距離が凄く遠いですもんね……」 「そうなんですよ。でも子供産む、とか、もし、もしですけど、なったらやっぱり近場にかかりつけ無いと困るし……ここ、院長先生はαだけどΩにも親身でβの先生も多いし、Ωの先生も居るって有名だったし……」  少し照れた様に言う彼の左手の薬指には指輪がある。 「新婚さんですか?」 「あっはは、恥ずかしいですね、最近やっとまだ番にはなってないですけど……」 「おめでとうございます」 「ありがとございます。初対面なのにすみません……」 「とんでもない。羨ましいです」  実際羨ましいわけではなかったが、達彦なりの社会性である。 『63番の方。2番の検査室にお入りくださーい』 「いきなり検査室……?」 「別の病院ではまず診察室で問診でしたね、ここは混んでるからかな……」 「去年はここもそうでしたよ。不思議ですね。では、お先に」  ペコリとお互いに頭を下げあって、達彦は検査室に向かった。  既にきっちりとカーテンのしまった内診台にたじろぐも、看護師にやるべき事を指示されて、下半身をタオルで隠しながら座る。 「お名前の確認をお願いします」  しっとりとして落ち着いた、しかし艶のある様な男性の声がする。 「小川達彦です」 「はい。では今回は国の検診でお間違いないですね?」 「はい」 「では台倒しますね」 「はい」 「器具を入れますので、触ります」 「はい」 「押しますよ。」 「はい」  常に返事を確認してから実行する、安心感があり、とても丁寧で、実に好感の持てる快適な内診だった。器具の扱いは神経質で、穏やかで、そして淡々としている。痛みも無かった。 「特に異常は無いですね。以上で検査は終わりです。詳しい検査結果は後日郵送になります。他に何か心配な事とかありませんか?」 「大丈夫です」 「では、お疲れ様です」 「ありがとございました」  あっさりと終了して、ジェルを拭って、服を着ていると、パタパタとカーテンの奥で小走りをする人の動きで、ほんの、本当にほんの微かな風がカーテンを揺らして、空気が下を抜けてきた。  南国の花の様な、暑く蒸れる様な、甘い香り。  αのフェロモンの香りだ。それも非常に魅力的な。  身体の力が抜けて、微かでさえあればリラックス出来る香りだ。達彦は良い物を貰った様な、顔も見えなければ性格も知らない分、かえって少しばかりラッキーな気持ちになる。  この病院で、αの職員がΩの診察室や内診室の近くに居るのは珍しい。ヒートが不安定な患者も訪れる為、他の病院以上に事故防止に気が使われているのだ。何か余程のっぴきならない事情があったのだろう。だからカーテンがきっちり閉まっていたのかと納得した。  会計待ちをしていると、受付の奥から甘い香りが漂った。先程のαがいる。敢えて見ないようにして俯く。もし好みの男前じゃなかったら退屈だからだ。 「流石にそろそろ体力の限界かも……」 「いやあああ、東雲先生ほんとに今ピンチです、大ピンチなんです! せめて、せめて午後のαの患者さんだけでも! だけでいいんでほんとにほんとに!!」 「わかってます! わかってますから! ちゃんとβとαの患者さんも診ます。ただ、少しだけ外の空気吸わせてください……」  疲れ果てている方の声は内診の時の物で、どちらがαの声なのかはわからない。 「あっ……申し訳ありませんね……ホホホ」  ちょうど目があった達彦にむけて、受付の女性が誤魔化しながら、奥の事務室への扉をピシャリと閉めた。 「ありがとうございました」 「お大事になさってください」  本当に余程の事だったんだと理解して、苦笑いで会計を終えて外に向かった。  エレベーターに乗ると、頭の血管が急に脈打って、ジンと痺れた。もしかしたらヒートかもしれないと思うと、みるみる内に体温が上がってくる。手足が震え、緊急用の抑制剤を取り出そうと慌てているうちに一階に到着し、手を壁について降りようとすると、開いた扉の向こうの、強い花の香りの温かい壁に、ぶつかった。もう身体が動かず、手遅れのヒートになった。 「どうしました……?」  怪訝な顔をしている、見てしまった……ヒートのせいであろうか、物凄く魅力的な容姿に見えてしまう。ヒートが終わった後に見たらどう見えるのかわからないと、努めてネガティブな考え事を繰り返す。そうしなければ、縋り付き、しなだれかかってしまいそうだ。見知らぬαに。そんなのはαとΩでも無ければただの痴漢犯罪に値するだろう。 「ヒート……かな……変だな……抑制剤飲んでた……のに……どうして……時期じゃ……ないし……」 「落ち着いて、このまま病院に戻りましょう。ボタン押します。私はαなので、階段を使うから、とりあえず座って、転ばないように、上ですぐ助けますからね」  頷くと扉が閉まり始めて、走り出す男性の足だけが見えた。  扉が開いた時には、病院から人が飛び出してくる所だった。扉を開いた状態でロックさせてから、看護師が男性医師の腕を捲りあげて、注射を打っている。  ストレッチャーがやってくると、少々震えている男性医師と看護師に抱えられて寝かされる。その匂いや温もりにより一層の熱を感じ、仰向けになれずに蹲ったまま運ばれた。 「強い抑制剤はうったけど、私はなるべく部屋に入らないから。私自身の状態から察するにヒートで合ってると思うんだよね。抑制剤飲んでて、なお且つ時期じゃないと言っていたから急性だと思う。薬使えるか判断するから、カルテ持ってきて。あ! あと!! 午後からαの患者さんも来るから、個室隔離してるけど一応、彼の同意の元、噛み付き防止のカラーつけてもらえたら安心だと思う、あと、私が理性を失った時は何としてでも止めて、何してもいいから。麻酔銃とか使ってでも対処して……」 「そんなものは無いです」  部屋の外で自分の対処について話しているその声に、達彦の心臓がギュと締め付けられて、興奮してしまう。なんと浅ましい身体だろうかと苦々しい気持ちが頭の片隅に残っているのは、普段飲んでいる抑制剤が多少なり頑張っている証拠だろう。しかし、あまりに酷い興奮状態に既に下着はベトベトだ。  入ってきた看護師に、幾ばくか質問される事に答え、説明される事に頷き、多少理性が持ち直す。  まずカラーをつけてもらう。 「この薬、まだ出たばかりなんですけど副作用の報告が既に結構ありまして……吐き気、頭痛、腹痛、目眩、黄疸、性的興奮……」 「あ……エヴァ4ですか? 大丈夫、そいつの副作用について院で研究してる、薬剤師です……死にゃしないと、思うんで、とにかく打ってください……」 「そうでしたか。では、すぐ打ちますね。」  自分が副作用を調べていて、なお且つ割りと酷いけど価値のある薬を、まさか自分自身が使う事になろうとはと思う。 「では、薬が効くまで、コールで呼ばれない限りは絶対に誰も入りませんし中から開けられる施錠もしますので。ご存知かとは思いますけど、一応薬の効果は10分程度で出てきます。では失礼しますね」  服に少しだけ残るαの花の香りを感じて、下半身に手を伸ばす。  

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