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第1話
眠りに落ちる間際、揺蕩 いまどろむ意識の中で、ふと思った。
――鍵、閉めたっけ……?
友達と遊びに行くのに鍵を持ち歩くなんて邪魔なだけだ。失くしたら怒られるし。
だから俺は、いつも親には秘密で、今は物置きになっている一階の元こども部屋の窓から出入りしていた。丁度遊び場の方向に出られて便利だし、家の裏側なので人目にもつきにくいから。
慌ただしく帰ってきた俺は、果たしてそこの鍵をきちんと閉めたか……ふと、不安に思う。
まあ、いつも帰ってきたら忘れずに閉めるようにしていたし、きっと大丈夫だろう……。そうして、そのまま意識を手放した。
じっとりと纏わりつくような暑さと湿気。寝る前から土砂降りだった雨は、相変わらずのようだった。
ザアザアと叩きつけるような激しい雨音と、ゴロゴロと大気を揺らす不穏な雷の音。どうして俺は、こんな夜中に起きてしまったのだろう。いつもはこんな事ないのにな……。そう思いながら、ぼんやりとした目を擦る。瞬間、ひときわ大きな雷が落ちた。
「うわ、結構近くに落ちたかも」
少し外の様子でも見てみようかと布団から抜け出して、閉めていたカーテンに手をかけた時、一階から大きな物音がした。いつだったか、三つ年上の姉に「夜中にお父さんとお母さんの部屋から音がしても、絶対見に行っちゃダメ」と言われたのを思い出して、ワクワクしながら目的の変更を決める。行くなと言われたら行きたくなる。俺はそういう性格だから。
俺と姉の部屋は二階にあり、俺は去年から一人で寝るようになった。もう三年生だし、一人で寝ても全然平気だ。何なら周りの友達で、もっと早くに一人部屋デビューしている奴だっていたくらいなのに。
足音を潜めて歩いても、微かに軋む階段。けれどこれくらいの音ならば、今日は外の酷い雨音に紛れてくれるだろう。階段を慎重に一段一段下りてゆき、カーブしている折り返しに来て少し視界がひらけた時、異変に気が付いた。
「ん……?」
床に色々な物が散乱している。暗いせいでハッキリとは見えないが、それでも物の輪郭くらいは掴めた。ぐしゃぐしゃになった布、割れた器、倒れたラックと散らばった本。
いつもとは違うリビングの状態に戸惑っていると、急に、つんざくような悲鳴が聞こえた。それと同時に、ガシャン、ガタガタッ、と物音も大きくなり、俺はこわくなって、その場から動けなくなる。きっと、お父さんとお母さんが喧嘩しているんだ。そう思った。
「大人しくしろ!!」
「いやああああ! 助けて!!」
「騒ぐな!! お前も殺すぞ!?」
――殺す?
動揺していても分かった。それは、お父さんとは違う男の声だと。そして、聞いたこともない金切り声を上げるお母さん。……こわい。
とてもこわい筈なのに、不思議と足は声のする方へと動き出す。やめろ。なんで。そっちへ行くなよ……! ガクガクと震えだす足。初めは地面の方が揺れているのかと思った。
壁を支えにしながら伝って歩き、息を殺して近づいていく。床に散らばったガラス片が足の裏に刺さって痛いのに、それでも歩みは止まらなかった。ピカッと眩い閃光と共に一瞬照らし出されたのは、刃物を持った男の後ろ姿と、床に尻もちをついているお母さん。そして、刃物を持つ男の足元に転がる血塗れた何かの後ろ姿だった。何かが纏う布地に酷く見覚えがある。
「……お、お父さん……お母さん……?」
声を出したつもりはない。それでも、俺の息は空気を震わせ、音となった。
光から遅れてやって来た音と衝撃。
――ああ、もしかすると、さっきの雷も家に落ちていたのかもしれない。そんな場違いなことを考えた。
「いやよ、だめ……逃げて、しょうと……!」
暗闇の中、お母さんが首を振ったのが分かる。男はゆっくりと――
五十二ヘルツの鯨は
「おはよー」
「あぁ、おはよう」
「素っ気ないなぁー。折角こんなイケメン幼馴染みが声かけてるのにねー?」
教室へ向かう途中の階段で、にやにやと裏のありそうな笑顔を浮かべた幼馴染みは、語尾にハートマークでも付きそうな言い方をしながら、俺の頬をツンと突いた。
「やーめーろー」
「なんで? いいじゃん減るもんじゃないし」
「いいや減る。俺の体力が減る。だからヤダ」
「ちぇー」
幼馴染みの天海 京丞 は、確かに中々カッコいい。齢十七歳にして、既に完成された顔面をしている。少し垂れ気味の優しい印象の瞳に綺麗な二重、すっと通った鼻筋で輪郭もシュッとしている。まさに絵に描いたような美形。減点方式なら減点なし、加点方式なら加点まみれな、神のえこひいきによって顔面を作られた男。髪型も、緩くふわっとした天然パーマで、ミルクティーのような色をしているし、身長は俺より十センチも高い。
おそらくそれらのバランスを、この若干残念な性格でとっているのだろう。何も知らない女子からは少女漫画のヒーロー扱いで、日々キャーキャー言われているが……。
「……ちょっと、なんなの。痛いんだけど」
「ん? なーんか失礼なこと考えてそうな気がしたから」
「……考えてないですよ?」
「君は本当に分かりやすいですね?」
頬を摘ままれながら、「良く伸びるほっぺだねぇ」なんてクスクス笑われている。こうして揶揄ってくるところはあるが、何だかんだで良い奴だから、結局一緒にいるんだよな……。
「……ねえ、そろそろ前髪切れば?」
脇から顔を覗き込まれて、顔を背けた。
「いや、まだそんな言う程長くないでしょ」
「暗いのは苦手なのに、自分で前髪長くして視界暗くしてるの、本当に意味分かんないわー……」
はらりと前髪を分けられて、軽く手を叩き落す。
「別に京丞に理解されなくても良いし」
「なんでそういう事言うかな、この子は……」
開けた視界なんて、落ち着かないに決まっている。元から悪い視力のせいで眼鏡までしているものだから、クラスの上位カースト達に影で「陰キャ眼鏡」と呼ばれていることを、俺は知っている。長めの前髪、重たい印象の黒髪、眼鏡で図書委員で帰宅部で猫背でボソボソ喋って……。まあ、そう呼ばれてもしょうがないのかもしれない。それなのにこんなに眩しい奴が傍にいるから、俺が付いていっている訳でもないのに、金魚のフン扱いされるんだ。本当、勘弁して欲しい。
はあ……と溜息を吐きながら、階段の一番上の段を上った瞬間、重たい衝撃が身体へと走った。間もなく不思議な浮遊感があって、そのまま身体が後ろへと傾いていく。珍しく慌てた様子の京丞が、俺の名前を呼びながら、こちらに手を伸ばしているのがスローモーションのように見えた。
――あ、死ぬかも。
流れた走馬灯に碌な思い出なんかなくて、折角なら幸せな思い出が溢れるようになってから死にたかったな……なんて何処か他人事のように思っていたら、階段を転がることもなく、ボスッと硬い物にぶつかった。構えていたような衝撃は訪れない。
「ん……?」
「……」
「おい孝汰 ! 大丈夫か!?」
「え? あ、うん。なんか大丈夫みたい……」
「はぁーー……。ったく、お前ら! 気を付けろよな!」
京丞の視線の先を追うと、気まずそうに「ごめーん」と謝っている男子生徒二人。どうやら彼らがふざけていて、一人がバランスを崩してよろけ、その肘が俺に当たったらしい。呆然としたまま動けずにいると、俺の身体を支えていた何かがモゾっと動いた。
「……孝汰、いつまでそうしてんの。迷惑でしょ。とりあえずお礼は言っておきな」
どうやら後ろに居た奴が、俺の身体を受け止めてくれたらしい。
「あ、えっと、助かった。ありがとう……」
「……別に」
そいつはあまり見たことのない奴だったが、何事もなかったかのようにそう言うと、俺達の隣のクラスへと入っていった。
「素っ気ない奴……」
「それ、お前が言うかね?」
「え?」
「自覚なしかよ。いや、それよりマジで気を付けなよ。俺の方がびっくりして心臓止まるかと思った……ほんと、寿命縮んだ」
「大げさなやつ」
「孝、お前ね……」
握りこぶしを作ったかと思えば、呆れたような溜息を吐きながら、髪の表面に軽く触れるくらいの甘さでコツンと小突かれた。そういえば、京丞はいつも俺のことを呼ぶ時、「孝」とか「孝ちゃん」と呼ぶので、久しぶりに「孝汰」と呼ばれた気がする……。
「あ、名前聞くの忘れた」
「はあ? 誰の」
「さっき助けてくれた人」
そう言って、先程彼の入っていった教室を指差すと、京丞が驚いた顔をする。
「え? 孝、アイツのこと知らないの?」
「なに、有名なの?」
「有名も有名。うちの学校で一番有名かもよ」
「えっ、うそ。誰? 名前聞いたら思い出すかも……」
「伊佐名 鐘斗 。この辺じゃ有名な、一家四人殺傷事件の被害者にして、唯一の生き残り」
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