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第1話
どうやら残業しているのは俺だけのようだ。
目をこすりながら薄暗いオフィスを見渡すと、フロアは静まり返り、コピー機の待機音だけが響いている。
「とにかくこの資料を10部刷ったら帰ろう。ビール買って早く寝たい…」
独り言を漏らしながらコピー機へ向かったその時、ガチャリと扉が開いた。
焦った様子で入ってきたのは同期の五十嵐だった。
「あ、橘いたのか。お疲れ。忘れ物してさ。誰かいてくれて助かったよ」
照明を受けてきらりと光る笑顔に、胸が一瞬熱くなる。
——俺は五十嵐が好きだ。
精悍な顔立ち、爽やかな仕草、誰にでも分け隔てなく接する性格。仕事もよくできて、営業成績は常に上位。
だからこそ、気持ちがバレないよう必死に平静を装ってきた。
「五十嵐と二人きり…? 落ち着け、俺…」
コピー機のスタートボタンを押すと、A4用紙がリズムよく排出されていく。
それに意識を向け、昂る心をどうにか抑えようとした。
——だが。
すぐ横に気配を感じた。
五十嵐がいつの間にか隣に立ち、俺の腰にそっと手を添える。
「橘さ…俺のこと、好きだろ」
耳元に落ちた低い声に、息が止まる。
隠していたはずの感情が、一瞬で見透かされたようだった。
「隠してたつもりでもさ、視線でわかるんだよ。よく目が合ってたし。
ああ、気になってるんだなって、ずっと思ってた」
優しく、でも逃げ場を与えない声。
「俺、ずっと——」
五十嵐が続けようとした瞬間、印刷の音が止まり、静寂が落ちた。
張りつめた空気の中、彼は小さく息を吐く。
「……ずっとタイミング見てた。橘がどう思ってるか、ちゃんと確かめたくて」
腰に添えられた手に力が入り、身体がわずかに引き寄せられる。
心臓の音が自分でもうるさい。
「……俺、本当に…五十嵐のこと…」
最後まで言い切る前に、五十嵐がそっと俺の手を取った。
「無理に言わなくていい。表情でわかるから」
穏やかで、でも熱を含んだ声。
五十嵐は俺の指先を絡め、少しだけ近づく。
「橘、帰るんだろ? 俺も送ってく。話したいことがある」
「えっ、でも五十嵐…忘れ物は?」
「もう回収した。あとは、お前の返事だけだよ」
胸がじわりと温かくなる。
薄暗い蛍光灯の下でも、五十嵐の瞳だけは真剣に光っていた。
「行こう、橘」
手を放さずに、五十嵐は俺を出口へ導く。
その掌の温度が、ずっと欲しかったものだと気づいた。
廊下に出ると、静寂の中に二人の足音だけが響いた。
エレベーターに向かいながら、五十嵐は笑う。
「橘さ…緊張してる?」
囁かれ、喉がひりつく。
「そ、そりゃ…するだろ…」
「だよな。でも安心しな。橘が嫌がることは絶対しない」
軽く握り返された手だけで、全身が熱を持つ。
エレベーターの扉が閉まった瞬間、密室の空気が一気に濃くなった。
五十嵐が腰にそっと触れる。
「橘。さっきの続き、聞かせてほしい」
逃げたいのに、離れたくない。
「……俺、五十嵐のことが……ずっと、好きだった」
言葉を吐き出すと、五十嵐の表情が一瞬ふわりと緩んだ。
その変化が、息が触れるほど近くで見えた。
「うん。知ってたけどさ……直接言われると、やばいな」
指先が俺の頬をなぞり、視線が絡む。
「橘、キスしていい?」
小さく頷いた瞬間、触れた唇が思った以上に甘くて、理性が静かにほどけていく。
離れると、二人の呼吸が熱を帯びて揺れた。
「……橘、続きはさ。ここじゃない方がいいよな」
「……ああ」
エレベーターが開くと、五十嵐は腰にそっと手を添えて言う。
「俺ん家、近い。行こう」
夜の外気に触れると少し冷たかったが、五十嵐の手はやけに暖かかった。
歩きながら、彼が横目で覗き込む。
「橘、緊張してる?」
「当たり前だろ……五十嵐の家とか」
「ふふ。そんな可愛い顔されたら、俺が落ち着かなくなる」
マンションに着き、オートロックを抜け、二人きりの空間に。
扉が閉まった瞬間、壁にそっと押し寄せられた。
「橘。もう逃げないよな?」
息が耳に触れ、身体が震える。
「……逃げない」
その言葉を聞いた五十嵐の瞳が、静かに熱を帯びた。
キスは先ほどより深く、長く絡む。
指先はシャツ越しに腰のラインを確かめ、胸元へ触れかけては寸前でとどまる。
「……触ってほしい?」
返事をする前に、沈黙がすべてを伝えていた。
五十嵐は俺の手をやさしく取り、自分の胸元へ導く。
熱が指先から伝わり、彼の呼吸がわずかに乱れる。
「橘……ほんと、やばい。ずっと、こうしたかった」
首元に落ちるキスの痕がじわりと熱を描く。
背に添えられた手が逃がさないように抱き寄せ、ゆっくりとベッドの端へ座らされる。
髪を撫でながら、五十嵐は真剣に問いかけた。
「無理じゃなかったら……このまま、続けてもいい?」
俺は五十嵐の手を握り、小さく頷く。
「……五十嵐となら、いい」
その瞬間、五十嵐の表情がほどけ、
次のキスはもう、迷いのない甘さに満ちていた。
——熱が、ゆっくりと互いを満たしていった。
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