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Show me your secret
「別にカメラマンが来る訳じゃないし、君はヴェルサーチのモデルでも無いんだから、もっと気楽にしたら」
ゆったりした泳ぎで水の中を行き来するのにも、いい加減飽きたのだろう。相手が構ってくれないのならば尚のこと。プールサイドに引っかけた腕へ顎を乗せ、ハリーはエリオットに呼びかける。
「あと、こんな所へ来てやることが読書なんて大罪だ。市長権限で逮捕してやろうかな。保釈はなし」
「ここは君の市じゃないだろう」
読んでいたペーパーバックのアガサ・クリスティから視線を上げ、思わず苦笑を浮かべた。覚えた既視感に少し考え込み……すぐ思い出す。マリリン・モンローの有名なスチール写真だ。確か彼女が死ぬ間際に撮られ、結局公開されなかった映画の。
別にヴェルサーチなんて大仰なものではない。どちらかと言えばラルフ・ローレン風。夏らしい細身のチノパンにサファイアブルーのポロシャツ、他にもキャリーケースへ詰め込んできたのは、ちゃんとバケーション仕様のワードローブばかりだ。
パラソルが作る濃い陰の下、日頃の慌ただしさを忘れてのんびりするにはちょうど良かった。だがハリーにとって、夏を満喫すると言うことは、水着を着て焼けるような夏の直射日光の元へ飛び出すことらしい。彼がこの地へ滞在して既に1週間近く。少し日焼けしたようだ。昨日も今エリオットが使っているデッキチェアへ長々と身を横たえ、日光浴をしていた。青いシンプルなボックスタイプの水着を、敷き詰められたタイルの上へと脱ぎ捨てて。
「どうせならカメラマンを呼んで、君が写真を撮って貰えば良かったのに。優雅な独身生活を謳歌する市長って触れ込みで」
「あのヴォーグの? ちょっと変わった男だったな」
くすくすと笑いながら、「飲むものを持って来てくれ」と手で招く。
「君が飲んでるのでいい、ボトルごと……どうでもいいが、君とゴーディ、たまに職場で酒を飲んでるだろう。そこそこ良さそうなウイスキー」
「職務規定違反なのは認めるよ」
「別にそんなこと、一々咎め立てたりしないさ」
車で20分走った先にある町で、最初に目に入った店で買って来たポルトワインは、本来こんな暑さの中で飲むべきものでないのかも知れない。舌が張り付きそうに芳醇な甘みは、鼻腔の奥までガツンと回る。グラスに半分ほど注いで持っていってやると、すかさず腕がにゅっと伸ばされた。彼が全身に纏う健康的な太陽の匂いは、小麦色の肌を滑る水滴に混ざって、瞬く間に揺らめく空気へ蒸散する。白い歯を見せて笑う口元はけれど、顔を覗き込まれればすぐさま悪戯っぽい形に釣り上がる。
「ただ、君達には2人だけで通じる秘密が多いな」
「秘密なんかじゃないよ。付き合いが長いから、お互いの間でお馴染みになった話が多いだけ」
しゃがみ込み、額に張り付いた濡れ髪を払ってやりながら答えても、ハリーはまだ不服な表情を崩さない。
「でも、上司への報告、連絡、相談が仕事の基本だろう」
「これからはちゃんと君に、中抜けの書類を提出してから飲むようにする」
「馬鹿」
スペリートップサイダーの白いデッキシューズは履き慣らされて紐まで柔らかく、いじいじと引っ張られた位では簡単に解けない。挑戦している最中、深い水の中で、爪先が青く塗られたプールの底を引っ掻くように軽くばた足の動きを作る。人魚のようだ。男を海の深淵へ連れ込む悪い、美しい生き物。
彼ら彼女らは、そのかいなへ抱く時、相手が呼吸を奪われてしまうことを知っているのだろうか。
「僕は、僕しか知らない君の秘密が欲しい」
遂に諦めてワインを一息に飲み干し、ハリーは灼熱へ早くも乾き始めた逞しい肩を竦める。
「それって悪いことかな」
「悪くはないけれど、難しい望みだね。何か目ぼしいものがあるか、ちょっと考えてみても良いかい」
差し出されたワイングラスへ再びボトルから注ぎ、ついでに自分の分へも継ぎ足す。この旅に、避暑なんて言葉を使うのは間違っている。少し陽の当たる場所へ出ただけで、喉と舌が張り付きそうな有様だった。
「私は、君に対しては随分と正直なつもりだよ」
「嘘つきめ」
ばしゃりと、胸元が濡れたのを知覚した時、最初エリオットはプールの水を引っ掛けられたのかと思った。だが白いタイルの上へぽたぽた滴るものの色味は、さながら鮮血のよう。
空になったグラスをプールサイドの縁へ置き、ハリーは頬杖をついた。
「脱げよ」
「それは命令?」
「ああ」
エリオットは黙って、シャツのボタンを外した。「立って、それから後ろを向いて」と命じられれば、その通りに。脱ぎ落とした服がタイルの水溜りへ落ちるが、構うことか、もう今更。
入れたのはもう20年近く前なので、色も少し褪せている。けれどその後ろ姿が露わになった時、ハリーは初めてこれを目にした日と同じく、小さく息を呑んだ。今回は驚愕ではなく、興奮によって。
首の付け根から尾てい骨に向かってくねり走る、ハイパーリアリズムで描かれた蠍の背後に、教会と死神が浮かび上がる、黒一色のフルバック・タトゥー。背中全面をカンバスにして大胆に刻み込んだそれは、若気の至りでは済まされない。
もっと切実だったんだよ、あの頃は。本人ですら上手く説明出来ないことを、ハリーは汲んだらしかった。「それが、ホーボーケンで黒人のゲイとして生きることだったんだろう」理解度として申し分なかった。こちらとしても、求めていない。
多分、そうだ。これはハリーの無邪気に強欲な瞳へ絆されそうになっているだけ。大体、知ったからと言って何になる? 断絶によって、彼を舞台で独り、立ち尽くさせる真似はしたくなかった。そうでなくても、彼が呼吸し、芝居をする姿を舞台袖からつぶさに見ている立場なのだ。
いや、正直にならねば。最も恐ろしいのは、彼を傷つけた暁に、己が傷付かないこと。
或いは、その逆が。
ざばりと立てられた水音に、エリオットは空のデッキチェアへ用意してあったバスタオルを手に取った。ハリーは大人しく体を包み込まれるだけではなく、腕の中へ潜り込もうとしてくる。
「暑気あたりするよ。良い加減クーラーの恩寵を享受しよう」
身を離して、回廊へ向かうエリオットの後ろに続くのは、ぺたぺたといかにも害のなさそうな足音だけ。
しおらしいな、なんて少しでも考えたのが甘かった。居間へ足を踏み入れた途端、つと撫で上げられる感覚が背筋を走る。思わず笑ってしまったのは、愉快な気持ちになったからでは全くない。
携えていたワインをもう一杯、なみなみとグラスに満たし喉へ流し込む間、ハリーは好きに男の体を弄んでいた。恐らく聖堂の尖塔がある肩の湾曲の際へ口付ける。大きく開かれた蠍の鋏から、尾の先端で閃かされる針に向かって、すりすりと指先で辿っていく。肩口へ伏せられた顔から垂れ下がる髪はまだ乾いていない。冷たさを増した雫が垂れ落ちて首筋から胸元へと流れ込み、汗と合流する。ふっと息を吸い込んだのを、背後の男が聞き逃してくれたらいいと思う──そんな都合の良い話があるものかと、まだ辛うじて冷静な脳が呆れた溜息を溢した。
「君は、いつでも僕を肌触りの良いタオルでくるんでくれようとする」
滲み出るインクを味わうかの如く、最後に肩甲骨の上が舌先でちらりと舐められ、吸い上げられた。あどけなさすら感じる口調で、ハリーは呟く。
「けれど僕が君を見て思うことは、真逆なんだ。その余裕ぶった仮面をひっぺがしてやりたい」
「言っただろう。私は君の前で、随分正直なんだって」
甘い酒は顔に出る。目の奥で星が弾けているように感じるのも、多分酔いのせいだろう──いや、アルコールなんてこの熱気で汗として揮発し、とっくに飛んでいた。
「それに、知らなくていい事もあるよ。実際の私は、優しくもないし、冷たい性格だからね。やるべきことならば、君を無理矢理誰かと結婚させたりくらい、平気でする」
「でも君は熱いよ」
今彼が触れているのは、どこだ? 蠍の輪郭? 薄ら汗を掃く肌の上を動く感触。まるで本物の毒虫が這うように、そっと。
「熱くなってる」
背中に手のひらで触れたまま、ハリーはひたと身を寄せた。ふんわりしたバスタオルの中の体は、まだ水の中へいるかの如く冷えている。温めてくれ、と望まれているのか、温めてやりたい、と望んでいるのか、エリオットには分からない。そんな観点はコストパフォーマンスの点から、これまで無視してきた。
今は休暇中だから、ゆっくり無駄事を考える時間がある。無駄は悪いものじゃない。読んでも何の為にならない、アガサ・クリスティの小説と同じく。
「言っておくが、背中のこれに関しては、ゴーディとヴェラも知っている。モーはどうかな、彼の前で服を脱いだ記憶はないし、一緒に出張へ行った事も皆無だから」
「びっくりしてただろう」
「ヴェラのあの顔は傑作だったよ。すっかり縮み上がって」
くっくっと含み笑いを押し殺すよう、肩に顔をうずめていたハリーは、やがて耳へ唇を当てて短く囁く。
「これが僕の秘密その1」
首を捻り、怪訝そうに片眉を吊り上げたエリオットの頬に頬を重ねるようにして、そう言ってのけた。
「それで、君は思いついたか」
欲は善である。欲は正しい。欲は導く。欲は物事を明確にし、道を開き、発展の精神を磨き上げる。
映画の有名な台詞を思い出す。あれはつまらない作品だった。一作目はともかく、続編で主人公が愛に絆されて日和ってしまったから。観客が観たいのは非現実的な程に悪虐非道で、魔物じみたゴードン・ゲッコーであって、孫にやにさがる人間らしい老人ではない。
「君は私の弱みを握りたい?」
「それに近い何か……いや、純粋に、知りたいだけ」
忘れてはいけない、彼は腕の良い弁護士だった。その唇は嘘も誠も容易く紡げる。
今度こそ、エリオットはハリーと向き直り、身体を抱き寄せた。全く同じ仕草を返してやっただけだと言うのに、鼓膜へ言葉を吹き込んだ時、ハリーはびくっと大きく、腕の中の身体を跳ねさせた。
「……これは、かなりまずい話を聞いたかも知れない」
「未成年の時の話だし、もう時効になってる。そう言う件は、君の方が詳しいだろう」
「ホーボーケンは恐ろしい所だな……」
そう言って怖気を振るう癖に、背中へ絡みつく腕はすっかり甘えた色を纏っていた。バスタオルがばさりと音を立ててフローリングの上に落ちる。まるで服を脱ぎ捨てたかのようだった。いやらしいところなんか何一つない水着が、酷く魅力的なものに見えてくる。
「フランク・シナトラの街じゃないのか」
「シナトラはマフィアだ。最近また、芸術家は増えているしね。現代のホーボー(放浪者)さ」
「それ、差別用語だぞ。今の若い子には絶対通じない類の」
鼠蹊部に押し当てられる硬い感触。濡れた水着は冷房の風で冷たくなるのかと思いきや、重い生ぬるさを増している、これでもう、シャツだけではなくパンツまでおじゃんだ。
未練がましく、さわさわと背面を撫で回す手に、「刺青が好き?」と尋ねれば、「うん」と子供のように素直な頷きが返ってくる。
「いや、そう言うフェチズムはないけれど。これは好きだ。君がタフに生き抜いてきた証だから……どうして蠍の模様を?」
「そうだな、理由は」
もう一度耳打ちすれば、今度こそ明確に、抱き竦めた背中が快楽でしなる。
「これがチームの中で、君しか知らない秘密の2つ目」
「っ、ふふ、大盤振る舞いだな」
「今日は寛大な気分なんだ」
腰を抱かれて寝室へ向かう頃に、ハリーが頬をすっかり火照らせていたのは、太陽のせいでだけでも、欲望のせいだけでもない。そこにあるのは、間違いなく歓喜だった。本来ならば後ろ暗いような情動も、彼が発散すると、酷く受け入れやすいものになるのは何故だろう。
「一度、鏡で見ながらしたい。寝室に姿見があったし」
「少しマニアックじゃないか」
「構わないだろう。ここでしか出来ないんだから……ギャップに惚れる子が出てくるかも。市庁舎では、余り脱ぐなよ」
「そんな機会ないさ」
「どうだか」
悠々とした口調でそんな事を言ってのける癖、寝室のドアを勢いよく蹴り閉める行儀の悪い足は、なんて可愛らしいのだろう。見上げるエメラルドの瞳が煮えたぎるような情欲を隠しきれていないとなれば、頭がくらくらしてくる。
これが熱中症やホルムアルデヒドのせいだと思わないうちに、エリオットは力強い手へ引き寄せられるまま、薄くワインの渋みが残った唇を迎え入れた。
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