1 / 2
前編
仕事部屋の出窓から差し込む強い日差しに目を細め、ネクタイのノットに手を掛ける。
人差し指と中指を差し込み、左右に揺らしながら緩めると少しだけ暑さが和らいだ。
ほんのり茶色の髪はしっとり汗ばみ、どうにもこうにも暑い。だから夏は嫌いだ。
「今日はこのくらいにして、お休みになられたらいかがですか。夏休みも殆ど取られてませんし……」
「夏休みなんかいらないだろ。休めばその分、仕事が溜まる」
「梨人 様は意外と真面目ですよね」
「意外で悪かったな」
書類から目を離し、燕尾服に身を包んだ使用人でありパートナーの神楽坂 を睨むと、満面の笑みで返された。黒髪をオールバックにセットし、見た目は端正な顔立ちだが、口を開けば小言が多い。
「なんだよ、気持ち悪い」
「いえ、何も」
姫宮 家次期当主の俺は、姫宮グループの代表の父、姫宮英介 と同じく国内の業務を全て任されている。親父は海外、俺は国内と分けて取り仕切っているので、毎日が多忙を極めている。そんな俺をサポートし、公私共に支えてくれているのが神楽坂連 だ。
夏の暑い日、ちょうど今頃に俺たちは想いが通じ合い、その後金木犀の木の下でプロポーズをされた。困難を乗り越え、ようやく結ばれた俺たちは、今でもあの頃の気持ちを忘れてはいない。そして、その時に贈られたシルバーの指輪は、もちろんお互いの薬指にしっかりと着けられている。
「お前は別に休んでもいいんだぞ。俺は一人でも仕事はできる」
「またそうやって強がりを。では、こうしましょう。今、梨人様が手にしている書類が片付いたら今日の業務は終了です。わたくしとデートをしましょう」
「はぁ? まだこんなに目を通す書類があるんだぞ、お前とデートなんかしてる暇はない」
急ぎではないが、今日の分はその日のうちに終わらせないと明日は更に忙しくなる。
テーブルの上に山積みの書類を指さし、神楽坂を再び睨むと、また満面の笑みだ。
「さっさと終わらせてください。わたくしも準備しますので」
「神楽坂、お前いつからそんなに耳が遠くなったんだ。デートじゃなくて病院に行けよ」
「失礼ですね、ちゃんと聞こえてます。残りの書類はなんとかしますので、問題ありません」
神楽坂は有能だ。その男が言うのだから、大丈夫なんだろうけど……なにか企んでそうで逆にこわい。
目的の為なら手段を選ばない男だ。断ったらもっと厄介なことになりそうで、仕方なく神楽坂の言う通りにすることにした。
**
「お前の企んでたことってこれ?」
仕事を無理矢理切り上げ、何故か浴衣に着替えさせられた。そのままリムジンに乗せられ連れてこられたのは、人でごった返す花火会場だった。
「そうです。梨人様には非日常的だと思いますが、庶民ならこれが日常です」
神楽坂曰く、今夜は普通のデートをして欲しかったらしい。
花火大会といえば、貸し切りでしか観たことない俺にとって、普通がわからない。
それに、浴衣だってそうだ。頭のてっぺんから足の爪先までフル装備も、大人になってからはなかなかない。
「庶民ねぇ。つーか、いつの間に浴衣用意したんだよ」
「神咲 屋の若旦那様に無理言って用意していただきました」
「あぁ、美人な若旦那か。じゃあ、アイツが選んだわけ?」
「いえ、いくつか見繕っていただき、最終決断はわたくしが……何かご不満ですか」
「そ、そういうわけじゃない」
俺には濃紺の近江ちぢみの浴衣、角帯は生成の博多織だ。この織りは確か、伝統柄の「献上」だろう。浴衣の生地は麻でさらっとしていて着心地は申し分ない。控えめながらもやはり高級生地だけあって、品がある。
「やはり梨人様には紺がお似合いです。角帯は献上を一本で表現した『鬼献上』です」
「へぇ、献上は知ってるけど、鬼は知らなかったな……って、ちょ、ちょっと待てっ! 帯、同じ色じゃないか?」
「ええ。そんなにびっくりすることですか?」
浴衣は燕尾服のような黒色で、帯は俺と同じに見える。いや、多分同じだ。
「だって、恥ずかしいだろ!」
「どうして梨人様が恥ずかしいのですか」
口にはしてないが、浴衣も同じ近江ちぢみだろう。さっき袖に触れた時、気づいた。夜だから見えずらいとはいえ、なんとなく落ち着かない。
「とにかく、ちょっと離れて歩け!」
「迷子にでもなったらどうするんですか。こうしてしっかりと……」
俺の言葉を無視するように、離れるどころかしっかりと手を繋がれてしまった。
「か、神楽坂っ!」
「ダメです、絶対に離しませんよ」
あと一時間もすれば花火の打ち上げが始まる。だからか、会場に続く道は人が溢れかえっていて、誰も俺たちを気にしていない。とは言え、いい大人がお揃いに色違いのオンパレードで手を繋いで歩いてるなんてバカップルもいいところだ。
「お前、これがしたかったのか」
「もちろん、そのひとつではありますが、他にもございます。まぁ、わたくしにお任せ下さい」
道の両サイドには屋台がひしめき合い、そこに立ち寄る人、会場へと向かう人、みんなそれぞれに楽しんでいる。
妙に自信満々な神楽坂に手を引かれながら人混みをかき分けながら歩き、花火がよく見えるという神社を目指す。
「こっちは参道から外れるけど、本当にお前知ってんの?」
「失礼ですね。必ず、ご満足いただける天国に連れて行ってさしあげます」
「天国って……また、大袈裟なっ」
冗談で言ってるのかと思って、茶化すように返事をする。なのに、神楽坂からの反論はない。
「無言になるなよ……って、神楽坂?」
暗くて見えない表情に不安になり横を向くと、真顔の神楽坂と目が合う。
「な、なんだよ……」
「いえ、何も」
口でそう言いながらも、声色がいつもと違うから気になる。けど、このまま詮索するような真似はしない。
代わりに繋がれた手にそっと力を込め、神楽坂の横をゆっくりと一緒に歩く。
長年連れ添っているから、なんとなくわかる。
「なぁ、怒るなよ」
「怒ってません」
俺の言動によって不機嫌になることは、一度や二度ではなく、昔は気づかずえらい目にあったりもした。まぁ簡単に言うと、ほっておくと夜がめんどくさい。
「たこ焼きでも食うか」
「なんですか急に」
「いや、腹が減って機嫌が悪いのかなって」
「だから、怒ってません。たこ焼きも結構です」
「じゃあ、俺だけ食おうかな……って、痛っ!」
いい加減めんどくさくなって、繋いだ手をほどこうとしたら、強くそのまま手を引かれた。気づいた時には神楽坂の顔が間近にあって、ドキリとしてしまう。
「な、なにしてんだよ!」
「離れないように腰を抱いただけすが、なにか」
「お前、どさくさに紛れて……」
夜とはいえ、屋台の明かりで何をしているのか、他人からは一目瞭然だ。それでも神楽坂はやめようとはしない。
「わかったよ、好きにしろ」
もう抵抗する気にもならなくて、そう吐き捨てると腰にグッと力が入る。
「では、お言葉に甘えて」
そのまま密着した状態で、耳元へと吹きかけられた声は甘さを含んでいた。
**
「ちょっ……と、待て……花火……っ」
「ええ、見ますよ。まだ十五分ありますから、大丈夫です」
穴場だと連れてこられてきた場所は、参道から外れた神社の裏側。そこは一見、誰も寄り付かないような裏山だ。
腰に回っていた腕が離れ、年季の入った木製のベンチに二人腰を下ろす。
流れるようなスマートさで肩を抱かれ、気づいた時には口を塞がれ今に至る。
「誰かにっ……見られた、らっ……」
「こんなところに、誰も来ません」
啄むようなくちづけを繰り返され、このままでは花火どころではなくなってしまう。
身体が熱を持ち始め、夜風が頬をかすめる。夏の暑さとは違う熱さに戸惑いながらも心地よく、くちづけは徐々に深くなっていく。下唇を噛みながら、上唇を吸われ、角度を付けながらお互いが顔を傾ける。絡まる舌の動きがより一層の欲情と理性を溶かしていく。
「梨人様……っ」
くちづけの合間に甘く名前を呼ばれ、また啄むように唇を吸われ、再び名前を呼ばれる。繰り返しているうちに、次第にここが野外でも関係なく思えてきてしまう。
神楽坂が、さり気なく襟の合わせから手を差し込み、今度は厭らしい手つきで鎖骨から胸を撫でてきた。
「あっ……ん、ふっ……」
もう、やり過ごすことさえ難しいくらいに身も心も高ぶり、甘い喘ぎ声だけが静けさの中に響いていた。
もうすぐ花火が打ち上がり、そうしたらこの唇や手は離れてしまうのだろうか。
やめろと言いながらも、もっと欲しいと心の中で欲望が暴れ出す。
「かぐら、ざか……っ……」
浴衣の袖をギュッと掴み、くちづけの合間に名前を呼ぶと、弾かれたように身体も唇もあっさりと離れた。
「申し訳ございません。間もなく、打ち上げが始まりますので」
息を乱した神楽坂がそう言うと、何事もなかったように俺から距離を取る。
「……な、なんだよ」
もっと触って欲しかった……なんて、言えないまま、代わりに真面目な顔の神楽坂を睨んだ。
それと同時にズドーンと空に何かが打ち上がる。
「梨人様、始まりましたよ」
夜空に次々と打ち上がる大輪の花火は、幻想的でとても綺麗だ。それを少しだけ複雑な気持ちで見上げる。赤や青、緑の三原色に映し出された明るい夜は、別世界への入口のように思えた。
見上げたまま不意に視線だけを横に向けると、何か言いたげな表情の神楽坂に思わず声を掛ける。
「え……。何みてんだよ」
「見惚れていただけです」
「花火に?」
「花火によって照らされた梨人様の横顔に……です」
よくも恥ずかしげもなく、そういうキザなセリフが言えるもんだと思っていると、神楽坂が「先程はすみません」と付け加える。どのことを言っているのか問いかけようとしてやめ、代わりに「もう一度、くちづけてくれたら許す」と口にした。
視線を夜空に戻し、花火の音に紛れるように小さく呟いた願い事は、あっという間に神楽坂によって叶えられた。
「あまり可愛いこと言わないでください、我慢できなくなります」
チュッと軽くくちづける神楽坂の腕を引いて、自分から深く奪う。
子供騙しのくちづけが欲しいわけじゃない。もっと深く……もっと。
熱が冷めないままの身体は、明けない夜へと誘うように燻ったままだ。
「ん、ふっ……がまん……する、なっ」
我慢しなくていいと言ったら、神楽坂も深いくちづけをくれるだろう。
花火の音が響く以外に聞こえるのは、お互いの息遣いと、時々漏れる感情の形だ。
何年経とうと、愛する男は神楽坂で、神楽坂にとっては俺が愛する男なのは変わらない。こうして愛を囁きながらも実感していく。
「梨人様……愛してます」
「……あぁ、俺も」
何度聞いても色褪せない、二人だけの合言葉のようなものだと思ったら、少しだけ可笑しくなった。
「何を笑っているのですか?」
余程不思議だったのか、少しだけ身体を離した神楽坂が俺を見る。
「なんでもないよ、ただ、実感しただけだ」
「何をです?」
「お前には教えない」
「意地悪ですね」
会話の間にも、絶え間なく打ち上がっていた花火の音が途切れ、一瞬静かになる。
微かに火薬の匂いがして、白い煙が黒に溶けていく。
「なぁ、天国に連れてってくれるんだろ?」
鈴虫の鳴き声に混ざるように、神楽坂が小さく息を吐いた。
「まったく……本当にあなたって人は」
**
ともだちにシェアしよう!