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第85話 13章 松川滅亡

 津田軍の駿河、甲斐討伐が成功裡に終わった。  二月に出陣した時は、寒さの中に梅の花が咲いていたが、今は風温かく、卯の花が咲く季節になっていた。  従軍した武将たちは、一度自領に戻り、戦の疲れと汚れを取った後、安土に伺候することとなった。正式に朝頼に戦勝の報告をし、褒美を貰うためである。  勝ち戦で、津田の領地は格段に増えた。皆に、それぞれ分け前があるのは必須だが、どのように分配されるのか、興味はそこに移っていた。  久世は、安土での再会を約して朝行と別れてから、森崎城へ向けて馬を走らせた。戦は終わったのだから、急ぐ必要はない。いや、急がなければならない。一刻も早く、成利の顔を見たかった。  出陣部隊が帰還するとの報以来、森崎城は慌ただしさが続いていた。いよいよ今日に迫ったこの日は、朝から落ち着かなかった。それは、無論成利の心情と同じであった。 「見えました! 軍勢が向かって来ています!」  物見の侍の知らせに、皆急ぎ足で、正門に向かった。勝ち戦での凱旋、揃って出迎えなければならない。  成利も三郎と共に小走りに急いだ。  例のごとく、遠慮して後ろにいる成利を、皆が押し出すように前へ出す。成利は一番前にいるべき人と皆が分かっていた。  久世を先頭に部隊が入って来た。二か月ぶりに見る久世は、精悍さが増していて、成利の心はときめいた。  馬を降りた久世の姿は、威厳に溢れていたが、成利を見る目は優しく、満面の笑顔だった。 「出迎え大儀! 仙千代戻って来たぞ!」  成利は、引き込まれるように久世に走り寄り、その手を握った。成利から、久世の手を握ったのは初めてのことだった。久世が握るのは拒まない。しかし、自分から握るのは初めてだった。  久世は、驚き、帰って来た喜びが倍増する。そして成利をしっかりと抱きしめた。  抱きしめた久世から、戦場の香りがした。戦う男の香り……成利は暫し酔いしれる思いになる。しかし、はっと我に返り、慌てたように久世の腕から離れた。見ている者達には、今更ではあったが。  今この場にいる誰もが、この光景に驚きはしたものの、納得もしていた。葉月などは、期待で胸躍る気持ちになる。殿、いよいよだと。 「そなたも元気にしておったか? すまぬが、此度は大した土産がないのじゃ」 「戦に土産がないなど当然にございます。勝ち戦が最高の土産にございます」 「そうじゃな、土産話は多いぞ」 「後ほど、沢山お聞かせくださいませ。先ずは、湯殿をお使いなさいますか?」 「ああ、そうしよう。さっぱりとしたいな」  湯殿の世話は小姓がする。その間成利は、久世がその後すぐに寛げるよう準備をしながら、先程の己の行動を思い出していた。全くの無意識だった。なぜあんなことを……今更ながら恥ずかしさがこみ上げてくる。どうして、あのような恥ずかしいことを……殿は、さぞや呆れたことだろう……。  そうだ、きっと愚か者と思われたに違いない。  湯殿で、小姓に体を洗わせながら久世は考えていた。  先程のあれは、何だったのか? わしを待っていてくれたのか? 少なからず、仙千代もわしを思ってくれているのか。そうだと思いたい。  いいのだろうか……己の気持ちを通しても、この思いを遂げても……。  仙千代の最大の呪縛は、取り払ってやれた。それは自分の呪縛でもあり、願いでもあった。  心が軽くなった、今だからこそ、一度思いを告げたい。無理強いはしたくない。仙千代を傷つけてはいけない。そう思って、己の思いは抑えてきた。  今の自分の立場は、仙千代を守ってやれる力がある。しかしそれは、裏返せば仙千代に対して、無理を強いることも出来る力でもある。そうは、使いたくない。それをすれば、下劣な義政と同類になる。それは、自分自身決して許すことはできない。  だからこそ、同衾しても何もしなかった。あの時、抱こうと思えば抱けただろう。立場からくる力だけでなく、体格的な力も、自分の方が圧倒的に強い。  今宵、一度だけ己の思いを告げよう。それを受け止めるか否は、仙千代が決めること。自分の気持ちに区切りをつけるためにも、久世はそう思った。

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