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第2話

シュヴァネリア王国では十八歳となると、成人とみなされる。そうすれば男女と共に、またバース性関係なく、結婚ができるようになるのだ。  あの誘拐事件から八年が経ち、レナエルも成人である十八歳を迎えていた。  八年前はあどけなさを残していた顔立ちは、憂いを帯び、見る者を惹きつける美しい容貌へと成長していた。長いまつげが頬に影を落とし、小さく赤い唇から、熱っぽい吐息と共に、とある名前をレナエルは囁いた。 「キリアン様……」  名前を呟くだけでも頬が熱くなるのに、先ほど父から聞いた話を思い返すと、嬉しさと緊張とで胸が鳴動してくる。  頬の熱だけでも冷ますため、レナエルは冷やされたハーブティを口に含み、心を落ち着かせようと試みた。  先ほど、レナエルは父から結婚相手を聞かされたのだ。  相手は八年前にレナエルを人買いから助け、奴隷業者のアジトを一網打尽にするという活躍を見せたキリアン・クロード・シュヴァネリア第二王子殿下である。レナエルは彼の正室となることが内々に決定したのだ。  レナエルは、八年前のあの日からずっとキリアンに恋をしている。  一時期、キリアンは第一王子を退け、王太子になる、とまで言われていたが、本人が頑なに固辞していた。挙げ句の果てには王族を出、臣下に降下する、とまで言ったものだから、持ち上げていた周りも諦めたらしい。  王太子はベータの鹿獣人で、第一王子であったレナエルの兄がなり、彼自身の身分は第二王子のままだ。王弟でもない。  とんと出世や権力には興味がない人物らしい。  二十六歳になる彼は八年前と変わらず、王都の治安を守る王宮騎士団長として、日々国民のために現場で働いていた。王族としては異例の働きぶりだろう。  レナエルは細い指で、テーブル上に置いてあるノートを捲る。  このノートには八年間で集めた、キリアンの活躍が書かれた新聞記事の切り抜きが納められていた。  大きな見出しを指でなぞり、先ほどまで父が語っていた言葉を思い出す。 『キリアン殿下も八年前のことを覚えていてな、喜んで縁談に応じてくれたとのことだ。良かったな、好きな人と一緒になることができて。私は、今から孫が楽しみだ』  父はレナエルがキリアンを想っていることを知っている。それに父と母も貴族社会には珍しく恋愛結婚だ。好きな人と家族となり、子供を儲けることが常々幸せだと語っていた。  きっとこの結婚は両親が尽力してくれたのだろう。ここまで愛しみ、育ててくれた二人には感謝しかない。  それに相手方、キリアンも喜んでくれているなんて意外だった。  一般的に貴族や王族の婚姻関係は家同士が決めたものが多い。なので、後継ぎを作ると、正妻の他に幾人も妾を持ったり、配偶者よりも一回り下の使用人と恋仲になったりした貴族たちの下世話なゴシップが低俗な雑誌には書かれていることがある。  それを見て、レナエルは常々、愛のない結婚はしたくない、と考えていた。 「キリアン様とはいい関係になれるだろうか」  物憂げに呟く。嬉しい気持ちはあるが、不安も大きい。王族へと嫁ぐ、ということは、家族と頻繁に会えないことにもなる。  屋敷からほとんど出たことがない自分はキリアンの迷惑になったり、足手纏いになったりしないだろうか。  レナエルは物憂げに、花壇の方へ目線を俯かせた。  庭には地面一面に青いベロニカが咲いている。母と二人で花壇から作り、植えたものだ。時折風で揺れ、爽やかな春の香りがレナエルの鼻をくすぐる。その中に人工的な香水の甘い香りが鼻に混ざり、レナエルは顔を上げた。 「レニー、ここにいましたのね! 婚約内定おめでとうございます!」  母の黄色い声が聞こえてきた。物思いに耽りそうになったレナエルの意識は駆け寄ってきた母へと向く。母は熊獣人のアルファだ。綺麗に結われた金色の髪に埋もれないよう、黒くて丸い耳が二つ付いている。 「お母様! ちょっと痛いです……」  走ってきた母はレナエルをひし、と抱きしめる。熊獣人なので、女性であるがレナエルよりも力が強かった。 「あらごめんなさい、つい……、でもあんなに小さかったレニーがもう嫁いで行くなんて……、寂しいわ」 「僕も寂しいです。けれどお兄様二人がいらっしゃるではありませんか?」 「あの子たちったら、あの人と同じで仕事ばっかりで家に帰ってこないのよ! あぁ、あと何回レニーとガーデニングや花壇作りができるかしらね」 「たまには理由をつけて帰ってきますよ。王宮にも花壇や、温室はありますよね? キリアン様ってきっとお仕事がお忙しい方でしょう? ご帰宅された時に綺麗な花や植物を贈り、少しでもお疲れを癒すことができるといいなあ……」 「まあ、もうそんなことまで考えているの? なんて優しい子! こんな素敵で、美しくて、性根の良い子と結婚できるなんて、キリアン殿下はシュヴァネリア王国一の幸せ者だわ!」  豊満な身体の母に再び抱きしめられ、レナエルは潰されそうになる。  気恥ずかしさはあるが、嫌ではない。近くで待機している使用人たちも母と息子の仲睦まじい様子に微笑んでいた。 (キリアン様とも、こんな幸せな家庭を築けたら良いな……)  八年前のあの日から会うことは叶わなかったが、ずっと想い続けてきた。その想いが結婚という最高の形で成就しようとしている。  それに相手方も喜んで婚姻に賛同してくれたのだ。不安もあるが、幸せで、年をとっても仲が良く、互いが互いを慈しみ合うような、父と母のような関係になることができたら嬉しい。  少し強い春の風が吹く。薄いピンク色の花びらがレナエルと母を包むように舞い上がった。  まるでこれからの前途を祝福しているように見え、レナエルの不安は和らぎ、穏やかな気持ちになっていった。    豪華な式の間も、厳かな儀式の間も、レナエルはキリアンの顔を見ることができなかった。  儀礼上、『花婿と花嫁は初夜まで顔を合わせてはならない』とされている。  古臭い昔からの慣習で、庶民や貴族たちの間ではほとんど守られていない。しかし王族として形式に則った結婚式や婚姻の儀をしなければならないため、レナエルは王宮での暮らしを始めてから、自室を出る時や移動する時、儀式の間はずっと顔を隠すヴェールを頭に乗せていた。  なので結婚式や婚姻の儀の間はずっと横にキリアンがいたが、顔を見ることはできなかった。生活も初夜が終わるまでは別々で暮らさなければならない。  しかしそれも今夜で終わりだ。今日が初夜だからだ。  レナエルは今一度、侍女に用意してもらった初夜用の衣装を全身鏡で確かめてみる。  細かな刺繍の施された白く、滑らかな薄い長袖の服だ。  刺繍の濃いところと薄いところの差が激しく、薄いところは肌が透けて見える。肩が透けて見えて、艶かしく目に映った。レナエルは居た堪れなくなり、カーディガンを羽織ると、ベッドの縁に腰掛ける。  これから行う性行為について、知識はあった。しかし、もちろんするのは初めてである。 (何を話せば良いんだろう、八年ぶりとは言っても、あの時は誘拐された僕を助けてくれただけで、会話らしい会話なんかしていない……)  それだけなのに、一気に性行為にまで発展するのはいささか性急すぎる気がした。だが、そういうものだと自分に言い聞かせ、何とか自分を奮い立たせる。  式や儀式ではセリフのような誓いの言葉を交わすだけだ。終始、キリアンの声色は固かったし、不機嫌さを感じた。きっと長ったらしい儀式や慣習があまり好きではないのだろう。  その声色に不安を感じ、レナエルも緊張で澱みなく言えたとは言いがたい。  だが八年前の、レナエルを真摯に見つめてくれた灰褐色の瞳のことを忘れたことはなかった。  美しく、凛とした視線だった。うっかり見惚れてしまうほどの。あれからすっかり、レナエルはキリアンの魅力に夢中になってしまったのである。  キリアンの活躍が書かれた新聞記事の切り抜きが貼ってあるスクラップノートは書斎机の引き出しにしまってある。もちろんこれからも増やしていくつもりだ。 (新聞記事だけでなくて、二人の写真とか、手紙のやり取りだとか、そういうものも増やしていけたら良いなあ……)  そんなことを思いながら、大きな窓から夜空を見つめる。灰色の三日月に小さく雲がかかっていた。  窓を見ていると、こんこん、とふたつ、扉をノックされる。レナエルはどきり、と心臓を跳ねさせ、扉の方に急いで振り返った。  配偶者が部屋を尋ねてくる時の、初夜のノックの音は四回だと教えられている。  キリアンではなく、誰か別の人が来たのだろうか。  しかし今夜はキリアン以外、レナエルの部屋を尋ねてくる者はいないはずだ。使用人ならノックの後に名前を呼ばれる。それもない。 (誰が来たのだろう?)  警戒しながら、扉の方へと歩いていく。 「はい、どなたでしょうか?」  声をかけると、間があった。  なかなか返事がこず、静寂だけが続く。  もしかして、緊張のしすぎで、ドアのノック音の幻聴が聞こえたのか、とレナエルが疑い始めた頃、ようやく返事があった。 「……俺だ、キリアンだ」  名前と声色を聞き、レナエルはすぐさま鍵と扉を開けた。  扉の向こうに立っていたのは、夢にまで見たキリアンであった。  身長はレナエルの頭一つ分高い。灰色の髪は八年前と同じ短髪だが、前髪が少し長くなっていた。髪と同じ色の瞳は美しく、狼耳は艶やかな毛色だ。八年という歳月が立ち、身長も以前よりも伸びている。凛とした気品ある中にどこか男性っぽい硬質な顔立ちをしていて、以前のように雨の夜の美しい三日月を思い起こさせた。  ごくり、と湧いてきた唾を飲み込む。  レナエルは練習した通りのセリフを緊張で震えながらも、口に出す。 「ようこそいらっしゃいました、どうぞ、こちらへ」 「いや、ここで良い」  部屋の中へ案内しようとして、思いがけない言葉をかけられ、レナエルは固まる。  キリアンと目が合う。美しい灰色の瞳の中に、どこか他人を寄せ付けないような冷たい色を感じ、背中がひやりとした。  それにキリアンは夫が着用する初夜用の服ではなく、普通の軍服を着ていた。  わけがわからず、レナエルはキリアンの爪先から頭のてっぺんまで、じろじろと何度も見返してしまう。 「初夜はなしだ。今夜も、今後も。俺がお前を抱くことはない」 「な……」  断言された言葉の意味を理解できず、レナエルはぽかん、と口を開けたまま、キリアンの顔を見上げる。何を言われたのか、理解するのに時間がかかった。  畳み掛けるように、キリアンから言葉が発せられる。 「俺は宮廷の駆け引きや面倒な取引きに応じるつもりは一切ないし、お前の一族の権力欲には屈しない」  宮廷の駆け引きや、取引き、権力欲という全く想像もしていなかった言葉の数々を浴びせられ、咄嗟に言葉が出てこない。  レナエルには一切、身に覚えがない。  レナエルは、キリアンにずっと恋をしていて、王族だとかそういうことは関係なく、結婚できることに喜びを感じていた。 「そ、そんなこと、知りません!」  キリアンが何か誤解をしているのは間違いないだろう。  だが、何をどう言えば誤解が解けるのかはわからないし、キリアンが何の誤解をしているのかも良くわからない。  レナエルは絞り出すように否定する。 「ぼ、僕は、人買いに誘拐された日、貴方たち騎士が、キリアン様が助けて下さった時からずっと、貴方のことを想って生きてきたんです! 駆け引きとか、取引きとか知りませんし、ましてや権力欲なんて全くありませんっ!」  普段、あまり大きな声も出したことがないし、こんなに興奮したのは久しぶりだった。  ごほ、と空咳が出て、思わず口元を手で抑える。 「仕事で救った者など山ほどいる。お前もその一人にすぎない」  キリアンから放たれた冷たい言葉がレナエルの心に、ナイフのように突き刺さる。 「お前の父親や兄たちは腐った貴族ではなく、国や民のために懸命に責務を全うする者たちだと思っていた。それがどうだ、自分の息子を俺の妃にし、王族と関係を持とうと画策するなんて。こんなやり方、腐った貴族どもと同じだ」 「ち、違います! 父や兄はそんなつもりでは……」 「お前も哀れだな。好きでもない俺なんかと無理やり結婚させられて。お前の家族は早く孫が見たいと騒いでるぞ」  え、と間抜けな声が出る。冷ややかで、憐れむようなキリアンの灰色の目線がレナエルの心を凍らせる。  悔しいのか、悲しいのか、何なのかはわからないが、涙が溢れてきた。レナエルは何度も目を擦る。  違います、僕は貴方が好きなんです、という言葉がうまく出てこない。 「俺とお前の間に肉食獣人のアルファが生まれた場合、必ず王位継承を巡る争いに巻き込まれる。あんなことはもうごめんだ」  キリアンは吐き捨てるように言った。  何かあったのだろうか。キリアンは昔、第一王子を差し置いて、王太子候補に選ばれたことがある。  その際に何か嫌な思いでもしたのではないだろうか。 「どうして、何が……」  なぜわからないんだ、とでも言うようにキリアンの眉間が不機嫌そうに顰められる。 「俺は父や他の貴族たちから打診された王太子や、兄上から依頼された王弟の位を蹴った。そうしたらどうだ、お前と結婚しなければ今の王宮騎士団長の位を上げ、王族らしく名誉職にする、と言われたんだ。断固拒否したが、無理やり異動させられそうになったから仕方なく、お前との結婚に同意しただけだ」  キリアンはほとんど殺意のこもった瞳で、レナエルを見つめている。冷たい灰色の視線で、背筋が凍りそうだ。 「どうせお前の父親の差金だろう。何度も俺にお前と会ってくれ、と言ってきていたしな。ちょうどいい、俺は王の位も、権力も望んでいないし、今後、孫が生まれることはないと伝えておいてくれ」 「ま、待ってください。そんなこと僕は……」 「話は以上だ、俺は仕事がある」  一方的に捲し立てられ、言葉は途中で遮られる。ばたん、と扉は乱暴に閉められてしまった。  レナエルは立っていられず、その場に座り込む。そして、手で口元を覆い、声を殺して泣きじゃくった。 (全然、話と違うじゃないか……!)  父は『相手方も喜んでいる』と言っていた。それは何だったのか。これでは、キリアンは脅されてレナエルと結婚させられたと同じではないか。  そんな状態で仕方なく結婚を承諾して、愛など芽生えるはずがない。  それにキリアンはレナエルのことを勘違いしている。  レナエルはキリアンの事が本当に好きなのだ。父親に無理やり決められた婚姻ではない。 (どれだけ僕が好きでも……、キリアン様にその気がないなら、こんな結婚生活……)  初恋相手のキリアンと愛のある結婚生活を送ることができる、と期待していただけにショックは大きい。  どんどん涙が溢れてきて、薄い布地の袖では追いつかない。   だが八年前のように泣いているレナエルを優しく慰めてくれるキリアンはどこにもいなかった。

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