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第3話

 レナエルは昨晩、一睡もできず、ずっと泣き通していた。瞼が腫れぼったく、頭痛がしている。  一応、キリアンはどうしているのかと使用人に尋ねると、朝早く、仕事場へと向かったとのことであった。 (朝食すら、一緒には食べて頂けないのか……)   それを聞き、脱力感でベッドからも起き上がることができなくなってしまう。  なので、朝食は部屋まで運んでもらった。 「レナエル様……」   食事を運んできた兎獣人の侍女がレナエルの背を優しく支え、起き上がらせてくれた。  キリアンとレナエルの初夜が行われていないことは、キリアンとレナエルの新居である離宮の使用人はわかっているようだった。そして、レナエルの様子から二人の間に何かあったようだと察しているようだ。  みな、労わるような視線をレナエルに向けている。 「朝食です。濡れタオル、氷嚢もご用意しました」  礼を言って、濡れタオルで目を拭き、朝食に手を伸ばすが、ちっとも入る気がしない。喉に何かつかえたような感じだ。けれども、せっかく用意してもらったものを残すのはもったいなくて、レナエルは詰め込むように朝食を口に運んだ。  ほとんど流し込むようにして、朝食を食べ終わった後、氷嚢で目を冷やす。  目を閉じたレナエルは昨日のキリアンの、凍てつくような冷たい視線を思い出していた。  彼に望まれていないことは分かった。けれども、八年間想い続けてきたことは嘘ではないし、レナエル自身も権力欲の為に、この結婚を承諾したわけではない。  それに父は家族に誠実な人物だ。自分の子を使い、権力を高めようなどとする輩を忌み嫌っている。  王太子の地位を固辞し、王弟の地位を蹴り、未だに王子の地位に甘んじている彼にむしろレナエルも父も好感を持っている。  身を持って、王都や国の治安を守る彼は王族の鏡だ、と尊敬している。 「王宮には温室や植物を栽培しているような花壇はありますか?」  しかし今、自分一人でぐるぐる考えても仕方ない。気分転換が必要だ。  目から氷嚢を離す。側に控えている彼女はレナエルの言葉に困惑したような表情を浮かべた。 「庭園ではなく……、温室や花壇ですか?」 「ええ、昼からそこへ行きたいです。昼過ぎに起こしてください」 「かしこまりました、手配をしておきましょう」  侍女はまだ不思議そうな声をしていたが、レナエルはベッドに横になった。昨晩、寝ておらず、食べ物のおかげで眠気がようやくやってきたのだ。 (まずは誤解を解きたい……、今の僕には、これしか思いつかない……)  侍女がカーテンを閉める音を聞きながら、レナエルは微睡から浅い眠りに引き込まれていった。    王宮の敷地内に建てられた温室や植物を栽培している花壇は離宮から徒歩五分程度のところにある。  中に入ると熱気と湿気がまとわりつく。だがこの温室特有のむしむしとした湿気は最早懐かしいものだった。  王宮に入ってからは忙しく、温室どころか、植物を育てるといったことは全く出来ずじまいだ。そのことを少し残念に感じていたから、また植物と関わることができて嬉しい。  キリアンに拒否され、実家に帰ることも頭を過ったが、それは嫌だ、とはっきり心が否定した。  両思いでなかったことは悲しいが、これからレナエルという人物を知ってもらい、誤解を解いていくしかない。 (嫌いだとは言われなかったんだから……)  確かに『哀れ』だとは言われたが、レナエル個人を『嫌い』だとは言われなかった。  こじつけかもしれないし、意地になっているだけかもしれない。だがレナエルはそこに賭けようと思ったのだ。   レナエルの侍女である兎獣人の女性は入口で待たせていた。温室では受粉をさせるために蝶などの虫を飼っている。彼女はどうやら虫が苦手なようだったからだ。  温室の中を進んでいくと、奥からちょきん、と剪定鋏を使う音が聞こえ、レナエルは早歩きで音の方へと向かう。 「え?」  作業している使用人の背中が見える。  茶色と黒色のぶちの猫耳と先が白い尾には見覚えがあった。 「……メルゥ?」  思わず声をかけると、脚立の上で葉を切り揃えていた使用人が振り返る。レナエルの姿を認めると、慌てて降りてきて、側に跪いた。 「大変失礼いたしました、レナエル妃殿下。温室を任されております、ルイと申します」 「あ……、どうもよろしくお願いします。今日は突然の訪問に対応していただき、感謝します」  レナエルも慌てて頭を下げる。  メルゥではなかった。ルイと名乗った使用人は男性だ。しかし目鼻立ちや猫獣人であること、耳や尾の模様や形が以前、実家で働いていた猫獣人の使用人であるメルゥと酷似しているように感じた。 「とんでもございません、妃殿下が植物や花卉がお好きなことは姉から聞いておりました。妃殿下がこの温室にお訪ねになる日を、私は心からお待ちしていたのですよ」  姉、とレナエルはルイの言葉を切り取り、繰り返す。  答えはルイの方から教えてくれた。 「先ほど妃殿下がお口にされたメルゥは私の姉の名前でございます。エミルフォーク家の皆様には大変お世話になったのだ、とよく家で話しておりました」  ルイはふわりとレナエルに笑いかけた。はにかんだ時のメルゥと顔がそっくりであった。  まるでメルゥに会えたかのような懐かしい気持ちと、あの時の悲しい思い出が同時に蘇る。レナエルは何だか慌ててしまった。 「ら、楽にしてください! 僕がここを尋ねる際、今後礼は不要ですから」  そう言い、ルイを立たせる。少しだけルイの方が体格が良く、身長が高い。 「メルゥは……、お姉様はお元気にしていますか? うちの実家をやめてしまってから、会えてなくて……」 「息災にしております。妃殿下のことを危険に晒してしまったことに責任を感じ、塞いでいた時もありましたが、今は別の場所で元気に働いておりますよ」 「あぁ……、元気なら良かったです」  レナエルはほっと胸を撫で下ろす。レナエルが王族になってしまったため、会える機会は少ないかもしれないが、元気にしている、と聞いて、とても安心した。 「お姉様にあの時は巻き込んでしまって申し訳ありませんでした、と伝えてくださいませんか? あの時から会えなくて、直接謝罪すらできていなくて……」 「妃殿下が謝罪することなど何一つありませんよ。姉には、私が姉の代わりにレナエル妃殿下にお仕えすることになった、と伝えておきましょう。折角来て頂いたのに、そんな沈んだ顔をなさらないでください」  ご案内いたします、さてどこから、と言って、ルイはきょろきょろと辺りを見渡す。 「それもお願いしたいのですが……、その」  レナエルは言い淀む。キリアンのあの冷たい瞳を思い出すと、背筋が冷やっこくなった。 「お仕事でお忙しいキリアン様に……、お花をお渡ししたくて」 「なるほど、良い考えですね。本日の朝刊に幼いオメガたちを誘拐し、奴隷業者へと流していた組織をキリアン殿下率いる王宮騎士団が突き止め、検挙をした、と掲載されていましたよ。本当に勇敢で、素晴らしいお方です」 「そんなことがあったのですか……」  眠っていたので、今日の朝刊はまだ確認していない。 (またスクラップノートに挟まなければ……)  新聞は外で待機している侍女に後で頼めば良いだろう。 「奥には、珍しい南国の花卉もありますよ」 「はい、案内をお願いします」  ルイに誘われ、レナエルは奥の方へと進んで行く。    ルイと考え、選んだ花と植物をレナエルは花瓶に生けた。  青い透けたガラス花瓶は細やかな切れ込み細工が施してあり、水を入れ、光に透けさせると影すらも美しい。  そこにまずは青色で、大きな花びらが特徴の百合を生けた。  それと共に手紙を添える。 『大変なお仕事をされているかと思いますが、どうかお身体にお気をつけください』  今、自分がキリアンに対してどう思っているかを伝えたかったのだ。  温室から帰ったレナエルは自室で朝刊を読む。ルイの言っていた通り、キリアンの記事は一面を飾っていた。  そして、そのキリアンは食事と入浴を終えると、すぐにまた職場へと戻っていったらしい。  とにかくキリアンの帰宅や出発の時間が不規則で読めないらしく、侍従たちは苦労しているように見えた。  申し訳ないと思いつつも、疲れた顔をしているキリアン付きの侍従を見つけ、レナエルは呼び止めた。 「すみません、キリアン様がお帰りになってからで良いので、これを渡していただけませんか?」  青い百合が生けてある花瓶と封をした手紙をキリアン付きの侍従に渡した。彼は少し驚いた顔をしたが、畏まりました、と言って素直に受け取ってくれる。  それだけでもホッとした。レナエルからのものは全て受け取るな、とでも言われているのかも、と、そこまで悪い方向に考えてしまっていたのだ。 (少しでもお慰めになればいい……)  レナエルの想いが届くことはないのかもしれないし、夢見ていた幸せな結婚生活も諦めなければならないのかもしれない。  けれども、今できることを精一杯やり、少しでもキリアンの慰めになれば良い、とレナエルは願った。    それから一週間、レナエルはキリアンに花と手紙を毎日送り続けた。  早起きをし、ルイが管理する温室へ行く。そしてルイの仕事を手伝い、キリアンに渡す植物を選び、日の終わりに手紙と共にキリアン付きの侍従へとそれらを渡す。  キリアンから手紙の返事が来たことはなかった。仕事が忙しいからだ、と勝手に言い訳を考えて、不安感を打ち消している。   手紙の内容はキリアンを気遣うものから、今日は庭師に混じって庭園の剪定を手伝ったとか、温室でルイと共に受粉を手伝わせる蝶の幼虫の餌を新しいものに変えてみた、とか些細な日常を入れた。  そしてこの春の時期なら、切花は花瓶に生け、毎日水を換え、涼しい場所に置いておけば、大体十日は持つ。  一週間で一つの花束となるよう、ルイと共に選び、今日はどれにするか、組み合わせを考えて、キリアンへ贈っていた。  今朝も早起きをして、温室へと向かった。 (この一週間は透けるような青色系統の植物だったから、次は濃い原色の黄色にしようかな?)  蒲公英をメインにするのも面白いかもしれない。雑草のイメージがあるが、ルイが育てている中に黄色の発色が鮮やかな蒲公英の種類があり、興味を惹かれていたのだ。 (クールなキリアン様には似合わないかも……)  まだあまりイメージが頭の中に思い描けていない。ルイと相談して決めればいいだろう。  いつものように虫の苦手な侍女を温室の扉付近で待たせ、レナエルは中へと入って行った。 「ルイ、おはようござ……」   いつものように声をかけたが、言葉が続かなかった。レナエルの目が大きく見開かれる。 「おはよう、レナエル」  朝だからなのか、低い声はざらついていた。髪は降ろされており、前髪が少しだけ目元にかかっている。眉間に皺を寄せ、探るような灰褐色の瞳にレナエルは捕えられ、一瞬身体が動かなくなった。  温室の中にいたのは、ルイではなくキリアンであった。 「わ!」  頭が目の前の人物をキリアンだと認識すると、身体が勝手に反転していた。レナエルは綺麗な回れ右をし、急いで温室から走り出す。  レナエルは逃げ出した。 「おい、待て! 逃げるな!」  後ろから慌てたようなキリアンの声が聞こえたが、構っていられない。  自分でも何をしているのかわからなかった。それにもっとわからないのはこんな朝早い時間にキリアンが温室にいたことだ。 「レナエル妃殿下っ! え、キリアン殿下までっ⁉︎」  扉を出ると、待たせていた侍女の素っ頓狂な声が聞こえたが、説明している暇はない。とにかくここから早く逃げ出したい。  どうして、キリアンが温室にいるのだろう。自分は避けられていたはずだ。  この一週間、花のお礼も、手紙の返事も一つもなかった。決して強く期待していたわけではない。なので、いきなり現れたキリアンに激しく動揺してしまった。 「待て! なぜ逃げる! 俺と話がしたいのではないのか!」 「ぉわあっ!」  キリアンに追いつかれ、勢いよく振った腕の手首を強い力で持たれる。思わずつんのめり、転けそうになってしまった。しかし、キリアンがぐい、と引っ張ってくれたおかげで、地面に膝をつかずに済んだ。 「話がしたい、と手紙に書いたのはお前の方だろう。なのに俺の姿を見て逃げるとは何事だ」 「あ……、ごめんなさい、驚いてしまって」  昨日の手紙に『一度、お話をしてみたいです』と書いたことをレナエルはようやく思い出した。しかしまさか本当に話をしに来てくれるとは思わなかったのだ。  いきなり全速力で走ったことと、予期せぬ時にキリアンに出会ったことで、かつてないほど心臓が脈打っている。  レナエルが額の汗を拭ったときだった。  その気配に気がついたレナエルは急いで腹を押さえる。しかし間に合わなかった。  あたりには、盛大にレナエルの空腹の音が鳴り響いた。 「あ、や、こここ、これは……」  いつも朝食は温室で花を選んだり、ルイと植物の世話をしてから摂るようにしていた。  もちろん、今日も例に漏れず、起き抜けに冷たい紅茶を飲んだだけで、温室に来ている。 「朝食はまだなのか? それとも朝は食べないのか?」 「いいえ! いつも温室に来て少し作業をしてから朝食を用意して頂いているんです。今日はちょっと……、走ったから……、お腹が空いちゃったのかな……? あはは……」  みるみる頬に熱が上がってくるのがわかった。腹の音をキリアンに聞かせてしまうなんてみっともない。恥ずかしすぎて、顔から火が出そうだ。 「キリアン殿下! レナエル妃殿下! 一体、何があったというのですか!」  ようやく侍女が追いついてきた。彼女は二人の前に来ると、膝に手をつき、肩で息をしている。 「何もない、こいつが逃げるから俺は追いかけただけだ」  そう言われると、言い返せる言い訳もない。レナエルは真っ赤な顔のまま俯き、芝生を見つめた。 「朝食の準備をしてくれ、二人分だ。今日はこいつと摂る」 「か、かしこまりました。じゅ、準備を……、致します……」  キリアンの言葉にレナエルは弾かれたように、顔を上げた。 「え、ちょ、朝食を一緒に摂ってくださるのですか……?」 「さっき盛大に腹を鳴らしていたじゃないか。それに一緒にいるのに、別々に摂る理由もない。使用人の仕事を余計に増やす必要もないだろう」 「そ、そうですね……」  彼らしく合理的な理由だと思った。しかしレナエルは一度、キリアンと食事がしたかったので嬉しい。  わけもわからず逃げてしまい、キリアンと侍女を混乱させてしまったことは大いに反省している。しかし朝食を共に摂ろう、とキリアンから誘ってくれたことが本当に喜ばしくて、レナエルははにかんだ。

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