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第5話
レナエルの表情が固まった。
(これは相当ひどい扱いを受けたのかな……)
キリアンに頼まれたレナエルは王都の救民院の一つに慰問へ来ていた。
十人ほどの男女の子供達が訪れたレナエルをじっと伺うように見ていたり、見知らぬ大人が増えたからか、辺りを不安そうにきょろきょろしている。
レナエルは側にいるルイにそっと耳打ちした。
「ルイ、警備兵を子供達から見えないところへ配置するよう手配してくれませんか? 武装した大人に子供達が怖がっています」
「かしこまりました」
ルイは温室の管理人からレナエルの側仕えに配属が変更されていた。少しでも知り合いがいた方がやりやすいだろう、と、キリアンが変えてくれたのだ。けれど変わらず、温室の管理を一緒にやってくれている。
「さあみなさん、今日はピアノ演奏家のレナエルさんが来てくださいましたよ、みなさんと同じオメガの方ですよ」
身分を明かすと、子供達が引いてしまうのではないか、という懸念から、今日はピアノ演奏家という肩書きで子供達に紹介してもらっていた。
だが、子供達は救民院の職員の言葉にもあまり反応しない。一箇所に集められ、不安そうに互いを見合うだけだ。
その様子を見て、レナエルは以前の自分を重ねる。
レナエルも、誘拐されてから酷いトラウマに悩まされていた。
誘拐事件以降、家の警備兵が増やされたのだが、知らない大人を見ると、それだけで恐怖が蘇ってきていた。
特に武器類はダメだった。おそらく、レナエルを助けようとしたメルゥが切り付けられた場面を目の前で見てしまったためだろう。
それでもレナエルには家族の手厚いサポートや、使用人たちのフォローがあった。なので、半年ほどで発作は収まり、今は普通に暮らせている。
それに新聞でキリアンが活躍している記事を父親がレナエルに見せていたことが大きい。
『お前を助けてくれた王子様がこんなに活躍している。だからもう誘拐されたり、危害を加えられたりすることはない』
その言葉とキリアンの新聞記事にどれだけ励まされ、慰められたことだろう。
今日、そのスクラップノートを持ってきていた。胸ポケットに入れてきている。一種のお守りのようなものだ。何冊もあるが、決まって一番初めのノートを持ち歩いていた。
この子たちは身寄りがなく、困っているところを誘拐されてしまった子もいれば、悪い親族や大人に騙されて、人買いに売られてしまった子もいる。
(まずは子供達と同じ目線で話をしてみよう)
警備兵たちが視界から見えなくなったのを確認すると、レナエルはその場にぺたり、と座り込んだ。
「みなさん、こんにちは。レナエルです。よろしくね」
子供達と目線を合わせて、にっこりと笑う。
大きな声は出さず、なるべく自然体で、探るような視線を向けられても、柔らかな笑顔で返した。
「お耳やお角、尻尾、ないんだね」
小型犬獣人の子が物珍しそうに話しかけてくる。
「うん、僕は純粋な人間のオメガだからね。本当にないか触ってみる?」
「いいの?」
そう言いながら、手を伸ばしてきたので、触りやすいよう、レナエルは頭を少し下げた。
わしゃわしゃと頭に触れられる。
「不思議、本当にないんだね」
「僕も! 気になる!」
一人が触り始めると、みんなも同じようにレナエルに触れ始めた。
純粋な人間自体、あまり生まれないので、この子たちは見たことがないのだろう。
「ぼくのお耳も触っていいよ、お返し」
「ありがと、ふわふわだね」
そう言って犬耳に触れながら、頭全体を優しく撫でると、ふわり、と笑いかけられた。
緊張と警戒した雰囲気がほぐれていくのを感じ、レナエルはほっと胸を撫で下ろした。
そして、一部の子の警戒が解けたからか、他の子も集まってきた。
セットしてもらった髪がぐしゃぐしゃになってしまったし、陰で様子を見ている警備兵たちが気が気ではない表情をしているが、大丈夫、と目線で伝える。
側にはルイもいるし、子供達にレナエルに対する害意はないだろう。
「みんなは何して遊ぶのが好きなのかな? 僕はお花のお世話をしたり、ピアノを弾いたりすることが好きなんだけど」
「ピアノ! 見たことない!」
ピアノという言葉につられて、年少の子が近づいてきた。茶色い丸い耳が可愛らしい子だ。おそらくリス獣人の子だろう。
「弾けるよ、ずっと習ってた。何でも弾ける。結構上手いんだよ、僕」
「何でもっ⁉︎ すごい、教会のピアノに合わせて歌うの、ぼく好きだったんだ」
一人が食いつくと、我先に、と話しかけてくれるようになった。
他の子もつられて、あれを弾いて欲しい、これが歌いたい、と要望を口にするようになる。
(ピアノ作戦は正解だったかも……)
ピアノは高価で、田舎の方になると、教会にあるかないか、だ。音どころか、見たことも、弾いたこともないような子が多いかもしれない。
「ここにはね、ピアノがあるんだよ」
「えっ!」
もちろん、昨日まではなかった。わざわざ実家からレナエルが持ってきたものだ。
ルイが黒い布をばさり、と引くと、大きなグランドピアノが現れ、子供達から大きな歓声が上がった。
「初めて見た!」
「触ってもいいの?」
「いいよ、弾いてみて」
最初に話しかけてきたリス獣人の子がそろそろ、と指を鍵盤に伸ばす。ミの音が鳴り、また歓声が上がった。
まだ警戒心が解けていない年長の子どもたちも、ピアノには興味があるのか、遠巻きに集まってきている。
「お兄ちゃん、弾いて!」
「いいよ、そしたら……、きらきら星ならわかるかな?」
「うん!」
「歌える子は歌ってね」
メジャーな童謡なので、おそらくほとんどの子がわかるだろう。
レナエルは鍵盤にふれ、ゆっくりと前奏を弾く。音が音楽に変わると、子供達から歓声が上がった。ほとんどの子供達が嬉しそうな顔をして近寄ってくる。
やがて輪は広がっていき、歌声が大きくなる。
レナエルのピアノ作戦はばっちりと子供達の心を掴み、だんだんと笑顔をみんな取り戻していった。
「お兄ちゃん、次は俺たちと鬼ごっこ! さっき約束した!」
砂遊びに付き合っていたら、活発そうな男の子にぐいぐい、と手を引っ張られる。耳だけでは何の種類なのかは断定できないが、オレンジ色と白色の丸っぽい耳はハムスターだろうか。
「そうだったねえ、砂遊びはまた後でね」
まだレナエルと遊びたそうな小さい子供達は不満そうな目で男の子を見ているが、こちらも約束していたので反故にはできない。
また遊ぼう、と手を振ると、約束だよ、と手を振り返してくれた。
活発そうな子供達が三人ほど集まっている。
「俺たち、みんな、同じ村の出身なんだ。だから全員友達。もう村ないけど」
「そうなんだ」
ここに残っている子供達は基本的に元々住んでいたところに帰ることができない、もしくは帰すことが不適切であると判断された子供達だ。
小さな村だと、村全体が人買いに襲われたり、略奪に遭ったりする場合がある。その場合、村自体無くなってしまうことがあった。
彼は『村はもうない』と、何ともないように言いのけたが、友達だと言った子供達の顔がほんの少し強張ったのをレナエルは見逃さなかった。
(僕は本当に……、運がいい方だったんだな)
改めてキリアンに対する感謝の念が湧いてくる。そして、帰る場所もないこの子たちの不安が少しでも和らげばいい、穏やかに過ごせる手伝いができればいい、と心からそう思う。
「鬼ごっこだね、いいよ。誰が鬼をするのかな?」
こう見えて、走るのは早い。キリアンからもそう言われた。
じゃんけんで決めるのかな、と勝手に思っていたら、三人の中で一番年少の子供がにこにこしながらレナエルに向かって言った。
「僕たちだよ、お兄ちゃんが僕たち、鬼から逃げるの」
「え?」
レナエルが知っている鬼ごっこのルールとは少し違う気がした。鬼ごっこと言えば、鬼は一人で、鬼が鬼ではない子をタッチすれば鬼に変わり、どんどん増えていく、という遊びではなかっただろうか。
「ちょっ、違うよ! 鬼は一人! じゃんけんで決めるんだよ!」
先ほど、レナエルの手を引っ張った子が訂正する。
しかし、当の本人は不思議そうな顔をしただけだ。
「何で? 『鬼』は人間のオメガを捕まえるんでしょ? だったら、『鬼ごっこ』は僕たちがお兄ちゃんを捕まえなきゃいけないんじゃないの?」
その場が凍りついた。レナエルが言葉が出ない。
「ばか! 変なこと言うな!」
「あ! 手は出しちゃだめ!」
年長の男の子が手をあげようとしたので、レナエルは慌てて間に入る。
そして、地面に膝をつき、不思議そうな顔をしている年少の子に目線を合わせた。
「さっきの、『鬼』っていうのは、どういう意味なのかな……?」
レナエルは慎重に尋ねる。この子はもしかしたら自分の身に起こったことをあまり理解できていないのかもしれない。
「鬼は鬼だよ。いつもオメガを探してて、僕らは教会の地下に隠されてた」
「うん」
彼はその時のことを思い出しているのか、斜め上を見ながら、頭の上の垂れた兎耳にしきりに触れている。
「特に人間のオメガを探し回ってるって鬼が言ってるの聞いたことあるよ。だから『鬼ごっこ』っていうのは、鬼たちが人間のオメガを捕まえる遊びじゃないの?」
子供は不思議そうに首を傾げた。
レナエルは無性に自分の無知さが恥ずかしくなった。そして、恵まれないオメガがどんな待遇を受けているのか分かり、拳をぐっと握り込む。心の中に覚えたのは、静かな悲しみだった。
「鬼ごっこはね、そういう遊びじゃないんだよ」
レナエルは丁寧に、一般的な鬼ごっこについて説明する。
「そういう遊び方もあるんだね! そっちの方が面白そう!」
「でしょう? 今度から鬼ごっこはそうやって遊ぼう。ね?」
わかった、と年少の子は嬉しそうな笑顔が頷くが、むしろ痛々しく感じた。
(一体、この子たちはどんな環境で過ごしたんだろう)
王都の新聞にはあまり地方の村での出来事は入ってこない。
(貧しいオメガはこんなにも危険と隣り合わせの生活をしているんだ……)
騎士としてのキリアンはこういう被害者を出さないために奮闘している。
(僕には何かできるだろうか……)
慰問をするだけでは後手に回っている。根本から何かできることはないだろうか。
レナエルは深く考え込みそうになってしまったが、子供の声ではっと我に返った。
「早く! 鬼ごっこ!」
「わかった、鬼はじゃんけんで決めようね。ほらみんなも鬼ごっこしよう! 集まって、集まって」
最初はぐー、という子供の高い声が響く。
見事、全員に負けたレナエルはきゃあきゃあ、と声をあげて逃げる子供達を懸命に追いかけた。
子供達はすばしっこい。なかなか捕まらず、レナエルは必死に追いかける。
一人は捕まえた。その時点でもうへろへろだった。
「お兄さんがへばってる!」
「つまんないよー、もっと早く追いかけて!」
「すぐ行くから……、ちょっと待ってて……」
近くにいたルイがそっと話しかけてきた。
「レナエル様、どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
水筒が差し出された。中には冷水が入っており、ごくごくと喉を鳴らして飲んでしまう。
「少し休憩されては? 汗もすごいですよ」
ついでにタオルも渡され、レナエルはそれで額と首元の汗を拭った。
「大丈夫ですよ、ここの子供達の方がよほど辛い思いをしてきています。僕と遊んで、少しでも笑顔を取り戻せるなら、できるだけのことはしたいですから」
ルイは少し沈黙し、頭を下げた。
「……失礼しました」
「いいえ、畏まらないでください。ルイも適宜休憩してくださいね」
そう言って、タオルと水筒を渡すとレナエルは再び駆け出した。
(子供って本当に元気だな……)
そんなことを考えながら、レナエルは手を振りながら逃げていく子供達を追いかけ始める。
今は春だが、初夏らしいの日差しも照りつけている。
水分補給をしたとはいえ、外で激しい運動をして、レナエルはひどく体力を消耗していた。
「あっ」
爪先が何かに当たる。地面のくぼみだった。気が付かず、つまずいてしまった。
普段なら何なく体勢を建て直せるだろう。だが疲れているのか、レナエルはそのまま足を縺れさせてしまう。
顔面から地面に衝突するのを避けようと、腕を出そうとするが間に合わない。
(わ! ぶつかる!)
レナエルは腕を伸ばすが、顔に地面が迫ってきていた。
「危ない!」
鋭い声がした後、腰のあたりに腕を回される。ふわり、と新芽のような、爽やかな香りが鼻を掠めた。
「ったく、鈍臭いな」
聞き覚えのある低い声に驚き、顔だけ後ろに向け、レナエルは驚愕の声をあげた。
「キ、キリアン様っ!」
転びそうになったレナエルを助けたのはキリアンだった。
キリアンと身体が密着している。レナエルはすぐに体勢を建て直し、彼に向き合った。
「な、何でこ、ここにっ! いらっしゃるんですかっ!」
顔が真っ赤になっているのが自分でもわかった。
心臓がばくばくしていた。あれだけキリアンと身体を密着させたのは八歳の時以来だ。
(抱きつかれた、みたいなっ! どうしよう! いい匂いした!)
本当は転けそうになったレナエルの腰を支えてくれただけだ。色っぽいことは何一つない。
驚きすぎて、身体もすぐに離してしまった。
心臓が弾けてしまいそうだ。転けそうになったから、とか、子供達と鬼ごっこをしていて走ったからではない。
キリアン自身の体臭も強く感じてしまい、カッと身体が熱くなった。
「き、今日は別の仕事に行くのではなかったのですか?」
「終わったから、様子を見に来た」
着替えずに来たのか、キリアンは腰に剣を佩いた騎士の姿のままだ。
(あ、これは……)
剣を見て、レナエルはすぐ冷静になった。そして不安を覚える。案の定、知らない武器を持った大人を見て、楽しそうに鬼ごっこをしていた子供達が警戒した視線をキリアンに向けていた。
レナエルはそっとキリアンに耳打ちする。
「剣を……、どこかへ預けてきてください」
「は? どうして?」
きつめに睨まれるが、ここは引くわけにいかない。子供達の目に怯えが混じり始めたからだ。
「武器を持った知らない大人、というだけで、この子たちは怯えてしまうんです。どうかここは僕の言うことを聞いてください。お願いします」
そう言うと、キリアンの視線が子供たちに向けられた。
「……わかった。お前の言う通りにしよう」
「ありがとうございます」
キリアンが建物の影に入り、騎士の一人に剣と、暑そうな上着もついでに渡していた。
白のシャツと、紺の下衣だけの姿は何だか涼しげだ。
「これでいいか?」
「あ、後、笑顔っ……」
キリアンは無表情でレナエルを見る。そして、レナエルをずい、と押し除けた。
「わ、何を……」
キリアンは明るい声で子供達に声をかけた。
「鬼ごっこをしているのか? 俺も混ぜてくれないか?」
いいよーっ、という歓声が聞こえる。子供達は警戒した表情は見せていない。
キリアンの表情はレナエルからは見えなかったが、きっとレナエルが言った通り、柔らかな笑顔を子供達に向けてくれたのだろう。
ほっとした。だが、まだ身体が密着した時の熱が冷めなくて、少しだけレナエルは焦る。
(何にもない、ただ転ぶのを助けてもらっただけ、助けてもらっただけ……)
深呼吸して、手をふる子供達の方へレナエルも走っていく。
身体の芯に燻る熱にはその時、気がついていなかった。
異変に気がついたのは、離宮へ帰ってからのことだった。
待機していた兎獣人の侍女に体調の如何を問われ、初めて自分が発情期に入っていることに気がついた。
「アルファの使用人は立ち入りを制限! すぐにキリアン殿下をお呼びしますから、レナエル妃殿下は自室へ……」
「待って! キリアン様は呼ばないでください!」
力のこもらない手で侍女の腕を握り、頭を横に振った。彼女は覚束ない足取りのレナエルを自室まで支えてくれていた。
「しかし……、このままでは……」
これは予定外の発情期だ。おそらくキリアンと密着したことがトリガーとなり、身体が反応してしまったのだろう。
こういう場合、発情抑制剤を飲んでいても効きにくく、辛い思いをすることが多い。
「僕たちは、キリアン様と僕は……、まだ本当の配偶者とはなっていません」
「それは……」
ようやく自室に辿り着き、ベッドの上に寝かされる。シャツのボタンを途中まで開けられたが、レナエルは自分でします、と言って遮った。
レナエルの言葉に侍女は何とも言えない表情をしている。
「フェロモンで無理やりその気にさせて、身体だけでも繋げてしまったら、きっと僕は僕のことを許せないでしょう」
ふ、と力なく笑う。
そういうことはキリアンも好まないだろうし、レナエルもやりたいとは考えなかった。
まだ二人が身体を繋げるには想いも、感情も何もかもが遠い。
「いつもより強めの発情抑制剤をお医者様に頼んでおいてください。それとあまり人は近づけないで。キリアン様も同じです。その、発情期はやっぱり……、恥ずかしいですからね」
彼女は神妙な表情をし、頷く。それを見て、レナエルは安堵した。
「……何かあればすぐにお呼びくださいね、薬を調達したらすぐにお渡しに参ります」
「ありがとうございます」
侍女は心配そうな視線をレナエルに向けるが、一礼してすぐに部屋から出ていった。
「ふう……」
吐息が湿っていて、熱い。レナエルは指を縺れさせながら、シャツのボタンを外していく。
寝返りを打ち、履いていた下衣の前を寛げた。
のっぴきならないぐらい前は昂っているし、後ろは濡れていて、早く下衣も下着も脱ぎ去ってしまいたい。
(我慢だ……、薬が来るまでは)
自慰をして一度でも発散させてしまうと、少しは楽になることは知っている。けれど、まだ薬を置きに誰か入ってくる可能性があり、そこに触れるのには憚られた。
それにしてもキリアンと身体が密着しただけで、こんな風になってしまうなんて、我ながら呆れてしまう。
(一緒に食事ができるだけでも、同じ時間が過ごせるだけでも幸せ、なんて大嘘だ……)
本当は心も、身体も繋がりたいと思っている。
少し密着しただけで、キリアンのしっかりとした体格や、太い腕に身体が反応して、しっかり欲情をしてしまった。
それにあの爽やかな、春の朝のような香りに包まれて、抱きしめられて眠りたい。
そしてその香りで、キリアンの熱で、レナエルの奥の奥まで暴かれてしまいたい。全てを捧げたい。
「くぅっ……、ぅう、ん」
想像してしまうと、身体の底の熱が内側から燃え上がる。吐き出せない熱が溜まっていき、また苦しさが増す。
(まだだ、薬が来たら少しは楽になるから)
シーツを噛みながら、レナエルは必死に耐えた。
薬の効き目は悪かった。欲を何度か発散させても身体には火が灯るばかりで、浅い眠りを繰り返す。まだ部屋着に着替えられてすらいなかった。
「……キリアン、様」
だめだ、と思っても考えてしまうのはキリアンのことだ。キリアンがここを訪ねてくることも、ましてやレナエルを抱いて、熱を分け与え、この苦しさを鎮めてくれることもない。考えていても虚しい思いをするだけなのに、やはり頭の中はキリアンでいっぱいだ。
(そうだ、スクラップノート……)
熱に浮かされた頭で思いついたのは机の引き出しにしまい込んであるスクラップノートだった。
今、レナエルがキリアンとの繋がりを感じられるのはこれだけだ。
「ふう……」
何とか身体を起こし、床に足をつける。足元がおぼつかず、ふらふらと書斎机まで歩き、引き出しから、そうっと宝物を出すようにスクラップノートの一つを取り出した。
「っ」
不意に泣きそうになる。レナエルは思わずノートを抱きしめた。そしてゆっくりと深呼吸をした後、再びベッドに戻ろうとした時だった。
ローテーブルの水差しに衣服が引っかかった。しかしレナエルは気が付かず、そのままベッドへと向かう。
「えっ」
衣服が引っ張られる感覚がした時にはもう遅く、レナエルは水差しと共に床に倒れ込んでしまった。
「ひっ!」
水差しは床にぶつかり、派手な音を立てた。ガラスの割れる音が部屋に響く。水が漏れ、辺りが水浸しになってしまったが、レナエルは驚きでその場から動けなくなってしまった。
その時、激しくドアが叩かれた。
「レナエル、俺だ、キリアンだ。すごい音がしたが、大丈夫か? 開けるぞ!」
今、開けられるのはまずい。部屋の中はフェロモンでいっぱいだし、薬の効きは悪い。
待って、と言おうとしたが間に合わず、部屋の鍵が開けられた。
「大丈夫かっ⁉︎ 水浸しじゃないか、水差しも割れてる。転んだのか? 怪我はないか?」
「ち、近寄らないで!」
レナエルは大きな声を出した。
「僕、今、発情期だから! キリアン様に迷惑が……っ、わっ」
急いで立ち上がり、ベッドへ逃げ込もうとする。しかし今度は抱えていたスクラップノートを水浸しの床に落としてしまいそうになった。
「おっと」
スクラップノートは間一髪で、キリアンに拾われた。
「何だ?」
返して、と言う前にキリアンがペラペラとめくり始める。
中身を見たキリアンの目が僅かに見開かれた。
「これは俺の……」
ノートから目を離さないキリアンに、低い声で質問される。
「こんな昔の記事まで……、ずっと集めてきたのか?」
「か、返してくださいっ!」
レナエルはひったくるようにして、スクラップノートを取り返す。そして今度は落とさないよう、大事に抱え込んだ。
顔に熱が昇っているのがわかる。きっと耳まで真っ赤になっているだろう。
このスクラップノートはレナエルの、八年間の蓄積された恋心そのものと言っても過言ではない。本人に見られている状況はかなり恥ずかしかった。
レナエルは上目遣いでキリアンを確認する。
きっとフェロモンが効いてきたのだろう。頬に朱が差し、潤んだ瞳でレナエルを見つめていた。
このまま二人が同じ空間にいれば、きっと済し崩しに身体の関係を持ってしまう気がした。
身体はそれでもいいと叫んでいる。正直、発情期に好きな人が目の前にいるなんて、こんな幸運なことはないだろう。
縋りついて、抱いてほしい、と言えば、フェロモンに誘惑されて、レナエルを抱いてくれるかもしれない。
しかし、それはレナエルの心が望むところではなかった。
真面目なキリアンも『フェロモンの影響を受けた』として、後になって不快な思いをするだろう。
「出ていってください……」
絞り出すようにレナエルはキリアンに言葉を放つ。
「しかし、今のお前は……」
「大丈夫、これさえあれば、乗り切れますから。薬も効いてきました」
嘘だ。本当は邪な劣情が抑えきれなくなってきている。
「後で、侍女に片付けて、もらいます。キリアン様は早くお仕事に、戻ってください……」
早く、堪えきれなくなる前にどこかへ行ってほしい。フェロモンに頼り、醜くキリアンに縋る前に部屋から出て行ってほしい。
それでもキリアンが何か言おうとする。
レナエルは限界だった。歯を食いしばり、急いでベッドへと飛び込む。そして、シーツを頭から被って、キリアンに背を向けた。
「薬が、効くと眠く、なります……、おやすみなさい」
きつく拒絶することはどうにもできそうになく、おやすみという言葉で精一杯だった。
大きなため息が聞こえてきた後、キリアンから声がかけられた。
「……今から使用人に片付けを頼んでおく。勝手に入って悪かった。おやすみ」
ばたん、と扉が閉まる音がし、キリアンの気配がしなくなった。
レナエルは身体の緊張を解き、抱きしめていたスクラップノートを枕元に置く。
(発情期が終わったら謝らなきゃ……)
水の中に落ちないよう、拾ってもらったスクラップノートを思わずひったくってしまったのは良くない行為だった。
頭痛もしてきて、必死に耐えていると、侍女が部屋に入ってきた。レナエルが割ってしまった水差しの片付けと新しい水差しを持ってきてくれたのだ。
彼女はベータなので、レナエルのフェロモンには反応しないし、レナエルも彼女に性的な興奮を覚えることはない。
何だか当たり前のその事実がレナエルを安心させ、深い眠りへと入っていった。
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