6 / 7
第6話
結局、発情期はしっかり一週間続いた。
あれからキリアンがレナエルを訪ねることはなく、寂しさを覚えつつも、これで良かったのだと、レナエルは自分に言い聞かせ、辛い発情期を何とか乗り越えた。
医師の診察も受け、突発的だが、何の問題もない発情期だと診断された。もうフェロモンも出ていないとのことで、明日からは通常の生活が送れる。
(明日の朝、きちんと謝ろう)
早速、明日の朝のキリアンの予定を侍女に尋ねようとした時、扉がノックされた。ルイだ。レナエルはすぐに入室を促す。
「レナエル妃殿下、こちらをどうぞ」
部屋に入ってきたルイは白いウッドバスケットを持っていた。オレンジ色や黄色の、ビタミンカラーの薔薇で彩られたそれは見るだけで元気になりそうなものだ。
ルイが見舞いに作ってくれたのだろうか。
「これは……?」
手紙も添えられている。
「お手紙と花、どちらもキリアン第二王子殿下からでございます」
え、と驚き、口が半開きの間抜けな顔になってしまった。
レナエルはウッドバスケットをベッドサイドに置き、急いで封筒を開けた。
『体調は大丈夫だろうか? 新たな情報が見つかり、俺はこれからまた忙しくなりそうだ。もしかしたら、しばらく食事を共にすることはできないかもしれない。落ち着いたら共に食事をしよう。楽しみにしている。 キリアン』
丁寧な筆跡だ。初めて、キリアンの文字を見たのだ。こんなに字が綺麗だとは思わなかった。
それだけで、嬉しくて泣きそうになる。指先に力がこもりそうになり、慌てて封筒の中に便箋を戻した。
「あの、今から返事を書くので、ルイ、届けて貰えますか?」
「わかりました……、あの、レナエル妃殿下……」
そっとハンカチが目の前に差し出された。
「書き終わるまで外で待機しております。いくらでもお待ちしておりますので、お心が落ち着いてからお書きください」
「……ありがとうございます」
心が緩んで、つう、と涙が頬を伝った。
ハンカチを受け取ろうとすると、ルイがそのまま手を伸ばしてくる。頬をハンカチで拭われた。
「悲しい涙ではなさそうですね、良かったです」
ルイはそのハンカチをレナエルに手渡すと、微笑んだ。
「ええ、僕は幸せです……」
暖かい気持ちがレナエルの心に染み渡っていく。
初めて、キリアンから花と手紙が送られてきた。発情期の時、水差しを割り、床に転けてしまったレナエルを心配してくれたキリアンに対して、自分は本当に酷い態度をとったと思う。だが、キリアンはそんなレナエルに花と優しい言葉が書かれた手紙をくれたのだ。
嬉しくて、どう表現したら良いのかわからず、思わず涙ぐんでしまった。
(やっぱり僕は周りに恵まれている、幸せ者だ)
まだ涙が溢れてきそうだったので、目元にハンカチを押し当てていると扉が閉まる音がした。ルイが部屋を出ていったのだ。
レナエルはベッドから出、書斎机に向かう。
キリアンの活躍が収めてあるスクラップノートに手紙を差し入れると、真新しい便箋を取り出し、レナエルは返事を書き始めた。
キリアンは最近、離宮に帰ってこない日々が続いている。最初の手紙に書かれていた通り、本当に忙しい日々が続いているのだろう。
だが今度はまめに手紙を送ってくれるようになった。仕事の支障にならないよう、レナエルが手紙を送る日にちをずらしたり、遅らせたりしている。
それとレナエルには告げず、地方に行っている時もあるから、花を送るのは一旦辞めていた。代わりにキリアンが帰ってきた時に見せようと、小さな庭を作った。
ルイと一緒に花壇も作り、テーブルと椅子を側に置き、植物を眺めながら、ちょっとした軽食が食べられるスペースを手作りしたのだ。
昨日設置したばかりのテーブルで紅茶を飲みながら、まだ土ばかりの花壇をレナエルは眺める。ここには球根が植えてあった。夏の終わりから秋にかけて咲く花の球根だ。
キリアンは夏の終わりから、秋にかけて休暇をとる、と手紙で教えてくれたので、それに合わせたのだ。
(楽しみだな……)
二人でゆっくりした時間をとることができたら、キリアンの好きなことも聞いてみたい。
これからお互いを知っていくのだ。レナエルはまだ見ぬ未来に心を馳せる。
レナエルが付き合えるようなことであれば一緒にやってみたい。レナエルの趣味も手伝ってもらえると嬉しい。
「レナエル妃殿下、お時間ですよ」
「行きます!」
ルイが呼びにきた。今日は王宮から少し距離のある救民院に慰問へと行くことになっている。
レナエルは新聞記事とたくさんの手紙が挟まったノートを閉じ、ジャケットの中のポケットへと忍び込ませた。
今日の慰問も子供達と楽しく信頼関係を築くことができた。
もう身分は隠していない。キリアンの妃として、王族の公務の中に慰問を入れてもらった。
最初に慰問した救民院の子供達にも身分を明かした。嘘をついていてごめんなさい、と誠心誠意謝罪すると、子供達はみんな許してくれた。どうやらレナエルは彼らの『信用できる大人』となることができたらしい。
とても嬉しかったし、こうやって子供達や傷ついた人々の慰めになり、またキリアンの役に立てるなら嬉しいことはない。
「……町は賑わっていますね」
今日は遠かったので、馬車で移動している。レナエルは馬車の窓から町を眺めながら呟いた。
「あぁ、もうすぐ太陽祭ですね!」
「そうですね……」
苦い思い出がある。この時期、あまりレナエルは外出しない。
「今日はキリアン殿下も地方に行ってしまわれていていませんし、夕食を外で摂るのはどうですか?」
「いや……、離宮ではみんなもう僕の夕食の用意をしているでしょう?」
ルイの提案にレナエルは難色を示した。
警備兵がたくさんついているが、太陽祭が近くなると町はごみごみと騒がしくなってくる。
また誘拐されたり、襲われたりして、みんなに迷惑をかけるのは嫌だった。
「いいえ、今から馬をとばせば間に合うと思いますよ。警備兵に伝えましょう」
「あ、ちょっと」
ルイは窓を開け、側を馬で走っていた警備兵に何か耳打ちした。
「これで大丈夫です、知り合いがやっているいい店を知っていますから、そこで夕食にしましょう」
「ちょっと強引すぎやしませんか? 僕はあまりこの時期、外に出たくないんです」
「レナエル様……」
レナエルが咎めると、ルイはしゅん、とした表情で、その場にひざまづいた。
「申し訳ありません……、太陽祭に不快な思い出を持っていらっしゃることは十分承知しております。しかし、レナエル様にその思い出に囚われ続けて欲しくないのです」
ルイはさらに頭を落とした。
「レナエル様が慰問し、お慰みになられた子供達はみな、受けた心の傷を癒やし、前を向いて、元気に過ごしております。私はレナエル様にもそうなってほしいのです。いつまでも私の姉のことや、人買いなどという犯罪者のためにご自身の行動を制限しないで済むようになっていただきたかった」
そう言われてしまうと、レナエルは何も言い返すことができない。それにルイがそこまで自分のことを考えてくれていたなんて、知らなかった。
やはり自分は周りに恵まれていると感じる。
「しかし、お嫌でしたらやめておきましょう。そんな気分で外食をされてもきっとご気分が悪いでしょうから……」
「いいえ、少し不安があっただけです。ルイの好意を無碍にする理由もありません。お知り合いのお店に行きましょう」
ちょっと考え過ぎていたかもしれない。以前とは違い、警備兵もたくさんいる。恐れているようなことにはならないだろう。
(それに他人からの好意は素直に受け取らないと……)
ルイの知り合いの店ということで、信頼もできるし、人買いもまさか、警備兵に大勢囲まれている王族に手を出したりはしまい。
(いつか僕も太陽祭を楽しめるようになるかな)
レナエルはルイの顔を上げさせた。
ルイは御者に行き先の変更を告げ、馬車はそこへ向かっていく。
鈍痛が頭に響いた。重い瞼を上げると、ここが薄暗い部屋だとわかる。
「ぅっ」
レナエルが立ちあがろうとすると、手足が動かない。どうやら縛られ、床に転がされているようだ。身動きが取れず、レナエルは身体を揺らす。
声も出せない。きつく猿轡をされていて、頬が痛いくらいだ。
何が起きたのかわからない。先ほどまでルイと一緒に、ルイが選んだ店で食事をしていたはずだ。
(確かワインを勧められて、その後の記憶がない。ここどこ……、何で……)
まだ意識が鈍く、目の焦点が合わない。
「薬が切れましたね。起きてしまいましたか?」
上から降ってきた声にふっと頭が覚醒する。
ルイが目の前に立ち、レナエルを見下げていた。
「話はつけてあります。最近取締りが厳しいので、ちょっと時間はかかりますが、もうすぐ業者が来ますので」
何の話をしているのかわからなかった。こんな異常な状況であるのに、いつもと変わらないルイの声色が逆に不気味だ。
レナエルの何が、という声は唾液で湿った布に吸い込まれていった。
「ねえ、自分だけ幸せになろうなんて、烏滸がましいと思いませんか?」
ルイは何を言っているんだろう。
怯えるような目線を向けると、ルイはいつもと変わらない目でレナエルを見ていた。
「姉が、メルゥが傷つけられて、私たち姉弟の生活は崩壊しました。姉は縁談もまとまっていたのに、顔に傷跡があるから、という理由で破談になったんです。それから精神的におかしくなった姉は働くこともできず、家でずっと過ごしています。それなのに、それなのに姉は……、いつも貴方の話を楽しそうにするんですよ。貴方のせいで壊れてしまったのに」
ルイの言葉にレナエルは背筋が寒くなる。
(メルゥがおかしくなったって……、そんなこと知らなかった)
ルイは相変わらず淡々とした口調で、レナエルに話しかける。
「私も高等学校へ進学する予定だったんです。けれど姉の結婚がなくなったことと、働けなくなったことで、経済的に厳しくなったので、それもなくなりました。ねえ、レナエル様」
一層、ルイの声色が低くなった。
「自分だけ好きな人と幸せになろうなんて虫が良すぎると思いませんか? 私と姉はあの事件以来、めちゃくちゃになってしまったのに」
ぐい、と顎を持たれる。指先には力が込められており、痛みにレナエルは顔を顰める。
「貴方が原因なんですよ、全て。わかりますか? あの時、貴方が姉に『太陽祭に行きたい』なんて言わなければこんなことにはならなかったんですよ」
「っ!」
ぱしっと頬に熱が走る。すぐさまじりじりとした痛みが左頬に広がってきた。
ルイに頬を張られたのだ。レナエルは驚きで息ができなくなった。
「本当は姉と同じように、顔に傷をつけてやりたいところですが、そうすると市場価格が落ちるそうです。それは避けたいですからね。貴方を売った金で、僕は姉を連れて、どこか別の場所に高飛びします。新しく人生をやり直すんですよ」
またぐい、と顎を持たれる。無理やり上を向かされ、首が苦しい。
「助けはなんて来ませんよ、キリアン殿下も王都にはいませんし、ここは誰も知らない場所だ。何人か、周りには言えないことをしている警備兵も買収してあります。まだみんなには、食事をしていると思われているでしょうね。レナエル様は太陽祭を楽しめるようになったんだ、よかった、と思っている人もいるでしょう。貴方の周りは本当に恵まれていて、優しい人たちばかりですからっ」
今度は右頬を張られた。先ほどより強く張られた気がした。
レナエルは何も考えられない。じんじんとする頬に冷たい涙が伝っていく感覚だけがリアルだ。
「これ以上、貴方を見ていると、もっと暴力を振るってしまいそうだ。少し頭を冷やしてきますから、ここで大人しくしていてください」
「っ、んんっ!」
ルイがテーブルから何か拾い上げるのがかろうじて見える。
そして、レナエルは後ろから目隠しをされた。視界が奪われ、目の前が真っ暗になり、背中に冷や汗がどっと吹き出す。レナエルは頭を振るが、何の意味もない抵抗だった。
「貴方に少しでも私たち姉弟に対する罪悪感があるなら償ってください。それが貴族、今は王族ですね。上の者の責務ってやつでしょう?」
待って、という言葉も出せない。視界を覆われ、身動きが取れない状況で扉が閉まる音が聞こえた。ガチャリ、と鍵をする音まで響いてきた。
静寂と暗闇がレナエルをパニックにさせる。ここは地下室だろうか。光が全く見えない。
(ルイが……、こんなことをするなんて……)
それにメルゥが大変なことになっているなんて知らなかった。メルゥが屋敷を辞めた理由を、レナエルは『レナエルを危険な目に合わせた責任を取りたい』と本人から要望があったからだ、と聞かされていた。確か再就職先も母親が斡旋していたはずだ。
ましてや精神的におかしくなってしまっていた、なんて初耳であった。
(もっと早く教えてもらっていたら、何かできたはずなのに……)
恐怖、悲しみ、後悔がぐるぐると頭を駆け巡る。
今まで親切に仕えてくれたのも、きっとこの時のためなのだろう。
ルイの怒りに満ちた視線を思い出すと、自分のどうしようもなさが情けなかった。
(そうだ……、あの時、メルゥの優しさにつけ込んだ僕が悪いんだ……、メルゥは優しくて、僕のことを優先してくれるって気づいていたはずなのに……)
あの時の後悔がまた押し寄せてくる。貴族の子息として、レナエルが過去に間違った判断をしたことは事実だ。それが今に繋がり、この状況を招いている。
「ふぅっ、ぅう……」
涙が止まらない。もっとメルゥについて詳しく聞けばよかった。
何かおかしい兆候があるなら、調べて貰えばよかった。レナエルがもっとちゃんとしていれば、メルゥの状況や、ルイの過去もきちんとわかり、何か支援に繋げられたり、相談にも乗れたのかもしれない。
(助けてほしい……、けれど、ルイに、メルゥにどう謝罪すればいいのかもわからない……)
いっそのこと、人買いに売られてしまった方がいいのかもしれない。そのお金で、ルイとメルゥが今よりも快適な生活ができるなら、罪滅しのためにも、このままレナエルは奴隷として売られた方がいいのかもしれない、とまで考えてしまう。
暗闇は怖い。手足が縛られ、猿轡されている身体は苦しく、脳から正常な判断を奪う。罪悪感と申し訳なさで、胸が潰れて死んでしまいそうだ。
まるで、あの日の再現のようだ。あの時も、メルゥへの申し訳なさと、怖くて仕方ない気持ちでいっぱいだった。
(キリアン様……)
以前は絶望していた時、あの灰褐色の視線に救われた。しかし今、キリアンは王都にいない。
暗闇、トラウマ、恐怖、罪悪感で、自分を失いそうになるが、必死にキリアンのことを考え、自分を取り戻そうとする。
「こいつか」
扉が開く音がし、男性の声がした。
レナエルは思わず、動きを止める。
「ええ、黒髪黒目のオメガです。珍しいでしょう? 辺境の村で隠されて育てられてきたみたいですが、こっそり捕まえてきました」
これはルイの声だ。レナエルが王族だということは黙っておくつもりのようだ。
もちろん、こんな場所で自分の身分を明かしても何の効力もないだろう。レナエルも黙っているしかない。
目隠しと猿轡が外された。目の前には薄汚い格好の男が値踏みするようにレナエルを見下げている。
「上玉だな、先方の要求にピッタリだ。すぐに金を支払う」
男が何か紙を出し、金額を書き、それをルイに渡した。
目の前で金銭のやり取りがなされ、レナエルはそのことにもショックを隠せない。
自分が本当にモノのように売り買いされてしまうことに実感が湧き、顔を青褪めさせた。
(嫌だ……、怖い……)
紙を受け取ったルイは男にどうも、と無愛想に言い、レナエルの方には一瞥もせず、部屋を出ていってしまった。
部屋にはレナエルと知らない男の二人が残されている。
「おい、名前は?」
レナエルの顔ぐらいある大きな手のひらで顔を掴まれる。
「……レナエル、です」
「ん? あのオメガの王族と同じ名前だな」
ぐっと力を入れられると、怖くて背中が跳ねた。
「買い手は綺麗な顔の人間のオメガがほしいらしい。処女か?」
不躾な質問だ。答えないでいると、さらに手に力が込められたので、レナエルは首を縦に振る。
「そりゃ、だめだ。処女はめんどくさい、なるべく性技に長けたオメガをっていうのも依頼だからな」
そう言うと、男の視線が嫌なものを含んだ。
また猿轡をされ、声が発せられなくなる。
身の危険を感じたレナエルは身を捩り、男の手から離れようとするが、許されず、下衣に手がかけられた。
「んぅ、んんっ」
嫌だ、やめて、と言いたいが、言葉にはならない。全て口元の布が吸い込んでいく。
(い、嫌だ、嫌だ、こんな誰とも知らない男に、犯されるなんて……!)
シャツをパンツから引っ張り出され、腹を撫で回される。気持ち悪くて仕方ない。
「仕事とは言え、役得だよな。こんな上物のオメガを好き勝手できるんだから」
男の息が荒くなっていく。他人に、こんな人買いの犯罪者に欲情され、身体を好き勝手されそうになっていること自体、嫌悪感でしかなかった。
レナエルは首を振りながら、必死に身体をよじる。だが縛られた状態での抵抗なんて、何も効果はなさない。
男の手がレナエルの下着の中へと侵入しようとした時であった。
「動くな!」
扉が壊される音と共に、声が聞こえた。薄暗かった室内が激しい閃光に照らされ、大きな破裂音が響く。
男の手が離れたのがわかった。レナエルは何が起こったのかわからず、目を瞑り、必死で身体を縮こまらせる。
身体を汚されそうになったこと、突然の大きな音と激しい閃光に頭がパニックを起こす。
レナエルは何も考えられず、目を閉じ、やり過ごそうとした。
何も聞こえない、何も見えない。もうどうすればいいのかわからない。
(怖い、怖い……、キリアン様っ!)
ひたすらキリアンのことを考えていると、腕に触れられた。男の手が身体を這い回っていた感触を思い出し、パニックになる。
なぜか自由になった手をレナエルは振り回す。自分が何を言っているのかもわからない。
「やめて! 触らないで!」
「痛っ!」
声が出せるようになって、驚いた。肘に硬いものが当たった感覚がして、レナエルははっと我に返る。
目線をあげると、こめかみから血を流したキリアンがレナエルを見つめていた。
「……大丈夫か?」
声が出ない。辺りは騒がしいが、レナエルには何も聞こえなくなっていた。ただ目の前には、こめかみから血を流しながら、じっとレナエルを見つめるキリアンがいる。
キリアンは静かに告げた。
「助けに来た、レナエル」
レナエルはこめかみの流血から目が離せない。誰がキリアンに怪我をさせたのかは明白だった。
自分だ。わけもわからず腕を振り回し、キリアンに怪我をさせてしまった。レナエルの肘がキリアンのこめかみに強く当たったのだ。
その事実にレナエルは顔を青褪めさせていく。
「怪我……、血が、ぼ、僕の……、せいで……」
「気にするな、お前が無事でよかった」
キリアンはぐい、と男らしく、汗でも拭くかのように、顔の方へと垂れてきた血を袖で拭う。
「怖がらせてすまなかった、すぐにオメガの騎士を呼ぶから待っていろ」
待って、とレナエルはキリアンを呼ぶ。しかし、すぐに背を向けたキリアンに、レナエルの声は届かなかった。
ともだちにシェアしよう!