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第1話
カラカラと音を立て、古い扇風機が熱気のこもる部屋の空気をかき混ぜている。
その音に誘われるようにして、月橋知樹は目を覚ました。時間は午前六時半の一分前だ。知樹はゆっくりと身体を起こした。
昨日は客足が思ったよりも多かった。疲れてしまい、どうやらリビングのソファで寝落ちしてしまったらしい。身体がこり固まっていて、首が凝っている。
ぐるぐると首を回していると、カーテンの隙間から陽光が漏れて、ラックの上に飾ってある亡き兄の写真を照らしていた。その側には透明の花瓶が飾ってある。しかし中身の花は萎れてしまっていた。
知樹は簡単な身繕いをすると、店の庭に出た。そして愛用の剪定鋏で、咲いているカモミールを一輪だけ切り取る。部屋に戻ると、それを中身をすげ替えた。
写真の中の兄・月橋隆也は白い歯を見せ、知樹に太陽のような笑顔を向けている。居た堪れなくなった知樹は目を逸らし、手に取った写真立てを元の場所に戻した。
そして、目を閉じ、静かに手を合わせる。
(おはよう兄さん、今日もどうか不出来な僕をどうか見守っていてください)
兄が死んでから十年、知樹は欠かさず、兄の写真の前で手を合わせていた。
十年前の判断について、知樹はずっと心に重たいものを抱えている。だから許しを乞うようにカモミールを供え続けているのであった。
「え? じゃあ帰って来ないってこと?」
『ちゃんと帰るわよ! けれどその日にちを一週間ずらすってだけ。友達と旅行に行くのよ』
忙しい昼時を終え、今、店内にお客さんは一人もいない。その合間を狙って遅めの昼食を適当に摂っていたのだが、姪である彩奈からの電話がかかってきた。
彩奈は亡き兄の一人娘だ。今年で二十一歳になる。東京の大学の医学部に現役で入学し、一人暮らしをしていた。
大学が夏休みに入ると、帰省して、知樹が一人で切り盛りしているカフェ『シーガル』の手伝いに来てくれる。
港町で、目と鼻の先に海が見えるシーガルは夏休みになると、観光客が訪れ、賑わいを見せる。小さいカフェとはいえ、どうしても一人で運営していくのには限界があり、帰省した際は彩奈が手伝ってくれていた。
彩奈は中学生の時から高校生の時までは知樹と一緒に住んでいた。兄が亡くなった後、他に身寄りのない彩奈を知樹が引き取ったからだ。
今年も彩奈の帰省を当てにしていた。なので臨時のアルバイトや、短期のパートを募集してはいない。
知樹は首をかしげ、腕を組む。参ったなあ、と思いつつも、無理強いをする気はなかった。
(友達と旅行なんて、大学生活を楽しんでいる証拠なんだし、邪魔しちゃいけない)
知樹が彩奈を引き取ったのは同じ大学三年生、二十一歳の時だった。もちろん、大学は中退した。だからキャンパス生活は二年ちょっとしか経験していない。
なので、彩奈にはしっかりと勉強も遊びも経験してもらい、自分が送れなかった大学生活を楽しんでもらいたかった。
「いいよ、いつでも帰ってきて。こっちのことは気にしないで、旅行を楽しんでおいでよ」
『でもさ、連絡も急だったし、私がいないとカフェ大変でしょ? だから助っ人を頼んでおいたの』
「助っ人?」
『そう、同じ学部の男友達にシーガルのことを話したら、ぜひそこでバイトしてみたいって言ってて。今日の夕方には着くと思うよ。急だから私の部屋を使ってって、言っておいたから』
「え? ちょっと待って。誰なの? どういう人?」
『名前は大峰草太。大丈夫、いい人だから。三浪して医学部に入ってるから……、年は二十四かな? それじゃ、今から特別講義だから。ちょっと急いでるのよ、またね』
「ちょっと待って」
ぶつ、と電話が切られ、知樹はしばし呆然とする。
(彩奈の友達とはいえ、知らない人と一週間も同棲しなきゃいけないってこと?)
二十四歳、知樹の七歳年下だ。どこかホテルから通ってもらった方が良いだろうか。しかし一週間もの宿泊代はこの店の財政上出せない。
店は一階で、二階と三階は住居スペースになっている。三階には彩奈の部屋があるが、本人の同意があるとはいえ、流石に男性を女性である彩奈の部屋に泊まらせるわけにはいかないだろう。
三階のもう一つの部屋は物置状態で、エアコンが壊れているから寝泊まりはできない。
そして二階はキッチン、リビング兼ダイニング、風呂、洗面所、トイレ、知樹の部屋だ。
(しばらく僕の部屋で寝泊まりしてもらうしかないな……)
自分はリビングで寝たら良い。不安要素はたくさんあるが、彩奈の友人だし、変な人ではないだろう。わざわざ彩奈の代わりのアルバイトを代わりに引き受けてくれるぐらいだ。きっと親切な若者なのだろう。
知樹は残り物で作った賄いの温玉丼を一気に食べて切ってしまう。溜まっている洗い物を今のうちに片付けてしまおうと、カウンターから立ち上がったとき、来客を告げる鐘が店内に響き渡った。
「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」
扉から入ってきたのは、すらっとして手足が長く、背の高い金髪の男性だ。少し長めの前髪をセンターで分け、両方に流している。プルメリアが散らばっている青色のアロハシャツを着ており、下は淡いパステルカラーの短パンとサンダルを履いていた。背中にはバックパックを背負っている。
まるでモデルのような整った容姿だ。おそらく観光客だろう。大ぶりのサングラスもしている。
知樹が声をかけると、男性は大ぶりのサングラスをすっと外し、胸元に差し入れた。
二重で、鼻筋が通っている。整った今風の顔つきだ。テレビでよく見る韓国系アイドルの顔立ちを知樹に思い起こさせた。
男性は知樹の質問には答えず、にっかりと笑顔を向けた。
「初めまして! 月橋知樹さんですか?」
サングラスを外すまではクールな印象だったのに、明るく笑いかけられ、その落差に少したじろぐ。
それより、どうして知樹の名前を知っているのだろう。そちらの方が気になってしまう。
「そうですが……、貴方は?」
訝しみながら、知樹は様子を探る。不審気な目線を向けているが、意にも介さず、彼は距離を詰め、知樹の手を握った。
「俺は大峰草太と言います! 彩奈ちゃんの代わりにここで働かせてもらいにきました。一週間、よろしくお願いします!」
知樹の手を一度、ぎゅっと握った後、草太はすぐに手を離し、深々と頭を下げた。
「え、ぁ、君が大峰くん?」
「そうです! 彩奈ちゃんから聞いてませんでした?」
「さっき、電話があったばかりだから……、驚いちゃって。こんなに早く来るとは……」
彩奈から話を聞き、電話を切ってまだ一分も経っていないのだ。段取りとか、準備とか、全然何も考えられていない。それに今日の夕方には着く、と彩奈は言っていた。まだ午後二時頃だ。夕方というから午後四時頃とか、午後五時頃を知樹は想定していた。
あたふたする知樹とは対照的に、草太はお気楽そうに笑っている。
「俺、結構フットワーク軽い方なんで、話を聞いてすぐに準備して、電車に飛び乗ってきたんですよ。いやここ、めっちゃ遠いですね。電車で四時間ぐらいかかりました。それにすごい田舎。どこもかしこも潮の香りがする」
はは、と草太は笑っているが、知樹は不安が拭えない。
せめて出発する前に電話をするとか、何時に着くとか、教えて欲しかった。というか、それが最低限のマナーではないのだろうか。
「来てくれてありがとう……、その、接客経験とかはどうなんだい?」
服装と言い、言動と言い、草太は田舎の簡単なアルバイトだと思っているのではないだろうか。彩奈の友人とはいえ、あまりいい加減な人物だと困る。
「もちろんありますよ! 俺、学費を貯めるためにめっちゃバイトしまくってたんで。スーパーのレジ打ちから、深夜のファミレスとか、ちょっとお高いフレンチの給仕とか。おしゃれなカフェで働いたことはないけど、お役に立てると思います!」
経歴には申し分はないようだ。ファミレスやフレンチレストランで働いたことがあるなら、ホールを任せても良いだろう。
しかし自信満々に告げられると、余計に不安を煽られる。
草太の軽薄な服装、軽い物言い、言ってしまえばかなりチャラい。
知樹の視線は意にも介さず、草太はきょろきょろと店内を見渡している。揺れる金髪の隙間から大ぶりのピアスが見えた。
「それにしても良い店っすね。おしゃれで、インテリアも凝ってる。実は海の近くのおしゃれなカフェで働くの、夢だったんです。めっちゃ嬉しい!」
シーガルは全面ガラス張りで、どこからでも海が見えるようになっているのが売りだ。
カウンター五席に、テーブル三席、テラス席が二席と店舗自体は大きくない。普段は知樹が一人で切り盛りしており、たくさんの接客ができないのだ。
草太は近くの飾り棚の方へと視線を向ける。そして、赤い水玉のカップとソーサーを覗き込んだ。
「これ素朴で良いっすねー。アンティークかな? 知樹さんが選んだんですか?」
早くも下の名前呼びか、と身構えてしまった。三浪していて、学費を貯めるためにそれなりに苦労してきたのでは、と思ったが、七歳下だとやっぱり世代間ギャップが激しい。
(彩奈と同じ医学部生だとは思えない……)
彩奈は真面目で芯のある性格をしていた。医者になる、と言って、奨学金等の手続きも全て自分でしっかり行っていたのだ。
(まあ二人とも、まだ大学三年生だもんなあ……)
しっかり者と言いつつも、いきなり旅行に行くから、と今日電話してきた彩奈と、何の連絡もなく、いきなり店に来た草太の姿がどことなく重なる。
知樹は小さくため息をついた。
「いいや、僕じゃないよ。僕の亡くなった兄、彩奈の父親が買い付けたんだ。このカフェを始めたのも兄。それを僕が引き継いだだけ。カフェのセンスが良いのも、兄が選んだからだよ」
彩奈が草太にどこまで話をしているのか、よくわからないので、少し探ってみる。
「そうなんですねー、彩奈ちゃんから話はちょっと聞いてます。世界中飛び回ってて、古物商してたとか」
「これは確かソビエト製じゃなかったかな? 兄はこういう味わい深いものが好きだったんだ」
生前、兄は古物商をしながら、夏場だけここでカフェを開いていた。
ここにいると、十年経った今でも、兄の豪快な笑い声が聞こえてくるような気がする。
とにかくパワフルな人だった。きっと草太のような人が来ても、知樹のように疑りの目を向けたりはしないだろう。一週間頼むぞ、と大きく口を開けて笑うだけだっただろう。
知樹は目を伏せ、カップを手に取る。何か重いものが心の中で騒ぎ出す。
知樹は負の感情が溢れ出す前に、カップとソーサーを飾り棚に戻した。
「大峰くん、アルバイトは明日から頼んで良いかい? それにここに住み込みになるし、僕と一週間生活しちゃうことになるけれど……」
嫌だったら、どこか安い民泊を頼もうか、と提案をしようとした時、草太がかぶせ気味に大きな声で返事をした。
「いいえ! 大丈夫ですよ! 知樹さんさえよろしければ、ここでお世話になりたいです!」
草太は威勢が良く、明るい。それに見た目もチャラついて見えるが、物言いはハキハキとしていて、一見して悪そうな感じはしなかった。
まあ何とかいけるだろう。見た目も観光客には受けがいいかもしれない。
「うん、よろしくね。今日の夜に仕事について話をするよ」
知樹が微笑みかけると、草太はとびきりの笑顔でこう言い放った。
「なんか、部活の合宿みたいでワクワクするっすね!」
部活ではない。短期のアルバイトだが、仕事だ。
知樹は笑顔を引き攣らせ、草太に対する心配をより一層深めていった。
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