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第3話
第六王子宮で働き始めて一週間が経つ。
いくらトリスタンが気に食わないとはいえ、仕事は仕事だ。私情は挟まず、完全に割り切り、淡々と接している。
レアの職場でもあるトリスタンの住まい、第六王子宮は王宮の外れにあった。
彼の母親は南国の貧しい国から来た快活な姫だったという。明るく、元気な姫であったが、トリスタンを産んだ後、産後の肥立ちが悪く、そのまま亡くなってしまった。以来、彼はこの屋敷でひとりで過ごしている。
第六王子宮はレアの実家ぐらいの大きさだろう。そこまで大きく、豪奢なわけではない。しかし小物や飾られている絵画などの毛色が明らかにこの国のものとは違う。
爽やかな香りのするプルメリアが至る所に飾られている。温室で特別に育てられているものだ。寒いこの国では暖かい地方の花は育ちにくい。
レアはこの香りが好きだ。実は孤児院にも同じ花が飾られていたのだ。
だからなのか、この香りを嗅ぐと落ち着き、安心する。だが発情期の際にこの香りを嗅ぐと、さらに発情してしまうのが難点だ。
トリスタンの衣服からもよくこの香りがしている。おそらく花の香りが服にうつっているのだろう。
トリスタンの好ましい点を挙げるなら、歩けば香ってくるこの甘い香りだけだ。
廊下にはいくつか原色の絵画が飾られており、それらを目の端で認識しながらもレアは早足で廊下を歩く。
今思い返すと、孤児院にもこんな雰囲気の絵画が飾られていた。
「ハルスウェルです、開けてください」
廊下の先、一番奥にある扉の向こうはトリスタンの私室であった。
「まあまあ、殿下! ハルスウェル様がお迎えにいらっしゃいましたよ!」
内側から侍女が扉を開ける。レアは侍女にありがとうございます、とお礼を言って、中へ入っていく。
普段、トリスタンが寝室として使っている部屋だ。しかしベッドはたくさんのジャケットとシャツに埋め尽くされ、シーツは見えなくなっていた。
「まだお決まりにならないのですか?」
ベッドを埋め尽くす衣服を横目に鏡の前に立つトリスタンに声をかける。自覚があるほど、冷たい声が出た。
あれからトリスタンには業務的にしか接していない。
トリスタンがレアのことを恋人だと宣言し、周りに否定する機会もなく、一週間も過ぎてしまった。きっともう有る事無い事言われている頃だろう。
それを考えるだけでも腹立たしかった。
「殿下にはこちらの水色のジャケットの方が似合いますわ」
「何をおっしゃっているの? こちらの薄いピンク色の方が上品でしょうに」
トリスタンの部屋で二人の女性が言い争っている。二人はトリスタンの侍女だ。
「まあまあ二人とも、落ちついてよ。このままだと兄上との昼食会に間に合わなくなってしまうから」
そうやって二人を宥めるトリスタンを、レアは思わずきつく睨みつけてしまった。
心優しく、慈愛に満ちていることと、威厳がなくヘラヘラしているのでは全く違う。レアから見て、トリスタンは後者のように感じた。
普段から威厳のある態度で接していないから、侍女が自由な行動をしているのだ。
「殿下がお決めになってください!」
二人がそれぞれ服を手にトリスタンに迫った。
「僕に衣服のセンスはあんまりないからわからないよ……、困ったなあ」
(情けない、服装ひとつ自分で決められないなんて……)
三人の様子を見てレアはため息をつく。このままでは昼食会どころか、夕方までかかるに違いない。
腕時計を見ると、もうあと十分で出発しなければならない時間となっていた。
レアはベッドへ視線を移す。紺色のセットアップが無造作に放置されているのが目に入った。
「これ、これでいいでしょう。すかしで入ったストライプが上品ですし、金色のボタンも艶やかだ。早く着替えてください」
レアはそれを手に取ると、トリスタンに手渡した。
「時間がありません。もう部下たちは待たせてありますから、着替えたら急いで表まで来てください」
王太子に会うのにみすぼらしい格好では会えないし、センスのない服装をしていればそれだけでトリスタンの品位を問われることになる。
先ほどの侍女たちが揉めるぐらい白熱していた理由も少しはわかる。悪いのは全てトリスタンだ。
だが、約束に遅れては意味がない。
(水色やピンクのような淡い色ではなくて、殿下には赤や青色など濃い色が似合うだろう……)
異国の血が混ざり、顔立ちがはっきりしているから、原色が似合うのだ。
流石に今回はそんな派手な衣服ではいけない。ちょうど視界に入ってきたものが紺色の上品なセットアップで良かった、とため息をつく。
レアは一礼してから部屋を出た。元来た廊下を歩いていると、侍女たちの高い声が廊下まで響いてくる。しかし、すぐに聞こえなくなった。
(まあ……、あいつがどう恥をかこうと私には関係ないが、私のいるところで変な恥をかくのは許さない)
レアは完璧主義者なところがある。いくら好いていないとはいえ、トリスタンはレアの主人だ。
レアの前では威厳のある立派な王子であってもらわなければ困るのだ。
外に出ると、部下たちが直立不動の姿勢をとった。
(こいつら、私がいないということで談笑していたな……)
そう思いつつも、気がつかないふりをして、レアは指示を出した。
「トリスタン殿下はもう少しでいらっしゃる。お前、ネクタイが曲がっているぞ、トリスタン殿下がいらっしゃるまでに直しておくように」
外で控えている部下にそうやって注意をしつつ、トリスタンを待った。
何やかんやと急ぎつつ、向かうと、予定していた時間よりも十五分ほど早く着き、レアはほっと安心した。
場所は王太子が住んでいる東宮だ。
こういう場合、歳も位も下であるトリスタンはいくら招待されているとはいえ、王太子よりも先に会場に入っておくのがマナーである。なので、レアは急いでいたのだ。
「こちらでお待ちください」
庭の中に建てられている四阿に、セッティングされたテーブルとチェアが用意されている。
庭は春の草花が綺麗に咲いていた。
ここ一週間で気温がどんどん上がってきている。しかし風は冷たい。
これから来るであろう春の息吹を感じられる庭だ。
レアは席についたトリスタンの背後に控える。
穏やかな風が吹き、甘やかな香りが漂ってきた。春を予感させる香りだ。白く、たくさんの花が集まっている植物が風に揺れている。
レアは甘やかな花の匂いに一瞬くらりとしてしまい、我に返った。
(発情期……、ではないな、まだ来ないはずだ)
三ヶ月に一度、七日間ほどやってくる発情期の際は身体の感度だけではなく、嗅覚や味覚といったものも鋭敏になってしまう。
レアの場合、香りに敏感になってしまうのだ。
初めて発情期を迎えた際もそうだった。王妃が暴漢に襲われた事件から一週間後にレアは初めて発情期を迎えたが、あの日あたりからやたら、プルメリアの香りを探していた。
今、身体が火照っているだとか、フェロモンが出ている様子はない。
(薬は持っているし、大丈夫だ)
そうやって、レアは自分を安心させた。
突然、公衆の面前で発情期になることはマナー違反とされている。
レアは発情期が近くなったら、抑制剤を服用し、どうしても薬が効かない時だけ休みをもらっていた。
それでも突発的な発情期に備えて、緊急抑制剤も持ち歩いているが、使ったことはなかった。
「王太子殿下はもう少しでいらっしゃいます。それまでこのお紅茶でもお楽しみください」
笑顔のメイドがトリスタンに近づく。
ソーサーの上にのったティーカップに熱い紅茶を注ごうとしている。
「あっ」
メイドがティーポットを取り落とした。そして、そのまま紅茶はトリスタンのジャケットに溢れていった。
「熱っ」
トリスタンが顔を顰める。レアは急いでトリスタンに駆け寄った。
その間にメイドの様子を注意深く観察した。
メイドはポケットから何かを取り出そうとしている。
「待て!」
レアはトリスタンを通り過ぎ、メイドのポケットに突っ込んだ方の手を押さえた。
「何を出そうとした」
低く尋ねると、メイドは青ざめた。そして目に涙を溜めながら震える唇で言葉を放つ。
「ふ、布巾です……! 殿下のお身体を拭かなければ……」
レアが疑っているのは彼女がトリスタンに危害を加えようとしてわざと熱い紅茶を溢したのではないか、ということだ。それならばもしかしたら、ポケットの中に何か武器を入れている可能性もある。
(まあ……、きっと本当に失敗して零してしまったんだろうな。ましてや暗殺なんてこの腕では出来ないだろう)
警衛上、レアは不審な人物がいないか、周りをよく見ている。少しでも振る舞いや態度に違和感を覚えた者はチェックし、監視をつける。
彼女の振る舞いに全く違和感はなかった。トリスタンが到着してから、彼女はきびきびとよく働いていた。
だがこれは一歩間違えば、トリスタンに大火傷を負わせる可能性もあるような失敗だ。
ここはきつく叱っておかなければならないだろう。
レアが大きな声を出そうと、すっと息を吸った時だった。
「ハルスウェル、こちらへ」
風が吹く。なぜかここにはないはずのプルメリアの香りがした。いつもレアを安心させるその香りに今は、ひしひしとした重苦しい緊張感を覚える。
トリスタンの威圧を背中で感じ、冷や汗が止まらない。
「ハルスウェル」
動けないでいると、催促するように名前を呼ばれた。
(なんで、こんなの……、慣れたと思っていたのに)
アルファから不当な威圧をかけられることはままある。レアが職務に対する不手際を指摘した時、仕事への怠慢を咎めた時、誘いに乗らなかった時など、一度や二度ではなかった。
しかし今、なぜトリスタンに威圧されたのかよくわからなかった。しかもそれに簡単に屈してしまいそうになる自分にも疑問が湧く。
レアは歯を食いしばる。トリスタンはレアに持ち場に戻れ、と暗に言っている。
メイドは九割ぐらいの確率でシロだろう。だが残りの一割、万が一という可能性もあるのだ。
レアは動けなくなってしまった。
「ハルスウェル」
近づいてきたトリスタンに腕を掴まれる。身体が怯えで跳ねた。
「な、何でしょうか?」
唇が震えそうになったが、かろうじて抑えることができた。しかし出てきた声はか細いもので、レアはすぐに口をつぐむ。
「彼女の腕を離すんだ、僕なら怪我も火傷もしていない。きっと手を滑らせてしまっただけだろう。誰にだって失敗はある」
「しかし……」
レアは自分の中で意地が出てきたように感じた。可能性があるから、と理由をつけ、トリスタンに屈したくない、という子供じみた感情に正当性を持たせようとしている。
(私は、近衛騎士として……、正しい行動をしている、はず)
「レア」
今度はファーストネームで呼ばれた。驚きと動揺で、メイドの腕を掴む力が緩くなる。 驚いたのはそれだけでなく、トリスタンの声色が優しく諭すようなものだったからだ。
「大丈夫だ、ほら手を離して、僕なら無事だから」
手に手を重ねられ、指をさすられる。
いつの間にか威圧感は無くなっていた。
背中にも大きく、暖かな感触が重ねられており、トリスタンと密着していることがわかった。
もう一度、風が吹いた。まだ風は冷たいはずだ。しかし寒さは感じない。
先ほどよりも濃いプルメリアの香りが鼻腔をくすぐった。
触れられた指がじんじんと熱くなってくる。
そして指の力が抜けていき、レアは手を離した。
メイドが少し気の抜けたような顔をして、レアに掴まれていた手首をさすっている。
それを見て、自分が強い力でずっと掴んでいたことを自覚し、少し申し訳ない気持ちになった。
「ほらこのジャケット、外で待っている者たちに渡しておいてもらえるかい? すぐに染み抜きをしないといけないから」
トリスタンはバサリ、とジャケットを脱いだ。そしてそれをレアに手渡す。
「……わかりました」
さっと目線でトリスタンの服装を確認すると、ワイシャツも紺色のズボンも綺麗だった。どうやらジャケットが全て吸い取ってくれたらしい。
手に持ったジャケットを見てみる。熱い紅茶がしみた紺色のジャケットは熱と紅茶の色で変色してしまっていた。
その胸元に何か白く光るものを見つける。
(ブローチ? え、白百合の……)
この紋章には見覚えがある。レアは思わず手に取った。
白百合の紋章は王妃の紋章だ。なぜトリスタンが持っているのだろう。
プルメリアの香りと白百合の紋章。何か引っかかる。
レアはもう一度、トリスタンの顔を見上げた。
柔らかな視線と目が合い、ハッとする。
今はそんなことはどうでもいい。早く汚れを取らないと、紅茶がシミになってしまうだろう。
「外に控えている者に……、渡してきます。あと替えのジャケットも」
レアは汚れたジャケットを手に外へと向かう。
そして外で控えていた侍女の一人に事情を説明し、すぐに洗濯をしてもらうことと、替えのジャケットを至急用意するように頼んだ。
結局、朝、トリスタンの部屋で揉めていた侍女のひとりが選んだジャケットになってしまった。
レアは淡いピンク色のジャケットを手にトリスタンのところへ急いで向かう。
王太子は忙しい人物だ。もしかしたら遅れるかもしれない、と事前に連絡を受けていた。 なので、急げば王太子が来る前に何とかジャケットを渡せるかもしれない、と算段していたのだ。
しかし、レアがジャケットを手に息を切らして戻ると、すでに王太子は到着しており、二人は和やかな雰囲気で紅茶を飲んでいる途中であった。
王太子はトリスタンの五個上で、三十一歳になる。母親はアルファの第二夫人で、実家も大貴族だ。母親の弟は警察省のトップを務めており、極めて優秀な人物である。後ろ盾も厚く、王妃に子がないため、王太子に立てられた。
兄弟仲は良いと聞いている。
茶色い髪に緑色の目をし、理知的な雰囲気がある。彼自身もアルファで、法改正について研究した論文が世界的に認められていた。
立太子されることが決まるまで、本人は大学で研究を続けたいと言っていたらしい。
レアはトリスタンの背後に控え、そっと会話を伺う。いいタイミングでトリスタンにジャケットを渡そうと思っていたのだ。
「ああ、来たじゃないか、上着がなければいくらこの日の当たる場所でもまだ寒いだろうに。ほら君、トリスタンに上着を着せてあげなさい」
「かしこまりました」
王太子から直接指示されるとは思わず、レアは緊張した。
一礼し、すぐにトリスタンに駆け寄る。
「すみません兄上、そそっかしくて。失礼しますね」
立ち上がったトリスタンに袖を通させる。なんでこんな侍従みたいな事を、と思う気持ちがないわけではないが、今、ジャケットを持っているのはレアなので仕方ない。
「ありがとう、替えを持ってきてくれて」
「いいえ」
着せ終えると、レアはすぐに後ろに下がる。
トリスタンが席に着くとしばらくして軽食が運ばれてきた。
「庭を見ようとして、紅茶を運んできたメイドとぶつかって、ジャケットを一つダメにするなんて……」
「ええ、メイドには悪いことをしました。僕が突然立ち上がらなければ良かったのですが、庭のお花が気になってついつい」
「まあ誰も何も怪我がなくて良かったよ、君もメイドも」
どうやらトリスタンがメイドにぶつかったことになっているらしい。
零したとなれば、メイドはクビになる可能性もあり、それを回避したかったのだろう。
トリスタンらしい甘い考え方だと思った。しかし咎めるような気持ちにはなれない。
二人の会話は進んでいく。
「仕事はどうだい? なかなか大変だろう」
「ええ、まあ……、皆の要望をなるべく取り入れていきたいけれど、全てうまくはいきませんね」
トリスタンは福祉省の名誉職についている。 本来、その役職は飾りだけの役職のはずだが、トリスタンはそれに見合うだけの仕事をしようと、毎日庁舎へ通い、夕方まできちんと仕事をしているのだ。
「君は王妃殿下の秘蔵っ子だしね。鬱陶しく思う連中がいない訳じゃない」
「おかあさ……、王妃殿下は僕を信じてこの役職につけて下さったのですから、期待を裏切るわけにはいきませんよ」
はしたないと思いつつも、王妃の話が出てきたので、レアは王太子とトリスタンの会話をつい盗み聞いてしまった。
(トリスタン殿下が王妃様の秘蔵っ子ってどういうことだ? 二人には何の関係もないはず)
そう思ったが、レアはハッとする。トリスタンのジャケットには白百合の紋章がついていた。
王妃も、何も関わりのない者に自身の紋章を与えたりはしないだろう。あれは王妃専属の使用人、近衛騎士などがつけることを許されるものであるからだ。
二人がどういう関係なのか、疑問が湧いてくる。
「そういえばトリスタンにも恋人ができたんだろう?」
思考をフル回転させている中、王太子の言葉にレアは思わず頭が真っ白になった。
「確かオメガの騎士だって聞いたけど……、あれ? もしかして彼がレア・ハルスウェル?」
王太子と目が合い、レアは咄嗟に顔を伏せた。
「あー、その……、違うんですよ兄上」
歯切れ悪く、トリスタンが取り繕おうとする。
「ハルスウェルの到着が遅いので、心配して迎えに行ったら、ナハールにしつこく言い寄られていたんです。あいつのしつこさは尋常じゃないでしょう」
「ああ、被害も何件か上がっているらしいね。痛ましい事件も聞いている。何とかしなければならないね」
王太子はすっと目を細めた。
「ええ、これ以上、好きにさせてはなりませんから」
ナハールの素行の悪さはレアも聞いたことがあるが、王太子の耳にまで入っているとは意外であった。
二人とも本当に心を痛めているかのような表情をしている。
「僕が出ても食い下がってきたので、僕の恋人だ、と言って追い払ったんです。それが噂になっているみたいですね」
「なんだ、てっきり恋人だから、側に置いておきたくて彼を自分の近衛騎士にしたのかと思っていたよ。違うのか」
レアは拳を握りしめ、唇を真一文字に引き結んだ。
王太子にまでそうやって思われていたのかと思うと、とんでもなく悔しい。
やはりあの場できつく否定しておくべきだった。
「まさか、彼は優秀な近衛騎士です。実力で抜擢されたのですよ」
思いがけないトリスタンの言葉にレアは目をわずかに見開く。
トリスタンが自分のことをそう思っているとは思いもよらなかった。小煩く、鬱陶しい、可愛げのない奴だと思われている、と予想していたからだ。
「前まで勤めていた軍務部での執務成績も優秀でした。彼を軍務部から出すのに軍務部長がだいぶ渋っていたようです。彼がいなければ式典や訓練関係の準備が回っていかない、と言って」
レアは目をみはる。
トリスタンが前の職場の話を知っていることも意外だ。
「ここに配属されても部下たちをよくまとめて、きちんと仕事をこなしています。今朝は僕の服装まで決めてくれて。大変感謝しています。おか……王妃殿下もなぜこんな優秀な彼を僕に預けてくれたのでしょうね」
え、と小さく声が漏れてしまい、レアは慌てて右手で口を押さえた。
(王妃様が私をトリスタン殿下に預けた……? 一体どういう……)
ということは最初レアは希望通り、白百合の騎士に配属されていたことになる。それが急に王妃からトリスタンに変わった。
初日、急いでトリスタン殿下のところへ挨拶へ行け、と言われた理由も急に変わったことが原因なのだろう。
本心は話に割って入ってでも、事情を聞きたいと思っているが、そんなことは許されるわけもない。許可もなく、会話に入り、疑問を投げかけるなど不敬にも程がある。
「それは」
「兄上」
トリスタンに制されて、王太子は口をつぐむ。
(知りたい……、一体どういうことだ……)
その後の二人の会話にレアが気になるような話題は出ず、近況などを報告し合い、当たり障りなく昼食会が終わってしまった。
「すまなかったね」
「え?」
昼食会を終え、トリスタンは昼から仕事は自宅の書斎でする手筈になっている。
荷物を渡し、書斎の前までついていくと、その扉の前で突然謝罪され、レアは思わずポカンとなってしまった。
「君を威圧し、不用意に触れてしまったことさ、あのままメイドの事を逮捕しそうな勢いだったから思わず間に入ってしまった」
近衛騎士は警衛対象に危険を及ぼそうとする人物のみを対象に逮捕権が与えられている。
「そこまでは流石に」
トリスタンに触れられた感触がよみがえってきた。ズボンの体側へ拭うようにして、指を押しつける。何だか落ち着かない気分になった。
「君はもっと僕に威厳を持った態度でいてほしい、と思っているだろうけれど……、ああいうの、苦手なんだ」
いつもよりトリスタンが小さく見えた。しゅん、として肩を落としている。
どうやらレアに対して、威圧的な態度をとったことで落ち込んでいるようだ。
それは特に悪いことではないように思える。
あの時のことを反省した際、やはりレアの方が間違っていた。
嫌疑の薄い者の手を強く握り、詰め寄るなんて、あまり行儀の良いものではない。
トリスタンを励ますつもりで、レアは軽く応える。
「でも私相手にきちんと怒ることができたでしょう? メイドに対してやりすぎだ、それ以上は何もするな、と」
「怒る、というよりも必死だっただけだ。それで君を威圧してしまって……」
トリスタンは、徹底的に争いごとが嫌いなのだろう。優しい性格である。それは誇るべきことでもある。その性格の全てが悪いわけではない。
それ以上、自己嫌悪に陥って欲しくなくて、レアは同じように軽く言った。
「気にしないでください。慣れていますから」
しかし、トリスタンは予想外の反応をした。
「そういうことに慣れているなんて、平気な顔をしないでくれ」
手首を持たれ、引き寄せられた。眼前にまで迫ったトリスタンの薄い青色の瞳が酷く揺れている。
青色というよりも、水色であった。淡く、透明感のあるその瞳にレアは思わず見惚れてしまう。
いつになくきつい口調で諭され、真剣に見つめられている。そこにいつものような軽薄な雰囲気はない。
そして怒りというよりも悲しそうな雰囲気を醸し出していて、そこにも戸惑いを覚えた。
「なぜ……?」
レアは単純に戸惑っていた。トリスタンがなぜそこまで感情を顕にしているのかわからなかったからだ。
それにどうしてレアの前職のことや、軍務部長のレアに対する評価まで知っていたのだろう。
レアの顔を見て、トリスタンはハッとしたような顔になった。ぱっと手が離され、ごめん、と小さく謝罪された。
そして、トリスタンはいつもの調子でまた笑顔を作り、明るく応える。
「傷つく君を見たくないだけだよ、僕はほら、その……、いっときだけでも君の恋人だったわけだから」
おかしな空気になったので、場を取り繕うためのジョークだろう。
いつものトリスタンに戻ったことに少しだけ安心した。
レアも同じようにジョークで返事をする。
「ええ、五分間だけね。すぐに別れましたけど」
「ああよかった、君でも冗談を言うんだね」
肩をすくめ、冗談を返せば、トリスタンは少し力なく笑う。
レアは少しだけ、トリスタンとの距離が近くなった気がした。
「相手によりますね。けれど、トリスタン殿下が争いごとがお嫌いなことは十分わかりましたし、私もやり方を変えます。貴方に不快な思いをして欲しいわけではありませんから。少なくとも、嫌疑の薄い者に詰め寄ったり、不快なことをされて平気だ、という発言は自粛しましょう」
「ああ、いつもの君だ……、けれど何か嫌なことがあれば僕に言ってほしい」
「……お気持ちだけ、受け取っておきます」
他人の親切心を無碍に扱うのは、レアでも心苦しいものがある。
トリスタンとレアは友人でも、ましてや実際には恋人でもないのだから、相談なんてできないだろう。
これがレアの精一杯の返答だ。
「あぁ、ええと……、君のほら、上司だろ? 僕は。だから部下たちの問題を把握する必要があるから……」
それがわかったのか、トリスタンも何か取り繕うように言葉を重ねる。
訳のわからない理屈だと思った。トリスタンは警衛対象であって、レアの仕事上の上司ではない。
しかし何かあれば力になりたい、というトリスタンの真意は伝わる。
レアはわずかに微笑んだ。
するとなぜかトリスタンの方が赤くなった。目線を逸らされてしまう。
トリスタンの心の根底にあるものは優しさだろう。
争いごとは好きではない。目の前で困っている人がいれば助けてあげたい。
(まるで王妃様のように慈悲深いのだな……)
なぜか王妃とトリスタンの姿が重なる。
そしてずっと気になっていたことをレアは口に出した。
「あの、すみませんが、お尋ねしたいことがあります。よろしいでしょうか?」
レアは思い切って、昼食会での疑問を聞いてみたくなり、声を掛けた。
「うん、なんだい? 教えてくれ」
「トリスタン殿下と王妃様とのご関係です。汚れたジャケットを確認した際、白百合の紋章のブローチが胸元についていました。あれは王妃様専属の使用人、近衛騎士たちしかつけられないはずです。どういったご関係なのでしょうか?」
思わず早口でまくしたててしまい、しまった、と思ったが、トリスタンには伝わったようだ。
「関係、か……」
トリスタンは少し考え込むような仕草をする。
「ハルスウェル、君は来週の金曜日は休みだったよね?」
「ええ、確かに、お休みはいただいておりますが、それが何か……?」
ぶつけた疑問とは全く違う質問をされ、レアは困惑する。何だか歯切れの悪い返答になてしまった。
「それなら来週の金曜日、朝の十時ごろ、ここへきてくれないか? 服装はラフな格好でいい。会わせたい人がいる」
「構いませんが、どなたですか?」
「まあ……、その日になったら説明するよ」
「はあ……」
曖昧な返答で、レアも首をわずかに傾げた。
「うん、それじゃ僕は仕事に戻るから」
詳しくは語らず、トリスタンは部屋に入ってしまう。廊下でポツンと、事情がよくわかっていないレアが一人で取り残されていた。
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