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第4話
連れて来られた場所は王妃宮であった。
「ど、ど、どうして……! 事前に教えてくださらなかったのですか」
白亜の宮殿の前でレアは声を潜めながらも、なかなかに強い口調でトリスタンに詰め寄る。
「先に言ってしまったら、君のことだから、恐れ多いだとか何とか言って、来ないんじゃないかと思って」
「当たり前でしょう! 王妃様とプライベートでお会いできるなんて、いや、これはきっと夢だ……」
もちろん、覚めてほしくはない夢だけれども。
レアは自分の服装を確認する。白いシャツに青色のストライプの入ったスラックス、茶色の革靴、手に持った揃いのジャケットを急いで羽織った。
「あ、ネクタイをしておりません!」
「大丈夫だよ、それに上着もすぐにいらなくなると思うよ」
確かに日増しに気候は暖かくなってきている。風も穏やかになってきており、日向にいると汗ばむこともあった。
だが、まだ上着を羽織らなければ風邪を引いてしまうかもしれない。それに王妃の前に出るのだ。礼を失してはならない。
二人が言い合っていると、王妃宮の使用人が近づいてきた。襟に白百合の紋章を付けている。
使用人は一礼すると、門を開けてくれた。
「ようこそ、トリスタン殿下、ハルスウェル様。王妃殿下がお待ちです。さあどうぞ、お入りくださいな」
トリスタンとレアは促され、中へ入る。
トリスタンは慣れた雰囲気で、ありがとう、と使用人に声をかけている。しかしレアの方はというと、ガチガチに緊張し、礼も言いそびれてしまった。
(王妃様に会いにいくならもっときちんとした格好をしてきたのに! それに心の準備もまだなのに!)
孤児院の時以来だ。しかしレアが一方的に知っているだけで、王妃はレアのことなど覚えていないだろう。多くいた孤児の内のひとりという認識に違いない。
孤児院の頃からレアも、優しく、慈悲深い王妃のことが好きだった。王妃が孤児院を訪問する日をいつも楽しみに待っていた。
掃除の行き届いた外廊下を歩いていく。左側に見える庭は広く、まるで王妃を表しているような白い花々が咲き乱れていた。
まだ白百合の騎士は見ていない。きっと影の見えないところで王妃を守っているのだろう
ところどころに見え隠れする色の濃い花や植物が目を楽しませてくれる。レアが緊張しながらもそれらを見て、心を落ち着かせようと努めている時であった。
「きゃー!」
レアは驚いて思わず足を止めた。
子供の甲高い声が近くから聞こえたのだ。あたりをきょろきょろと見回す。
「トリスタン殿下、一体」
「大丈夫だよ、ハルスウェルはすぐに仕事モードに入るな」
笑いを含んだ言葉に少しムッとなる。誰だって子供の悲鳴のような声が聞こえたら、周囲を警戒するに決まっている。近衛騎士として常日頃、トリスタンの身辺に気を配っているレアならなおさらだろう。
それに王妃宮でなぜ子供の声がするのかもわからない。
外廊下の先、庭にすぐ出られるサンルームの状況を見て、レアは驚きで声が出なくなった。
「トリスタン殿下、ハルスウェル様をお連れしました、王妃様」
「まあまあ、ようこそいらっしゃいましたわね」
白髪混じりの黒髪を三つ編みに結い、後ろに垂らした女性が椅子に座っている。
彼女が王妃だ。もう初老ぐらいの年齢であるが、美しさは衰えていない。
優しげな表情を浮かべ、トリスタンとレアに笑いかけている。
王妃が間近にいる。本当なら緊張し、身体がガチガチにこわばってしまうのだろう。
しかし今は緊張よりも困惑の方が大きかった。
王妃はサンルームの椅子に座っている。読み聞かせ用の絵本を手に持ち、広げていた。
「あー! トリスタンだ!」
「ねえねえ! ピアノ弾いてよ!」
「横の人だれ? トリスタンの恋人?」
椅子に座った王妃の周りには十人ぐらいの子供たちがいた。
「さあみなさん、絵本も読み終わったところだし、お庭で遊びましょうか」
王妃の言葉に弾かれたように子供たちは立ち上がる。そして今度はトリスタンのところへ群がった。
「ねえ! トリスタン、ピアノ〜! この前、約束したでしょう!」
「そうだな、みんなで歌でも歌おう」
固まっているレアを放置して、数人の子供と手を繋ぎ、トリスタンはグランドピアノの方へ近寄っていく。
トリスタンのピアノの演奏に合わせて子供たちが元気いっぱい童謡を歌い始めた。
その後ろ姿を呆然と眺めていると、レアの周りにも子供たちが集まってくる。
「お兄さん! 名前、なんていうの?」
「……レア、ハルスウェルだ」
「レアはピアノ弾ける? 絵は描ける? それとも足が速いの?」
ピアノはもちろん弾けない。習ったことも、触ったこともなかった。
絵心もどちらかといえばない方だろう。
「足は……、速いと思う」
「なら鬼ごっこだ! はじめはレアが鬼ね!」
「あ! ちょっと!」
子供たちに手を引かれ、庭へ連れ出される。
(まだ王妃様にご挨拶もできていないのに!)
後ろを振り返ると、笑顔の王妃が側にいる。
「鬼ごっこをするのなら手に持ったジャケット、邪魔でしょう? 預かっておくわね、適当にかけておくから」
驚きと恐縮と困惑と、様々な感情が渦巻き、レアは言葉が出てこない。
もたもたしていると、ジャケットが取られてしまった。
「お、王妃様っ」
「それじゃあ、子供たちの相手をよろしくね」
「ここで十数えてね!」
「あ、ちょっと!」
まだどの子がこの鬼ごっこに参加するのかさえも把握もしていない。散り散りに庭へ逃げていく子供たちをレアは追いかけようとした。
子供の体力は無尽蔵だ。
王妃宮の広い庭を子供たちが走り回り、きゃあきゃあとはしゃいでいる。
最初は困惑し、恐縮していたレアもだんだんと自分の孤児院時代を思い出し、あの時の気持ちが蘇ってきた。
「みんな、ふたりが来てくれたから嬉しくってはしゃいじゃったのね」
歌を歌い、鬼ごっこをし、その他もたくさん遊んだ子供たちはお昼寝の時間だ。みんな部屋の中で規則正しく寝息を立てている。
「わたくしたちもお茶にしましょう、軽いものを用意するわ」
テラスにはセッティングされたテーブルと椅子が用意されている。
躊躇っていると、使用人にどうぞ、と促され、レアも王妃とトリスタンにならい、着席した。
「ようこそ、レア。いつもトリスタンを守ってくれてありがとう」
「い、いえ、その、本日はお招きいただきありがとうございました」
思わず椅子から立ち上がり、勢いよく手のひらを胸に打ちつける。むせてしまった。
「あらあら、そんなに畏まらないで、お堅い方なのね」
「真面目なんです、揶揄わないであげてください。王妃殿下」
「まあトリスタン、あなたも堅いのね、いつもみたいにおかあさまと呼んではくれないの?」
レアはトリスタンと王妃を交互に見つめる。
トリスタンは気まずそうに肩をすくめた。
「一体どういう……」
王妃宮に来てから、いくつか疑問が浮かんでいる。
この子供たちは一体、誰なのか。なぜ王妃宮で遊んでいるのか。
そもそもトリスタンと王妃はどういう関係なのか。
「そう、レアは知らないのね」
「王室に近い者以外で知っている人は多くはないでしょう……、おかあさま」
観念したようにトリスタンが王妃のことをおかあさま、と呼んだ。
王妃は子供たちがレア、と呼ぶので、それにならって、レアのこともファーストネームで呼ぶことにしたようだ。
レアは椅子に座りなおす。軽食が出てきたが、それを食す余裕はない。
「トリスタンの母親であるナディア姫がもう既に亡くなっていることは知っているわよね?」
「ええ、はい」
トリスタンの住む第六王子宮はナディア姫が王国へ持ち込んだものだらけだ。ちょっとした異国になっている。
「わたくしには子供がいないでしょう? だからね、トリスタンはわたくしが育てたのよ」
驚きの事実にレアは再び立ち上がりそうになった。椅子から浮きそうになる腰を必死で押さえつける。
王妃自身はオメガだが、子供に恵まれなかった。そして謂れない差別を受け、心を病んだ時期もあったという。
しかしそれを克服し、彼女は自分が子を産むのではなく、両親や親族を何らかの理由で失った子供たちを支援することを選んだ。
それも立派な『子育て』だと言って。
そこまでは王国なら誰でも知っている話である。
しかし、王妃が生まれたばかりのトリスタンを引き取って育てていたことは初めて知った。
思わずトリスタンを凝視する。
「ナディア姫はほとんど身ひとつでこの国へ来たから縁者も後ろ盾もなくってね。生まれたトリスタンを貴族の養子に出そうかって話も出ていたから、ならわたくしが育てるって言ったのよ」
トリスタンはなんだか気まずそうな顔をしている。
「その頃のわたくしは子供が産めないと医師に言われてしまって、辛い時期だったの。みんなから非難されてしまってね……、おそらくお父様の権力と国王陛下からのご寵愛がなければ廃妃されていたかもね」
王妃の父親は先の左大臣である。それに珍しく国王と王妃は許嫁などではなく、恋愛結婚だった。
彼女は悪戯っぽく笑っている。もう過去のこと、きっと心の中で折り合いがついているのだろう。
「トリスタンを引き取って、乳母にばっかり任せるんじゃなくて自分でお世話をしたわ。ここに来たばかりの時は夜泣きが酷くて。やっぱりわたくしが本当の母親ではないとわかってたのよ」
王妃の目が優しくすがめられる。
「でもね、嬉しかったのよ。夜泣きで起こされるのも、おしめを替えるのも。トリスタンがわたくしを母親にしてくれたの。それからこういう子育てもあるのか、と思って、まずは孤児院を訪ねて、できる限りの支援をしたわ。さっきまで遊んでいた子供たちも王都の孤児院の子たちよ」
レアは王妃が孤児院を訪問した際、言っていた言葉を思い出した。
彼女は『わたくしを母親にしてくれてありがとう』と、孤児たちに優しい眼差しを向けていた。
それはトリスタンを引き取り、育てていく過程で彼女が見つけた幸せの一つだったのだ。
尊敬する王妃とトリスタンがこのような関係であるなんて、思いもよらなかった。
少しだけトリスタンに対する目線が変わった気がした。
「昔話はいいでしょう、何だか恥ずかしいです」
トリスタンの顔が赤い。きっと照れているのだ。いつも飄々としているトリスタンが照れている表情は何だか面白くて、可愛らしく思えた。
「二階でピアノを弾いてきます」
「静かな曲でお願いね、みんなが起きちゃうから」
トリスタンが席を立つ。席には王妃とレアのふたりが残された。
「ふふ、照れてたわね」
王妃の言葉にそうですね、と言葉を返し、レアは紅茶を飲む。
「あの王妃様……」
子供たちと鬼ごっこをしながら、レアには言おうと考えていたことがあった。
それは孤児院時代、レアの目の前で王妃が襲われた時の話である。
王妃とレアとを庇った近衛騎士に憧れて、騎士になったことを伝えた。
「覚えているわ、とても恐ろしかったもの。けれど同じくらい咄嗟にわたくしと子供達を庇った貴方の勇敢さも覚えているわよ。その近衛騎士に憧れて騎士になったこともね」
「そこまで知っていただいているなんて、光栄です」
ここで一つまた疑問が浮かんだ。質問しようか悩んだ末にレアはおずおずと口に出した。
「トリスタン殿下から、王妃様は私をトリスタン殿下にお預けした、とお聞きしました。その……それはいったい、どういう……?」
王妃はレアを少し驚いたような顔で見つめた。
「そう、トリスタンったら、まだ……」
「はい?」
「わたくしからは言えないわ。わかる時が来るから安心しなさいな」
朗らかだが、有無を言わせぬ王妃の笑顔にレアはそれ以上聞くことは出来ず、下を向き、紅茶を啜った。
解決しない疑問もあったが、憧れの王妃に自分の存在を知られていたこと、努力を認められたことなど、嬉しいことはたくさんあった。
ふふ、ととまた悪戯っぽく王妃が笑う。
「わたくしを襲った男はね、過激なアルファ至上主義者だったのよ。オメガなのに子供が産めないわたくしが、王妃の座にいることが許せなかったみたい。彼自身はベータだって言うからもう笑っちゃうわよね」
「そうだったのですか……」
それは公表されていない情報であった。わざと伏せられていたのかもしれない。
「トリスタンもその場にいたわね……、もしかしたらあの子が福祉の事業に興味を持ったのはわたくしが原因かもね」
「トリスタン殿下もその場に?」
初耳だ。あの背の高さに、あの美形なので、いたらすぐにわかりそうなものだ。だが、レアの記憶には一切引っかかってこない。
「ええ、貴方は覚えていないのね。だからあの子……」
王妃の言葉を遮るように、ピアノの旋律が流れて来る。
「あらもう……、静かな曲にしてって言ったのに」
軽やかな音調だ。跳ねるような音階が耳に楽しい。
その音に導かれたのか、何人かの子供が起き出してくる。
「私が見てきます」
もう少し王妃と話をしたかったが、目を擦りながら大人を探している子供たちを見ると、どうにも放っておけない気持ちになった。
あれからまた少し子供たちと遊んだ。夕刻、迎えが来て子供たちは去っていく。
トリスタンとレアも子供たちが帰っていったタイミングで王妃宮を出た。
「今日はありがとうございました」
「いいや、この前のお詫びだよ。それに僕とおかあさまの関係を知りたがっていただろう? ふたりだけの方が話しやすいかと思って途中で席を抜けたけれど、ゆっくりお話はできたのかい?」
「ええまあ、少しは」
日の暮れかけた道を歩いている。王妃宮から第六王子宮は遠い。
子供たちと全力で遊んだせいで、レアの身体は汗ばんでいた。夕刻という時間帯と汗が乾いてきたせいで、寒さを感じる。身震いし、ジャケットを羽織った。
「寒いのか?」
「汗が乾いてきたみたいですね」
「そうか、これでも着てくれ」
「悪いですよ、そんなトリスタン殿下も寒いでしょうから」
断るが、無理やり肩に水色のジャケットがかけられた。
ジャケットからはプルメリアの香りがした。今度は甘さの中に爽やかで、フレッシュな香りが混じっている。
何だか、チリ、と胸の奥が軋んだ。
ジャケットを返したくない気持ちが芽生えてくる。
(もっとお話ししてみたいな、トリスタン殿下と)
なぜそんなことをいきなり思ったのだろう。自分でもわからなかった。
レアは肩にジャケットをかけたまま歩き出す。
「僕は平気さ、中でピアノを弾いて、歌を歌っていただけなんだから。君は疲れてないかい? 最後の方は全力で子供たちを追いかけていたね」
「見ていたんですか? 恥ずかしいですね……」
「君は子供扱いが上手なんだな……、けれど大真面目な顔をして子供を捕まえているから面白かったよ」
「貴方こそ、子供たちと信頼関係が築けていました」
孤児院という特殊な環境で育った子供たちはとにかく警戒心が強い。それは周囲の環境であったり、他人に向けられたり。
不幸な背景を背負っていることが多いので、あまり何かを強く信じることができないのだ。
しかしトリスタンは子供たちにすごく懐かれていた。トリスタン、トリスタン、と呼ばれ、みんな本当に楽しそうだったのだ。
きっとそれはトリスタンが子供たちに根気よく向き合ったからこその結果だろう。
彼はレアが思っていたような軽薄な人物ではないのかもしれない。
「僕は孤児院の出身なのですが、そこで一番年長だったんですよ。だから、よく小さい子たちの相手をしていたんです。だから小さい子たちの相手は慣れているんですけれど、表情があまり顔に出ない質で……、楽しくなさそうに見えてしまいましたか?」
「いいや、表情は変わらないけれど、顔色がすぐ変わるからね。君がどう思っているのかは僕にはすぐわかる」
何だか恥ずかしいセリフだと思った。まるでレアの表情の一つ一つまで見逃さないと言っているのと同じだと感じた。
ますますジャケットを返したくなくなった。本当はトリスタンともっと話をしたい、もっと一緒にいたい、と思っていたが、レアは自分の気持ちに疎く、芽生えかけた感情に今は気が付かなかった。
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