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第3話
都の中心部からは少し離れた場所に橘の屋敷はある。
昔は多くの高名な学者を輩出し、それなりに栄えた時期もあったようだが、あまり政治的な駆け引きは上手くなく、平凡な下級貴族として、ほとんどの当主がその生涯を終えていた。
代々受け継いだその小さな屋敷の賢木の自室に、昔から橘家に仕えてくれている女性と二人、賢木は向かい合っている。
「愛仁皇太子様ですって!」
「こ、声が大きいです、安房野(あわの)」
賢木は慌てて、人差し指を口元に当てる。
素っ頓狂な声をあげた紅蓮角を持つ中年の女性は安房野という。
元は賢木の養母付きの使用人であったが、養父母を流行り病でいっぺんに亡くした後も、賢木に仕えてくれていた。
子供の頃から賢木を知っている人物だ。もちろん、賢木の身体の秘密も知っている。
「まさか、賢木様の秘めたるお美しさに気がついた皇太子様が色々と賢木様のことを探り、お身体の秘密がバレたとか……?」
「また私のことを美しいなんて、そんなことを言うのは安房野だけですよ」
賢木は苦笑する。安房野は物事を大袈裟に言う癖があるのだ。
こんな地味で目立たない賢木のことを美しいなんて言ってしまうくらいに。
「それに身体の秘密はバレていません。代筆の話を前にしたでしょう? そのことで何か興味を持たれたみたいです」
そう言うと、安房野は少しほっとした表情になった。
「以前の発情期も酷かったものですから。安房野はもう心配で、心配で仕方がないのです」
そうですね、と賢木は力なく俯き、自分の龍角に触れた。
賢木には絶対に他人には知られてはいけない秘密がある。
それは実は、賢木は透咲角の持ち主であるということであった。
普段の賢木の龍角の色は黄色だ。薄いところはあるが、特段、気にするほどの色の薄さではない。だが言い伝え通り、三月に一度、発情期がやってきて、その間だけは龍角から色が消え、透明になってしまうのだ。
それに気がついたのは精通を迎えた十三歳の時であった。同時に発情期が始まり、龍角が透明になっていた。それまでは普通の龍人と変わりなかったのに。
「安房野は亡くなった真保呂(まほろ)様、美論(みろん)様から賢木様のことをお守りするように、とおおせつかっているのです。無闇に皇族様方とお接しになるのも気が進みません……」
安房野が言った名前の前者は養父で、後者は養母だ。賢木の実の父母ではないのである。
初めての発情期を終え、体力が回復した頃、養父母から賢木は初めて、自分の出生の秘密を聞いた。
二十二年前、雷雨で外が荒んでいる夜、橘の屋敷の前で、身なりがかなり良い女性が倒れていた。門の調子が気になり、外に出た養父がたまたま見つけたのだ。そして、その女性の腕の中に生まれたばかりの赤子、賢木が抱かれていた。
養父が素性や何事かを尋ねるも、一切答えず、椿があしらわれた手鏡と赤子を託し、『この子を、賢木をどうかお願いします』と言ってすぐに走り去ってしまった。養父は追いかけたものの、雷雨や夜であることが災いし、女性を見つけることができなかった。
そして翌日、氾濫した川の下流で、身なりの良い女性の遺体が発見された。女性の遺体は流れてきた流木や岩で押しつぶされ、見るも無惨なことになってしまい、龍角も折れ、顔も確認できず、結局どこの誰かはわからなかったが、服の特徴から昨晩に赤子と手鏡を預け、去った人物だと養父は確信した。きっと橋を渡ろうとした時、雨による増水で橋が崩れ、流されてしまったのだろう。
橘夫妻には長らく子供ができなかった。もう諦めていたのだが、その女性が残した子を遠戚から養子をもらった、と周囲には言って、育てることとした、というのが賢木の本当の出生であった。
聞いた時にはそれなりに驚いたが、養父母から十分な愛情と教育を受け育ってきた賢木は、血は繋がっていなくとも、彼らが本当の父母だと思っている。
養父は、女性の身なりの良さと託した手鏡の高価さから、どこかの身分の高い姫君が許されざる恋をし、秘密裏に産み落とした子が賢木ではないか、という見解をしていた。
真実はわからない。神代からの龍神たちの血が濃い皇族から、透咲角は生まれることが多いので、実母か、実父か、どちらかが皇族に連なる者なのかもしれない、とも養父は神妙な顔をして話していた。
とにかく賢木が生まれた事情が不透明であり、下級貴族で地位も高くない橘の家では何か問題があった時や、政治的な闘争が起こった際に賢木のことを守りきることができないかもしれない。
透咲角を持つ龍人として、無理やり皇族の側室にされてしまう可能性も十分に有り得る。
そういう事態を避けるため、自分の出生や透咲角を持つことを口外してはならないことや、三月に五日ほど、発情期のせいで屋敷に籠らなければならないから、必要以上に他人と関わらずに過ごし、疑惑を持たれないようにすることを養父母と約束した。
そこから賢木の世界は狭くなった。近所の子供ともよく遊んでいたが、関係を少しずつ断っていく。結婚もこんな身体ではできないから、縁談も養父母が全て断っていた。
まだ十三という幼い情緒の中で、寂しさは膨らんでいった。養父母の仲が睦まじかったのにも、恋や愛に対する憧れに拍車をかけた。
自分は誰を愛することも、愛されることもなく、静かに孤独に死んでいく。そう思い、一人で泣いていたこともある。
が、そこから九年が経ち、もう賢木を守ってくれていた養父母もいない。賢木の秘密や出生を知っている者も安房野しかいなくなった。
「はあ、とりあえず母様が残した色紙と香紙を用意しておいてください。庭は……」
「お庭や屋敷の手入れはわたしがいつもしていますから綺麗ですよ」
「……そうでした。安房野は本当に何でもできますね。ありがとうございます」
賢木は手に持った手鏡をじっと見つめる。
丸く、手のひらぐらいの大きさで、折りたたみ式だ。裏には花びらが一枚だけ金色の椿があしらわれていて、とても美しい。
これを見ていると、心がざわつく。自分が何者なのか、なぜ透咲角を持って生まれてきたのか。
自分でも気分が落ち込んでいくのがわかる。出生がわからない、というのはやはり不安だ。 賢木の表情が暗くなっていくのを見て、サッと安房野の手が重ねられた。すると手鏡が視界から見えなくなる。
「皇太子様がいらっしゃるまで、まだ日にちはあります。それに今日はもう夜は遅いですし、寝ましょう。明日のことは明日に考えれば良いのですから」
賢木が顔を上げると心配そうな顔をした安房野と目があった。賢木の様子が沈んでいくのを見て、気遣いをしてくれたのだろう。
そういう安房野の細やかな優しい気遣いに何度救われたことだろうか。
「……そうすることにします。ありがとうございます、安房野」
そう言って賢木は力無く笑いかけた。そうすると、安房野からはとびきりの笑顔が返ってくる。
「寝室の準備はもうできております、さあお着替えをしましょう」
皇族とは関わりたくないが、強引に約束をさせられてしまったからには仕方ない。それに理由も悪いものでもない。
賢木は小さくため息をつく。しばらくすると、安房野が賢木を呼ぶ声がする。それに返事をして、賢木は立ち上がった。
賢木は桐箱の蓋を開ける。そして、中味を取り出した。
「おお、何でもあるな、この左右で色が違うものとか……、面白い、詩空が喜ぶだろう」
色紙を手に取り、目を輝かせる愛仁は子供のようだ。
「桜色のものはどうですか? 内親王様は春にお生まれになったのですよね?」
「そうだったな、だがこの薄紫も捨てがたい、香りもいい」
それは特殊な加工で花びらが練り込んである紙だ。庭からそよかな風が吹き、賢木の鼻にも、紙に練り込んである薫衣草の爽やかな香りが舞い込んでくる。
愛仁が来る日はすぐに決まった。前から薄々感じていたが、愛仁には行動力がある。
面倒臭い手続きを全て『必要ない』の一言で切り捨ててしまうらしい。今回も、『なぜ皇太子が下級貴族の屋敷なんかに?』という疑問や指摘を『友人の家に行くのに、わざわざ説明がいるのか?』と一蹴してしまったようだ。噂好きの小野から少し話を齧って聞いた。
友人という言葉にはかなり驚いた。長らく馴染みのなかった言葉だ。小野も友人には近いのかもしれないが、私的な付き合いはあの代筆の件ぐらいで、お互いの屋敷を行き来したりだとかはない。
愛仁が賢木のことを『友人』と言ったことについて、どう反応すれば良いのかわからない。何だかむず痒さを感じる。だが、悪い気はしなかった。
「薫衣草だな、それに古い技術を使った紙だろう? 香りの持ちは良いが、紙が脆い」
「知っているのですね……、意外です」
「一度、これと同じ技術を使った紙で、とある女性から文をもらったんだ。何度も見返していたら、ボロボロになって、なくなってしまったんだがな……」
「恋愛自慢なら結構ですよ!」
女性からの文なんて、恋文に決まっている。賢木が冗談めかして言うと、愛仁は目を細めて微笑んだ。
「この脆い紙はやめておこう、詩空にまた文句を言われそうだ」
結局、愛仁が選んだのは淡い青色と桃色が入り混じった色紙だった。
「これにする、文章は考えてあるから書いてくれるか?」
賢木はわかりました、と返事をして、紙を受け取ると文机に向かい、座った。すると、愛仁は賢木の横に腰を落とす。
「え、ここで?」
上座が用意してあるので、愛仁はそこに腰掛け、上から言葉を教えてもらい、口述筆記の形をとるのかと思ったが、そうではないらしい。
愛仁は文机に頬杖をつき、横から賢木を見つめている。
「別に良いだろう、お前が文を書いているところを見てみたい」
優しく微笑まれ、早く、と急かされると、どきり、とした。美形の力はすごい、と思わざる得ない。男女でも関係ない。好きでもなんでもないのに、自然と胸が跳ねてくるが、これはときめきなどではなく、単に『美形に見つめられている』という緊張だろう。
愛仁は机に肘をつき、行儀の悪い格好をしている。なのに、その気だるげな雰囲気が様になっていた。初めて訪れた屋敷で、ここまでくつろいでいるのは賢木に心を少しでも許してくれているからだろうか。
「お前の屋敷は古いけれど、味があって良いな。庭も丁寧に整備されていて、落ち着く。ボロボロなんて最初、言っていたからどんな妖屋敷なんだ、とちょっと心配していたが……」
「殿下がお住まいになられているところとは比べものにはならないでしょうに」
「そうだな……、確かに綺麗だが、どこか人工的だ。まるで『こうあるべき』と押し付けられているような……」
そう言って、言葉が萎んでいく。視線は賢木の手元を見ていた。その寂しげな表情から賢木は目が離せない。
皇太子として、何か悩むところがあるのかもしれない。だが、賢木ではその苦悩を理解してあげることや、慰めてあげることが難しいだろう。立場も、身分も、育ってきた環境も何もかもが違う。
そのことに一抹の寂しさを覚えながら、賢木は硯で墨を引く。
「さあ、内親王様への文を書きますよ!」
賢木は筆の先を墨で濡らした。もういつでも書ける。準備万端だ。
賢木の勢いに連れられたのか、愛仁は書いて欲しいことを口に出し始める。
以前、一緒に見た桜が葉桜に変わっていたこと、最近流行りの楽師の演奏会に行ったこと等々、二人での思い出を交えながら、屋敷に篭っていて外の様子がわからない詩空に、子供にもわかりやすい言葉遣いで、年頃の女の子が興味を持ちそうな話をしていく。
最後は身体が回復したら、またどこかへ遊びに行こう、という言葉で締め括られた。
暖かな、妹を思いやる心が伝わる文章になった。紙も涼やかな色合いで、もう間も無く夏に入るこの頃との季節感も、ものすごくあっている。
文の内容や紙の色、詩空の年齢等を踏まえ、賢木も代筆した。あまり難しい漢字は使わず、なるべくひらがなを使い、妹を思う兄の心が表現できるよう、工夫して、文を綴った。
「お名前はどうしますか? ご自分で書かれますか?」
「そうだな、名前くらいは自分で書こう」
場所を変わり、賢木が座っていた位置に愛仁が座る。
愛仁は自分の名前を書くと、乾かし、文の形にした。そしてそれを懐にそのまま入れようとしたので、賢木は声をかけた。
「それはただの色紙でしょう? お花を添えるのはどうですか?」
香紙と共に入れていたから多少は香りが移っているかもしれないが、それだけでは詩空の手元に届く頃に、香りは消えてしまっているだろう。
思い立った賢木は立ち上がり、縁側に立つ。
安房野が毎日手入れしている橘家の庭には初夏の花がもうたくさん咲いていた。
紫草、朝顔、夕顔、末摘花、端には芹や蓬なども生えている。
「そうだな……」
履き物を用意させ、二人で庭に出る。賢木は安房野に剪定鋏と濡れた和紙を用意させた。
「紙の色合いが派手だからこの紫草なんかどうだ? けばけばしい雰囲気もなくて、詩空も喜びそうだ」
紫草は白い花を咲かせている。確かにきつい色の朝顔なんかよりも、こちらの方が映えるかもしれない。
「良いですね……、これにしましょう」
剪定鋏を使い、花の根本を少し長めに切る。そして、切断面に濡れた和紙を当てがった。
「花が枯れないよう、今日にでも渡そう」
そう言って、愛仁は濡れた和紙で包んだ部分が紙には当たらないようにして、文に花を差し込んだ。
「実は午後から予定がある。各所との調整をしてるんだが、みんな勝手なことばかり言って……。お前と少しでも話せて良かった。気分転換にもなったよ、ありがとう」
「いえ、毎日、お勤めご苦労様です。詩空内親王様が喜んでくださると良いのですが……」
皇太子という身分だ。本当に忙しい時は分刻みで予定が決まっていると聞く。
今日も妹である詩空のため、隙間時間を縫って橘の屋敷まで足を運んだのだろう。
家族を大切にする人のことは好ましく思う。
賢木も養父母に愛されて育った。また養父母もお互いを大切に思い合い、言葉には出さないものの、愛しあっていることがよくわかった。
賢木は愛仁に優しく微笑みかける。
「内親王様のご病気もきっとすぐに良くなりますよ」
「そうだと良いな、今日は詩空のためにありがとう、橘」
風が吹き、安房野がいつも手入れしている花々がかすかに揺れる。
愛仁に笑いかけられると、やはりまた心臓が不規則に跳ね出し、賢木は少し困ってしまった。
目の前の愛仁は少し怒っているようにも見える。賢木は俯き、小さな声で言い訳を並べた。
「そんな……、詩空内親王様ご快癒の宴なんて、私が行くなんて場違いでしょう……、聞けば招待されている方々には名だたる名家の貴公子たちも含まれているではないですか、下級貴族で地味な私が行っても、宴のお邪魔になるだけでしょうに……」
「詩空たっての願いなんだ、この前のことを話したら大層喜んでくれてな、お前に会いたいらしい」
「けれど……」
未練がましく、否定の言葉を紡ごうとするが、本当の理由が恥ずかしくて言えず、賢木は顔を真っ赤にして黙り込んでしまった。
詩空への手紙を代筆した後、愛仁から礼の言葉が書かれた文が届いていた。そしてその中に詩空が賢木に会いたいと言っている、といった旨が書いてあったのだ。もちろん、社交辞令だろうと思い、お身体がご回復なされ、機会があれば、と返事をしていたのだが、まさか本当に、宴に招待されるとは思わなかった。
だから、やんわりと断りの文を書いたら、愛仁が橘の屋敷にとんできたのだ。
賢木が行きたくない理由は二つある。宮中で目立ちたくないからだ。けれどもうこれは皇太子である愛仁と関わっているから、すでに意味をなしていないだろう。『美筆の橘』と噂になっている。なのでこの理由を言うと、すぐに言い返されてしまうに違いない。
もう一つ、これが宴には行きたくない一番の大きな理由だ。
「その……、き、着ていく衣服が……、なくて……」
恥ずかしくて、情けなくて、とうとう賢木は俯いてしまった。
儀礼用に着ていく物はあるが、今回の宴はそのようなかしこまったものではない。
もちろん、何人かの皇族方も参加するが、私用で着ていくような、幾分軽い格好で良いのだ。
職場では基本的に養父からのお下がりの古い服をずっと着ている。そろそろ新しくした方がいい、と安房野から言われていたが、どうせ偉い人には会わないのだから、とそのままそれを着ていた。特にシワやシミが目立っているわけでもないし、擦り切れているところもない。ただ意匠が古く、煌びやかな宴には絶対に着ていくことはできないだろう。
それに新しく服を調達するにも、宴の日にちは迫っていて、時間がないし、橘家の家計状況もそこまで余裕のあるものではなかった。
服がないから宴に行けない、なんて流石に十二歳の少女への文には書けず、最もらしい言い訳を並べたてたのだが、まさか愛仁が来るとは思わなかった。
(は、恥ずかしい……、こんなことならちょっとでも我慢して金子をためて、服を仕立てればよかった……)
案の定、愛仁は大きなため息をついている。きっと呆れているのだろう。だが、皇族の経済状況と、賢木たち下級貴族の経済状況を同じにしてもらっては困る。
「そんなことで、出席を渋っていたのか……、長ったらしく、それらしい言い訳が並べ立ててあったからおかしいと思ったんだ、お前らしくない、とな」
「はい……」
愛仁は文の内容の違和感に気づいていたらしい。賢木はますます頭を項垂れさせてしまう。
すると、愛仁から思いがけない言葉が放たれた。
「服ぐらい、俺が見繕ってやる」
「え、は……、ちょっと」
「嫌とは言わせないぞ、服さえあれば出席するんだろう」
「そんな、だめです、そこまでお世話になるわけにはいきませんっ!」
賢木は慌てていて、思わず身を乗り出してしまった。
「確かにお前の服はいつも地味だ、と感じていたんだ。一昔前に流行った意匠だろう? でもそういう昔のものや、奥ゆかしいものが好きなのかと思っていたんだが違ったんだな」
「これは元々、父のものなのです……」
「そうか、大切に着ているんだな……」
そういう言われ方をすると、何とも言えない。何と応えれば良いかわからず、賢木は小さく頭を縦に振った。
「とにかく詩空の宴には出席しろ、詩空には俺が言っておくから心配するな」
けれど良いのだろうか。身分の低い賢木が皇太子である愛仁に服まで用意させるなんて、他の貴族が聞いたら、愛仁の評判まで悪くならないだろうか。
「くだらないことを考えるなよ、お前が来なかったら詩空が悲しむんだ」
「……わかりました」
考えを見透かされているようで、何だか決まりが悪い。
それに詩空を盾にされてしまうと、賢木も強くは断ることができない。
「俺に任せておけ、会場の誰にも負けない貴公子にしてやるからな」
「いや、そこまでは望んでおりません! 目立ちたくないので!」
「この俺とこうやって関わっている時点で、もう遅い」
にやり、と愛仁が意地悪そうな微笑みを賢木に向ける。
「お前は俺の友人だ、下級貴族であろうとも、それらしくあってもらわねばな!」
『友人』という言葉にどきり、としてしまう。噂で賢木のことをそう言っていた、と聞いていたが、本人からは初めて聞いた。
(あぁ、皇太子殿下は本当に私のことを友人だと思ってくださっているのですね……)
やっぱり嬉しくて、どこか、こそばゆい。けれど絶対に舞い上がって、勘違いしてはならないことはわかっている。
芙蓉の花と形容されるほどの美貌を持つ母から生まれ、龍帝からは男性らしい強さを受け継いだ華やかな愛仁と、出生不明で見た目は地味、身体に秘密を抱えた賢木ではやはりどうあっても釣り合いはしないだろう。
やっぱり愛仁は強引だと思った。けれども、権力をカサに着て、威張り散らすやり方ではなく、さりげなく相手を自分のやりたい方へと誘導し、突然勝手に物事を決める。
(いや、十分強引なお方ですね……)
けれども、その強引さが不快ではないことに賢木は気がつく。
困惑はしてしまうが、初対面の時のようにキッパリと否定してしまおうとは思えない。
(これは内親王様のため……)
賢木は自分に言い聞かせた。
会ったことはないが、あまり強く否定すると、彼女を傷つけてしまう可能性もある。
「……今回は、詩空内親王様のため、お言葉に甘えさせて頂きます」
そう言うのが精一杯で、賢木は深々と頭を下げた。
宴の前日まで何の音沙汰もなく、突然前日の夕方ごろに『迎えの牛車を明日の朝に寄越すから乗るように』という旨が書かれた文が届けられた。
そして翌朝の少し早い頃に迎えが来た。下級貴族の橘家の屋敷にあるには目立つくらいの豪華さで、賢木も安房野も見た瞬間、ぎょっとしてしまった。
(目立たないように、と言っておいたのに!)
しかし用意してもらっている手前、文句を言うわけにはいかない。近所の視線を集める前に賢木はさっと牛車に乗り込もうとした時であった。
「なんだ? その手に持っているものは?」
「な、殿下!」
「おいおい、何で出て行こうとするんだ」
咄嗟に身体が引いてしまい、腕を取られてしまう。愛仁よりも身体の小さい賢木は力に逆らえず、強引に中へのせられてしまった。
「な、なぜこの中に?」
「なぜって、普通にしてたら東宮にお前は入れないだろう」
「と、東宮⁉︎」
東宮といえば、愛仁が住まいとしている屋敷群の通称だ。もちろん帝居の中にあり、下級貴族の賢木は簡単に入ることができない。
「そんな、東宮なんて……、恐れ多くて……」
言葉が出ない。そんなところで服を見繕ってもらうなんて聞いていなかった。適当な場所を借りて、あれこれ着替えさせられるものだとばかり思っていたのに。
「良いだろう? 別の場所を借りるだとかは面倒臭い。服もそこに運んであるしな、それに詩空のところへも俺の屋敷から行った方が断然近いから」
「効率を考えれば、そうなのでしょうけれど……」
安房野が聞いたら、今度こそ発狂しそうだ。賢木は頭を抱える。
(皇太子として型通りに生きなければいけないという生きづらさを感じていらっしゃるのかと思っていましたけれど、案外そうでもないような……)
愛仁は、割と自由に生きている気がする。ふう、とため息をつき、目線を上げると、愛仁は賢木の手元を見ていた。
「で、その花はなんだ?」
賢木が手に持っているのは、花が生けられた花瓶だ。
橘の屋敷には養母の趣味で、季節外れの植物を育てるための温室がある。養母亡き今は安房野が管理をしているものだ。
宴の手土産として、賢木では高価なものを贈ることができない。なので温室の中から花を選び、透明な花瓶に活けたのだ。
詩空は、春生まれの瑞雲角だと聞いている。それに龍角の先が薄い赤色だとか。
なので、淡い赤色の大きな花を主としてその周りを小さな白い花で飾り、アクセントとして空色の花を散りばめた。
「内親王様のご快癒の手土産です。せっかく、ご招待を頂きましたけれど、私は高価なものをお贈りすることができません。せめてものお気持ちとしてこれをお贈りしようと思ったのです」
所々に散りばめた青い花は愛仁を思い描いた、と言ったらどう思うだろうか。大輪の淡い赤色の花は詩空、白色は彼女の瑞雲角を表し、それを見守るものとして、青い花、つまり愛仁を活けたのだ。
「よくできているな……、詩空も、まあ喜ぶだろう」
「……そうだと良いですね」
会話は終わりかと思ったが、愛仁はまだじっと花瓶を見ている。
「何か……」
ありましたか、と聞こうとして、賢木は、はっと口を噤んだ。
(殿下へのお礼のものを忘れていました!)
迎えにも来てもらい、衣服も用意してもらっているのにお礼の品ひとつ用意していないなんて、何という失態だろう。
とにかく賢木も、安房野も、詩空の宴のことで頭がいっぱいだった。懸念はあるものの、衣服の心配はなくなり、どう振る舞えば良いのか、誰に挨拶をするべきなのか等々、考えることがたくさんあったのだ。
招待される客の中には賢木がおそらく一生関わらない可能性が高い身分の方々も含まれている。そんな中で自分はどう振る舞えば良いのか、頭を悩ませていた。
なので、すっかり愛仁のことは頭になかった。衣服を用意してくれるのだから、もちろん愛仁にもお礼をするべきであったのに。
「殿下……、その」
「俺も、お前が選んだ花が欲しい」
愛仁は、ほお杖をつき、牛車の小窓から外を見ている。小窓からはゆっくりと風景が流れているのが見えた。
そして、愛仁の正面を向いている耳が赤くなっているのを、賢木は目敏く見つけてしまう。
(もしかして……、拗ねていらっしゃる?)
賢木にとっては意外な姿だ。忘れていた賢木が一番悪いとは思うが、『じゃあ後でお前の屋敷へ行って、何かもらうことにする』だとか言いそうなのに、目も合わせず、口元をきゅっと上げた横顔は少し子供っぽく見えた。
賢木はもう一度、手に持った花瓶を見る。そして白色の花を一つ抜き去った。
そして花瓶を前へ出し、愛仁に見せる。
「この青色のお花は、殿下を思い描いたものなんです。桃色のお花は詩空内親王様を、白い小さいお花は瑞雲角を、そして彼女を見守るように殿下の青雨角に似せた花をところどころに散りばめました」
「そうなのか」
愛仁がようやくこちらを向いた。少し目が見開かれている。
賢木は愛仁が正面を向いた隙に素早く、彼の耳の上に小さな白い色の花を差し込んだ。
「ああ、やっぱりぴったりですね」
思わず笑みを溢す。真っ青な龍角に白い花がよく映えている。
賢木は初めて愛仁を見た時のことを思い出した。
真っ青な龍角と真っ白な雲。対照的なそれはとても美しくて、遠くからでも貴人のオーラに圧倒されてしまった。
「美しいですよ、やはり殿下の真っ青な龍角には白がとてもお似合いです」
「青色の花はくれないのか?」
「これはダメです。内親王様を見守る殿下が減ってしまったら、誰がこの花を守るのですか」
そう言って指先で桃色の花を揺らした。すると、愛仁は複雑そうな表情をしたので、賢木は少しだけ引け目を感じた。
(意地悪なことを言ってしまったのかもしれません……、今度、文が来た時はこの花を差して渡しましょう)
そんなことを思っていると、愛仁が指先で耳に差し込まれた白い花を弄んだ。
「なあ、『殿下』という呼び方、そろそろやめないか?」
「へ?」
いきなり何を言い出すのだろう。突拍子もない言葉に賢木は困惑した。
「俺も橘と呼ぶのはやめる。お互いの屋敷も行き来する仲なのに、他人行儀すぎるだろう」
「で、殿下は私のことを何と呼んでも構いません。しかし私は、どうすれば……」
「愛仁で良い」
貴人を呼び捨てにすることなどできない。
賢木は目が泳いだ。どうすれば良いのかわからない。
固まってしまった賢木を見て、また愛仁は横を向き、小窓から外を眺め始めた。
「まあ……、強制するものでもないからな。すまない、困らせてしまって」
先ほどとは違って、拗ねたような表情ではない。だが物悲しそうな雰囲気が伝わってきて、賢木はじっとその横顔に惹かれてしまった。
何だろう。違和感を覚えた。いつもならもっと強引にくるのではないだろうか。
なぜそんなに表情が固いのだろう。そんな顔をされたら、賢木は困ってしまう。
賢木はおずおずと口を開けた。
「ち、愛仁……、様」
貴人を敬称もつけずに呼ぶなんて、何だか悪いことをしているような気持ちだ。
言葉を聞いた愛仁がすぐに賢木の方を向いた。いつもの空色の瞳が少し濃くなっている。
小さく囁くようにつぶやいたはずなのに、愛仁にはばっちり聞こえていたようだ。
心臓が不規則に鼓動を打っている。賢木は自分がなぜこんなにも緊張しているのかよくわからなかった。愛仁にお願いされたから、名前で敬称もつけずに呼んだだけだ。
「これからはそう呼んでくれ……、賢木」
嬉しさを隠すことなく、愛仁は賢木を名前で呼び、耳に差し込まれた花を抜き去った。そして口角を上げ、花を見つめている。
もう慣れたと思っていた、愛仁の甘い香がまた鼻に流れ込んできた。密室のため、空気の逃げ場がなく、賢木はまるで自分までその香りになってしまうかのような錯覚を覚え、身体が熱くなってしまった。
詩空快癒の宴は正午から始まる。賢木は東宮の一室に案内されると、目まぐるしく着替えが始まった。
朝から着ていた衣服は東宮に仕える女房たちに脱がされてしまった。そして、ああでもない、こうでもない、と言われながら、沢山の衣服に着替えさせられる。最初こそは緊張で、疲れなど感じる暇なんかなかったのだが、何十着も取っ替え引っ替えしていると、まだなのか、という徒労感が出てくる。
(もうなんでもいい……、早く終わってほしいです……)
彼女たちは互いにこだわりが強い。賢木の髪につける装飾品で喧嘩をし始めた時はもうどうしようか、と途方に暮れた。
その間、愛仁はその場にはいなかった。『着替えさせ終えたら連絡をしてくれ』と言って、どこかへ行ってしまったのだ。
本来なら入ってはいけない場所に、知らない人と置いていかれるのは不安だ。女房二人に怒られたり、馬鹿にされたりはしないだろうか、と思ったが、彼女たちは賢木の身分なんか気にした様子もなかった。
「これでよろしいですわね」
「大層、美しい貴公子ですこと! これで詩空内親王様のお心もばっちり射止められるわよ!」
いや、射止めなくて良い。そういうつもりで宴に来た訳ではないのだから。
心の中で突っ込みを入れた。もう口に出す元気はとうになかった。
「お時間が迫っていますわよ」
「殿下にお知らせするわ! これはなかなかの出来よ〜! 殿下並みに美しい容姿の龍人なんて滅多にいませんからね! 腕が鳴ったわ!」
おしゃべりな方の女房が廊下で待機している侍従に話しかけている。
(始まる前からこんなに疲れているなんて……、どうなってしまうのでしょう……)
鏡を見る元気もなく、その場にへたり込んでしまった。
「橘様、お迎えが来ましたわよ」
「殿下も気合が入っているみたいね! さあさ、どうぞ! 殿下!」
「もう入っても良いのか?」
愛仁の声がし、賢木は慌てて立ち上がる。
そして、愛仁の姿を見て、僅かに目を見開き、動けなくなってしまった。
部屋に入ってきた愛仁の出立ちは気品溢れる貴公子としか言いようがなく、言葉を失ってしまう。
上衣に白色、中は淡い空色を合わせ、下衣は上衣の白色と合わせたものを履いている。また白色の下衣には透かしで、鶯があしらわれていた。
頭の上には透かしと同じく鶯の髪飾りで、一つにまとめられているが、がっちりと固められている訳ではなく、適度に遊び髪が垂れている。
鶯は皇太子しか使えない由緒ある紋様だ。
格式張った宴ではない、と思っていたのだが、もしかして賢木の認識は甘かったのだろうか。
思わず生唾を飲み込む。いつも愛仁のことは美丈夫だとは思っていたが、今日はいつも以上だ。
性的な魅力に溢れているとはこういうことを言うのだろう。
賢木は呆気に取られているが、衣服を着替えさせてくれた女房たちに動揺したところはない。見慣れているのかもしれない。
(これはかなりモテるでしょうね……)
目が合うと、顔が熱くなってくる。自分は今からこの人と一緒に宴へ行かなければならない。地味な賢木が隣にいて、大丈夫なのだろうか。見劣りしないだろうか。
しかしその不安は愛仁からの言葉で少し和らいだ。
「綺麗だ」
そう言って、愛仁が近づいてくる。頬に手を差し入れられ、大きな掌の温かさを感じた
(ふ、触れられた……)
こうして、誰かに身体に触れられた経験などない。身体が熱くなってくる。いつもより濃い香の香りがした。
「髪飾りは昼顔か、淡い黄色が龍角とよく似合っている」
どうやら、愛仁は賢木の髪飾りが見たかったらしい。今、賢木の髪型は、半分はおろし、半分はまとめられている。髪飾りを確認すると、愛仁は賢木から離れ、全体を確認する。
「花山吹、か。いつもよりかは派手だな。とても良い。宴にふさわしいな」
そう言われ、賢木は大きな姿見で、自分の姿を確認する。
黄色と淡い朱色を合わせた衣服は確かにいつもより派手だ。だが古くからある伝統的な色の合わせなので、奇を衒った雰囲気もなく、自分にとてもあっていると感じる。
また淡い朱色が大きく目立っているので、顔が華やかに見えた。
けれども、元が地味なのだ。これは生まれ持ったものなので変えようがない。
賢木は不安になり、愛仁をおずおずと見上げる。
「大丈夫ですか……? 私……、愛仁様の、お側にいて……、ご迷惑にはなりませんか?」
「なるわけないだろう、こんなに美しいのに」
その言葉に驚き、賢木は固まってしまう。
(い、衣装が、ってことですよね……?)
変な風に意味をとってしまいそうで、思わず衣装にすべすべ、と触れた。
手触りだけでもわかる。用意されていたものはどれも一流の物だ。それに東宮で働く意匠担当の女房を二人つけて、美しくならない方がおかしい。
それだけだ。そういう意味での『美しい』だ。
言い切られてしまうと、もしかして、なんて希望が生まれてくるからタチが悪い。
賢木は首を横に振り、変な希望を断とうとする。
「時間がなくなってきた。もう行く。長鳥丸(ながどりまる)、
菊織枝(きくおりえだ)、ありがとう」
「いいえ、殿下のご指示に従ったまでですわよ」
「久方ぶりに腕が鳴ったわ! こんなに変身しがいのあるお方ならまた連れてきてもらいたいぐらいですわね! 私たちの着せ替え人形になってほしいわ!」
もう着せ替え人形は勘弁してほしい。今日で十分堪能した。
愛仁に促され、賢木は部屋の外に出る。
「あの、ありがとうございました」
二人に御礼を言い、賢木は愛仁の後をついていく。
まだ豪華な衣服に着られている感じがして、賢木は自信がない。目線も俯きがちになってしまう。しかし目の前にはいつも以上に気品ある佇まいをした愛仁だ。
(ここで私がおどおどした振る舞いをすれば愛仁様にもご迷惑がかかってしまうかもしれません)
目の前を歩く愛仁の背中は広くて、大きく、男らしい。
賢木はすっと背筋を伸ばす。愛仁ほど上背はないし、身体もがっちりはしていないが、その愛仁と共にいて、遜色ないようにだけはなっておきたい。
賢木は顎を引き、愛仁の堂々とした振る舞いを真似た。
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