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第4話

愛仁に伴われ、賢木が牛車から降りた時、周りがざわついた。  サッと頬に朱がさす。恥ずかしい。みんな下級貴族の橘家の賢木がこの場にいることや、皇太子である愛仁に伴われて、現れたことに疑問を持っているのだろう。 (あぁ、縮こまって、身を隠してしまいたいです……)  けれども愛仁が側にいるのだ。そんなことをして、迷惑をかけるわけにはいかない。  賢木は縮こまりそうになった背をすっと伸ばす。そして堂々と、廊下を歩いていく。  外は日が照っており、暑いとのことで、会場は中だ。  賢木は周りを見てみる。顔ぶれは中級貴族の次男や三男などが多い気がした。  招待者は詩空の母親の家柄に合わせたのだろう。上級貴族の姿もあるが、詩空の母親の実家と関わりがある家の者たちだろう、と予想した。  それにしても若い人が多い。もしかして、詩空の婿探し、嫁探しも兼ねているのだろうか。  煌安帝国では女性同士、男性同士で結婚をすることも珍しくはない。結婚は家同士の結びつきという面が強いからであった。  会場に着き、賢木がまずしなければならないことは挨拶だ。詩空の母親に挨拶をしなければいけない。主催は詩空でも、取り仕切っているのは、詩空の母親だからである。  しかし会ったこともなく、顔がわからない。  賢木は愛仁に小さく話しかけた。 「あの愛仁様、内親王様のお母様にご挨拶をしたいのですが……、わ!」  腰あたりに何か抱きついている。驚いた賢木は、愛仁の耳元で大きな声を出してしまった。 「貴方が『美筆の橘』ね!」  腰の横から小さな顔が見える。髪は短く、三つ編みが顔の横で揺れていた。 「こら、詩空、はしたない真似をするんじゃない」  すかさず愛仁が注意をすると、少女は笑いながら賢木の腰から離れる。  そして、小さな頭をちょこん、と下げた。 「この前は素敵なお手紙をありがとうございました!」 「あぁ、貴方様が詩空内親王様ですか!」  賢木は彼女の背に合わせ、腰を落とした。  くりくりとした大きな瞳は赤みがかっている。まだ小さい龍角には赤い花が散りばめられていた。  紹介されなくともわかった。賢木の腰に抱きついたのは詩空だ。 「これは橘様、ようこそおいでくださいました」  詩空と話をしようとすると、その後ろから長い緋色の上衣を引き摺りながら歩いてくる紅蓮角の女性に声を掛けられる。後ろには彼女と同じく紅蓮角の女御たちが四人ほど続いていた。  笑みを浮かべており、美しい顔立ちだが、神経質そうだ。賢木を値踏みするような目線を向けている。後に続く四人の女御たちも同じような雰囲気だ。 「初めまして、橘賢木と申します。この度はこのような場にお招きいただきありがとうございます。こちら、内親王様ご快癒の記念にと思いまして、作って参りました。どうぞ」  詩空の母の侍女の一人が、賢木が渡した花瓶を受け取る。  詩空の母はそれを一瞥だけした。 「ありがとうございます。お綺麗な生花ですわね。詩空の寝室にでも飾りましょう。本日はごゆっくりお楽しみくださいませ。殿下もどうぞ、よろしくお願いいたします」  花瓶を持った侍女はそのまま下がってしまった。 (あれ、本当は内親王様ご本人にお見せしたかったのですが……)  詩空がよく見る前に持って行かれてしまった。残念だ。  そして、賢木は自分が詩空の母から、あまり歓迎されていないことを雰囲気で感じ取った。 (やはり内親王様の結婚相手探しも兼ねているのでしょう……、下級貴族の橘では役不足だとお思いなのでしょうね……)  良家の女性は十二、三歳で結婚相手を決めることが多い。詩空も結婚適齢期と言っても過言ではないだろう。  詩空の母は賢木が詩空と結婚し、玉の輿を狙っている、とでも思っているのだろうか。  賢木は誰とも結婚するつもりはないから安心してほしい。それに十以上も年の離れた詩空とどうこうなるつもりなども全くないのだから。 「詩空、お母様は皆様にご挨拶をしてきます。殿下から離れないよう、そしてあまりはしゃぎすぎないようにするのですよ。また咳が酷くなったら困りますから」  そう言って、愛仁、賢木、詩空に背を向け、別の貴族に近づいていく。今度は愛想を振りまいているようで、笑顔が見えた、 「お母様ね、ちょっと最近ピリピリしているの。昨日も怒られちゃって……、だから離れたところでお話がしたいわ」  詩空は母を見ながら、愛仁の袖を引っ張った。 「そうだな、あそこへ行こう。あそこなら狂い咲きの桜がいつでも見られるだろう?」 「橘様もご一緒にね」  不安そうな詩空に愛仁が優しく声をかける。 詩空の小さな手が賢木の手を握った。愛仁と賢木はそれぞれ詩空を真ん中にして、手を握り、宴の喧騒からは少し離れた場所へと向かった。  内親王と手を繋ぎ、皇太子と共に歩く下級貴族の賢木。  会場でもかなり目立っているのを感じる。たくさんの視線が向けられ、ひそひそ、と話をされていた。 (仕方ない……、今日は……)  賢木は極力周りを見ないようにして、二人についていく。  着いた先は屋敷と屋敷を繋ぐ渡り廊下だ。側に塀が立てられているので、ちょうど影になっており、風が吹くと涼しい。もう三人分の座布団が用意されていた。  その真正面には初夏にも関わらず、見事な桜が花を咲かせていた。 「曙山の裾野で咲いていたのをお兄様が見つけて、ここまで持ってきてくださったの! あの時は嬉しかった、もう桜なんて見れないと思っていたから……」  強い日差しに照らされた桜は何だかアンバランスなような気もする。だが、詩空は気にした様子はない。 「ここからだといつもお前が寝ている部屋からも見られるだろう? 来年の春は南の地方の千本桜を見に行こう」 「行きたい! 珍しい花もたくさん見たいわ!」  話をしていると、いつの間にか、冷たい飲み物が出てきた。  こうして、二人を見ていると、愛仁が詩空を気にかけているのが良くわかった。腹違い、母親同士やその実家との対立など、何かと殺伐としがちな皇族の兄妹だが、二人はそんな気配など微塵も感じさせない。  詩空の母は賢木にも、皇太子である愛仁にもそっけなかったが、二人の仲はとても良く見える。  愛仁と詩空が飲み物に口をつけたのを見て、賢木も出されたものを飲んだ。冷たいほうじ茶だ。仄かに甘い。  賢木は、愛仁と詩空、二人の仲の良い姿を見て、思わず微笑んでしまった。 「ねえ、その時は橘様も一緒に行きましょうよ!」 「え! 私もですか!」  てっきり二人で遊びに行くのかと思っていた。まさかそこに自分の名前が出てくるとは思わず、賢木は驚く。 「千本桜を見て、何か詠んでいただきたいの。和歌はできるでしょう?」 「一通り習ってはおりますが、人並みですよ、内親王様。私の知り合いにとても優れた和歌を歌う者がおります。その者を連れていきましょうか?」 「いいわね! 人数が多いほど、遠出は楽しいもの!」 「こらこら、あまり大きな声を出すと、また咳き込むぞ。蜜はあるか、詩空の喉が掠れてきた」  愛仁の言葉の後、侍女によって、すぐに蜜が届けられた。しかし詩空は出されたそれを不満そうな顔をして舐める。 「また、お兄様はわたしを病人扱いして……、これくらい何ともないわ」 「咳が酷くなると、どこにもいけないだろう。ほら口を開けて、もっと舐めなさい」 「はーい」  愛仁の指示に従い、詩空は大きな口を開け、掬われた蜜を飲み込む。  その仲睦まじい様子に賢木は、最初に覚えていた緊張が解けていくのを感じた。  明るく朗らかだが、ところどころ少女らしい我儘さを見せる、可愛らしい詩空に、それを嗜めながらも、優しい眼差しで彼女を守ろうとしている愛仁。  詩空のことを大切に思っていることは代筆を頼まれた時から知っていたが、実際に二人の様子を見ていると、とても心が温かくなってくる。  何より愛仁が詩空に向ける眼差しがとても優しくて、慈愛に満ちていた。賢木も自然と優しい眼差しになっていく。  牛車の中で見せた拗ねた表情、照れたような赤い耳、『俺も花がほしかった』と言って見せた物悲しい横顔、妹を思う暖かな眼差し。  思い出していくと、頬に熱が集まってくる。  彼のどんな表情を見ても、賢木は何だか奇妙な気持ちを覚えるのだ。拗ねていたら優しく構ってあげたくなるし、優しげな表情をしていると、こちらまで心が温かくなる。強引だなあ、と思うことはあっても、もう不快には感じない。緊張はしてしまうが。 (何だろう……、これは)  こんな気持ちは初めてだった。安房野や、亡くなった養父母に感じる気持ちとはまた違う。 (愛おしい……?)  ずっと触れないでいたことに触れてしまいそうになった瞬間、賢木は詩空に話しかけられた。 「そういえばね、橘様、お兄様は橘様のことをよくお話しになるのよ」 「ん? 私のことですか?」  思考が遮られ、賢木は現実に戻る。詩空の無垢な瞳と目があった。 「そうよ、以前、代筆をしてくださったでしょう? あれを二人で見返している時にね、橘様はとても丁寧な性格をしていて、字を書いている横顔がとても美しいっておっしゃるのよ!」 「ちょっと詩空、やめろ、すごく恥ずかしい」 「なのに燃え上がるような恋愛を夢見ていて、その差がとても面白くて、でもその必死さが愛おしいんですって」 「いや、待ってくれ、そこまでは言ってないだろう」  そんなことを詩空には言っていたのか。意外すぎて、思わずきょとんとした顔を愛仁に向けてしまう。  愛仁の顔は真っ赤になっていた。 「あら? でもお兄様の顔はそう語っていたわ」  詩空は一体、愛仁との会話で何を感じ取ったのだろう。  賢木の心臓が早鐘を打ち始める。『愛おしい』にも様々な種類がある。 (私のこの気持ちも、もしかして……)  愛仁は手で顔を仰いだ。そしてやや大きな声を出した。 「賢木は大切な友人なんだ、俺に大切なことを考えるきっかけをくれた。友人として愛おしいんだよ」 「本当かしら?」  詩空はくすくす、と笑っているが、賢木は何だかざわざわした気持ちが心に広がっていくのを感じた。  愛仁に『友人』と呼ばれ、嬉しく思っていたはずなのに、それだけでは何か満足できない気持ちを覚える。  ただ、なぜこんな気持ちになるのかはよくわからない。 (友人……、でしょう? それだけでも私にとっては奇跡で、とても嬉しくて……)  例え一時でも、皇太子である愛仁と知り合えて、楽しい気分にさせてくれた。それだけで今の賢木なら十分なはずだ。  孤独な夜も、きっとこの時のことを思い返したら、気分は慰められるだろう。  自分は一体、これ以上、何を期待しているのだろうか。なぜこんなにも心が騒がしいのだろう。本当にこんな気持ちになる意味も、理由も、わからなくて、賢木は目元を陰らせる。 「うふふ、今後に期待」  詩空は悪戯っぽく笑う。何に期待なのかはよくわからなかった。だが、これ以上は何も考える気が起きず、賢木は用意されていたほうじ茶を疑問、脱力感と共に飲み干した。  愛仁は顔の赤さが引いたのに、まだ執拗に手で顔を仰いでいる。 「詩空、ここにいたのですか」  神経質そうな声が上から振ってきた。詩空の母だ。賢木は思わず立ち上がる。 「もう少ししたら、安巻門院(あんかんもんいん)様の次男がいらっしゃいます。また呼びにきますから、口の蜜の汚れを拭っておくように」  それだけ言うと、詩空の返事も聞かず、すぐにさっとまた会場へと戻ってしまう。立ち上がった賢木には目もくれなかった。 「……まだお母様、機嫌が悪そう。まあ仕方ないんだけど」  先ほどとは打って変わり、詩空は複雑そうな表情をしている。  賢木は詩空の表情に不安を覚えた。先ほどまで楽しくお話をしていたのに、歌空は母親が来ると、顔を曇らせてしまう。 「何か……、あったのですか?」  賢木がそう聞くと、詩空はちらり、と愛仁を見た。二人は目線で何か会話をする。その後、詩空は賢木の方へ顔を向けた。 「今年は梅雨なのに、雨が降らないでしょう……? だからわたしの身体の調子が悪かったり、作物が取れずに苦しんでいる地域があったりと、様々な良くないことが起こっているのを橘様はご存じかしら?」 「ええ、存じております。私の勤めているところは文書や通達を書き写し、然るべき部署へと配布するところですから、全国の様々な情報が集まってくるのですよ」  雨が降らず、作物が実らないため、その地方の税収を下げる通達を書いたし、疫病が流行っている地方や水を巡り、争いがあった地域もあった。 「だからね、『斎宮』を復活させて、この事態を収めようとする案が裏で出されたのよ」 「斎宮? 聞いたことがあるような、ないような……」  賢木は顎に手を当て、考えこむ。  どこかで読んだ覚えがある気がするが、詳しくは思い出せない。何か国に凶事が起こった際に置く役職のようなものであった気がする。 「まあ、今回のは生贄だな」  詩空に代わり、愛仁が説明をしてくれる。 「大昔、龍人は何か不思議な力を持っていた。どんなものにも花を咲かせることができる能力とか、天気を変えることができる能力とか、未来を予知するだとか、火を操ったり、雷を自在に落としたりだとか。特に透咲角を持つ龍人はそういう力が強くて、国に何か凶事が起こった際に力を使って、数々の困難を解決してきたんだ」 「けれど今はそんな不思議な力を持つ龍人も、透咲角の龍人もいませんよね……?」  透咲角を持つ龍人はここにいるが、賢木は何でもないように嘘をつく。なぜか少しだけ心が痛んだ。 「だから生贄なんだ」  ふう、愛仁がため息をつく。桜の花びらを含んだ風が三人のいるところに吹き込んできた。 「透咲角を持つ龍人なんてここ百年は生まれていない。だから未婚の内親王を斎宮として立て、生贄として龍庵湖に捧げれば良いのでは、と裏で言われているんだ」  愛仁の言葉に賢木はぎくりとした。 (もし、透咲角であることがみなにバレれば、私は生贄として龍庵湖に沈められてしまうのですか……)  平静を装うとしたが、顔から血の気が引いてしまう。 「わたしは病弱だし、あんまり皇族の中でも大切にされている方ではないから、斎宮に選ばれるのではないかと思って、お母様は怖がっているのよ……」  宮中では何でも身分がものを言い、幅を利かせる。詩空の母親は龍帝の他の愛妾に比べると、劣るのは事実だろう。 「今日ね、絶対に夫か妻を見つけなさいって言われてるの。何が何でも結婚相手を選びなさいって。既婚なら斎宮候補からは外れるから」 「詩空、慌てなくていい。まだ噂の段階だ。それに斎宮なんていう生贄を使わなくとも、どうにかする方法を探しているから。俺に任せておけ」 「そうだと良いけれど……」  詩空の表情がまた陰る。賢木は何と声を掛ければ良いのかわからず、じっと黙った。二人の方を見ることはできず、何も入っていない湯呑みを見つめてしまった。  自分が本当は透咲角の持ち主だと明かせば、詩空は斎宮候補からは外れるだろうか。けれど、そうすれば自分が斎宮として死ぬ羽目になるかもしれない。 「まあお兄様が何とかしてくれるでしょう! 生贄なんてねえ、今の時勢に合わないでしょうし、それにわたしがここでお婿様かお嫁様を決めれば安心よね!」  詩空は暗くなった空気を変えるためか、わざとみたいに明るく、大きな声を出す。するとすぐに咳き込んでしまった。また愛仁が蜜を掬い、詩空に舐めさせる。 「斎宮を復活させるなんてただの噂だ、あんなの迷信に決まってるだろ。湖に龍人を沈めたとして、雨なんか降るわけがない」  まだ詩空が苦しそうなので、賢木は背を撫でる。 「わたしも橘様が夢見ているような、命をかけ、燃え上がるような恋がしてみたいわ……」  歌空が俯き、小さく呟く。陰った目元には諦めが漂っている。 「詩空、それは……」  愛仁が話しかけようとすると、詩空は冷たいほうじ茶を一気に飲み、立ち上がった。 「お母様が呼びに来たわ、もう行くわね。ありがとうございました、お兄様、橘様。もしかして次にご招待するときはわたしの婚姻の儀かもしれませんよ〜」  詩空は可愛らしく笑っている。だが最初に見せてくれた笑顔とは違い、どこかぎこちない。  言葉や態度は悪戯っぽいが、先ほど、詩空の母親が言っていた安巻門院の次男と本気で縁談をまとめてくるつもりなのだ、と賢木は直感した。  詩空は賢木たちに背を向け、母親と侍女たちに連れられていく。しばらくすると、奥の部屋へと行ってしまった。  詩空や詩空の母たちが完全に見えなくなってしまった後、愛仁は不機嫌そうにあぐらをかき、頬杖をついた。 「気にしすぎなんだ、詩空の母親は。斎宮なんて復活するわけがない。なのに焦って、こんな、見栄を張った宴なんて開いて……、詩空の体調も万全ではないのに……」 「私は、歌空内親王様のお母様には、よく思われていませんでしたね」  賢木が表情を固くすると、愛仁は面白くなさそうな声で応える。 「頼まれていたんだ、俺の側近たちを連れて来いって。あの母親がやりたいことは大体わかるだろう?」  皇太子の側近や交友関係のある者と言われると、やはり摂関家や上級貴族などが思い浮かぶ。それらの人々を愛仁に連れてきてもらい、宴に箔を付けたかったのだろう。  だが愛仁が実際に連れてきたのは下級貴族の賢木だ。たいして権力も、野心もない、詩空の母からすれば何の旨味もない人物だ。  「まああんまり責めることもできないよ、一応何人かは紹介して、実際に来て貰っている。あの人はあの人で、自分の娘を守ろうとしているんだけだからな」 「そうなんですね……」  やはり皇族は複雑だと感じる。あんなに天真爛漫で自由な気風の詩空でさえ、母親には逆らわないでいて、時折、年不相応な諦めと物分かりの良さを見せる。  賢木は桜の方を見た。曙山の裾野から運んできたという狂い咲きの桜は真夏を思わせる陽光に照らされ、花びらを煌めかせ、舞わせている。  視線をずらし、詩空やその背景事情を憂いたような表情をしている愛仁の横顔を、賢木はじっと見つめながら、口を開けた。 「愛仁様は……、いらっしゃらないのですか、許嫁とか、龍帝陛下に決められた相手とか」 「……今はいない。三十になっても相手がいなければ、無理矢理相手を決めると言われてはいるが……」  狂い咲きの桜を見ていた愛仁が賢木へと視線を移す。二人は目線を合わせ、しばらく互いを見つめていた。 「……後、五年だ。俺の自由は。三十になれば決められた相手を妃とし、龍帝としてこの国に君臨せねばならない。それが定めだ」  合わせられた視線に迷いはなく、しっかりと賢木を見据えている。内心、賢木は驚いた。不自由な生活や決められた恋愛は嫌だ、と口に出して言うかと思っていたからだ。 (皇太子として、次期龍帝としての覚悟がお有りなのですね……)  龍帝として、この国を統治する彼を側で見守ってみたい、と漠然と強く思った。けれど、自分はその時、愛仁の側にいることはできないだろう。  何か、愛仁に対する思いが変化していくのが自分の中でわかる。しかしそれを認めてしまえば、これまでの苦労が水の泡になり、必死で賢木を守ろうとしてきた養父母や安房野を裏切ってしまうことになるのではないだろうか、と怖くなる。  自然と身体に力が入った。親指をまた拳の中に握り込んでしまう。  また風が吹き、花びらが吹き込んでくる。その風と共に愛仁から甘い香りが漂ってきて、賢木は頬が熱くなるのを感じた。  話を変えようと、賢木は愛仁に笑いかける。 「いつも甘い香を衣服に焚いていらっしゃるんですね、最初はきついなあ、と思っていたんですが、最近ではこの香りを嗅ぐと、なぜか優しい気持ちになるんです」 「ん? 俺は服に香なんて焚いてないぞ」 「そうなんですか? なら何の香りなんでしょうね」  彼自身の香り、体臭を賢木は心地よく思ってしまっているのだろうか。 (そんなの……、絶対、だめ、じゃないですか……)  ふと、賢木は泣きそうになった。何だか悔しい気持ちも出てきた。何だろう、気持ちの高ぶりと共に、身体も熱くなってくる。発情期はまだ先だが、その前触れのような熱さだ。 「おい、賢木……」 「……はい」  声をかけられるが、うまく返事ができない。掠れた声が出そうで、小さく声を出す。賢木が俯き、風にそよぐ桜の花びらを一つ手に取り、指先で弄んでいる時だった。  愛仁が立ち上がった 「何だか具合が悪そうだ、もう帰ろうか」 「え?」  賢木の返事を待たず、ぐい、腕を持たれ、無理矢理立たされる。すると、ふらり、と足が縺れてしまい、愛仁に寄りかかってしまうが、しっかりと抱き止めてくれた。  また甘い香りに包まれる。今度はしっかりと嗅いでしまい、賢木の身体の熱が上がる。  何だろう、体調がおかしいのは間違いない。 「帰ろう、今すぐに。送ってやる」 「あ、ちょっと……、ぇ、あぁ」  混乱で、愛仁を見上げた時、突然、激しい頭痛が走った。賢木は倒れ込んでしまいそうになる。 (な、何ですか、これ……、頭……、角が割れるように痛い……)  発情期かと思ったが、いつもの発情期にこんな症状はない。  不安になった賢木は、思わず龍角の根本当たりを手で押さえると、それだけで激痛がまた走った。 「ち、愛仁様……、頭が、痛くて……」  激痛のせいで、自然と涙が出てくる。視界が掠れ、思わず賢木は愛仁に向けて、手を伸ばしてしまった。 「賢木、大丈夫だ。俺がいる」  賢木が頼りなく、縋るように差し出した手が大きく、暖かい手に掴まれる。  自分の身体に何が起きたのかもわからないのに、痛みのせいで、意識が朦朧としてきて、余計に混乱を来した。  何が起こっているのかわからなくて怖い。だが、愛仁に助けを求めてしまいそうな気持ちをぎりぎりで押しとどめている。  そんなことをすれば、取り返しのつかないことになる気がしたからだ。  固まってしまった賢木の耳元に愛仁から優しい言葉が吹き込まれた。 「大丈夫だ、俺が守ってやるから」  その言葉を合図に身体に力が抜けていく。 (あぁ、愛仁様に守って頂けるのか……)  少しだけ龍角の痛みが引いたような気がした。それに安心してしまい、賢木は目を閉じてしまった。そして、そのまますうっと意識が遠くなった。

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