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第1話
王宮の敷地の、外れにある古い温室に近づく者は少ない。
だから、嗅いだことのない人間の香りがした時、メアリルはおや、と少し立ち止まり、頭の上の白狼耳をそば立て、すう、と香りを探った。
白狼の一族であるメアリルは普通の人間よりも嗅覚が鋭い。そして匂いや香りによって、人の感情を読み取ることができた。
温室の中には少年がいた。黒い髪は短く切られており、シワ一つ無い、糊の効いたワイシャツを着ている。体格はメアリルと同じぐらいだろう。
その佇んでいる少年が悲しみの香りを纏っていることにメアリルは聡く気がついた。
「もし、泣いておられるのですか?」
ガラス張りの温室の中は冬でも蒸し暑い。メアリルは入り口付近に立ち、後ろ姿の少年に声をかける。
悲しみ、泣いている人を放ってはおけない。
そうっと声をかけたつもりだが、メアリルのことに気が付かなかった少年はびくん、と背をしならせ、慌てて袖で目元を拭っている。
「泣いてなどいない」
端的な言葉を使い、少年が振り返る。目は髪と同じ黒色だ。強がっているのか、眉間に皺を寄せ、少し声が強張っていた。
「何か悲しいことがあったのではないですか。白狼の鼻は誤魔化せませんよ」
少年の目にはまた涙が溜まってきた。くそ、と言って、目元をごしごし拭いている。
強がるように、ふん、と鼻を鳴らし、少年はメアリルへと視線を向けた。
「貴様、白狼の一族の生き残りか」
尊大な態度だと思い、少しむっとしたが、彼の服装を見て、納得する。歳のころは十一歳のメアリルと同じくらいだが、身につけているものはどれも上品なものだ。きっと王族や貴族の子なのだろう。
「いかにも。神官見習いのメアリルと申します」
少年に比べ、メアリルの服はみすぼらしい。温室で植物の世話や花壇で土いじりをしようと思っていたから、汚れても良いようにわざと古い服を着てきたのだ。
少年が怪訝そうな視線をメアリルに向ける。
「大神殿では見習いとはいえ、神官にそんな古臭い服を着せなければいけないほど、困窮しているのか?」
「違いますよ、私はここで植物の世話をしているんです。だから、汚れてもいいよう、古い服に着替えてきたんですよ」
ポケットから小さな剪定鋏を取り出し、少年に見せた。
「そうか。だったら……、これはお前が育てたのか?」
少年は目の前に咲いている黄色のダリアへと視線を移す。
ダリアは基本的に秋頃に咲く花だ。だが今は冬で、本来であれば蕾すらつけない。
だが温室の中のダリアは黄色だけでなく、白、青、赤などが咲き乱れている。
「ええ、そうですよ。温室では色々と実験をしているんです。開花時期を調整したり、栽培の難しい花を育ててみたり。ダリアは温室の中の温度を秋頃に調整したら冬でも花を咲かせたんですよ」
メアリルは花が好きだ。小さい頃、親代わりの大神官に花をプレゼントした時、喜んでくれて、それ以来、花が大好きになった。いつしか綺麗な花を自分でも育て、今度は大神官だけでなく、人々を喜ばせたい、と思い、外れにある温室や花壇の小さな一角を借りて、植物を栽培するようになったのだ。
メアリルが得意げに語ると、少年はまたどこか遠い目をして、ダリアを見渡す。
「兄上の病室に同じものが飾ってあったんだ。ダリアの季節じゃないのにどうして、と思っていたが、お前が咲かせたものだったのだな……」
メアリル自身、誰かの病室に黄色のダリアを持っていったことはないし、誰かにダリアを切り取られた様子もなかった。
記憶を辿っていくと、思い当たる節がある。
「ああ、黒髪の若い女性に渡したことがあります。とても悲しそうな顔をして、諦めの香りをまとっていました。だから放っておけなくて、この花を一つ差し上げたのです」
「なるほど……」
少年は黄色のダリアに手を伸ばし、愛おしそうに撫でた。
「良ければ差し上げますよ。もうあの時のダリアは枯れている頃でしょう?」
そう言って、メアリルはポケットの剪定鋏を取ろうとする。しかしそれを少年は制した。
「いや、良いんだ、もう。兄上は亡くなったから」
腕を掴まれてしまう。案外、強い力だと思ったが、すぐに力が抜け、少年の声が震え出す。
「病死だ、もう手の施しようがなかったんだ……」
悲しみ、後悔、少しの怒りが混ざった香りが漂ってくる。
メアリルには、大切な人を亡くした記憶はない。
白狼の一族はまだ赤ん坊だったメアリルを残して、全員病死をしてしまった。だから他の白狼一族の記憶はメアリルの中には皆無だ。 知らないものを寂しがることはできない。
それにみんなと容姿が違っても、王都の神官たちは平等に接してくれる。だから、寂しい思いをしたこともあまりない。
けれども、誰かが悲しい思いをしていることには人一倍敏感だった。
メアリルは黄色のダリアへと手を伸ばす。そして性急に、しかし丁寧に花を摘んだ。
「綺麗でしょう? 癒されませんか?」
笑顔でダリアを手渡す。少年は目を開き、困惑したような表情になった。
「綺麗だが、大切に育てたものではないのか……?」
「良いんです、差し上げます。枯れてしまったらまた来て下さい。貴方の元気が出るような花を見繕っておきます」
それでも受け取ろうとしない少年の胸ポケットに、メアリルは黄色のダリアを無理やり差した。
「今の、私の役目は悲しんでいる貴方を慰めてあげること、この花の役目は悲しんでいる貴方の心を少しでも安らげることです」
メアリルは常日頃、大神官に言われていることを思い出す。
「人にはそれぞれ役目があって、それを果たすため、生まれてきたんです。貴方はきっと位の高い貴族か、王族でしょう? でしたら、何か役目があるはずです。亡くなったお兄様の役目も貴方が果たさなければならないかもしれませんね」
少年はハッとした顔になった。親指が僅かにぴくりと動く。しかしぐっと目を瞑り、下をむいてしまった。
もしかして慰めるのに失敗してしまったのだろうか。
(しまったなあ……、どうすれば)
そうだ、とメアリルは、少年の手を優しく取った。そして自分の頭の上の方へと持っていく。
「な、なんだ?」
今度は少年に不審そうな目を向けられてしまった。恥ずかしいが、これしか思いつかない。
メアリルはふわふわの白狼耳に少年の手を触れさせた。
「みんな、癒されるって言ってくれるんです。どうですか? ふわふわしていて、気持ち良くないですか?」
少年は驚いた顔をしながらも、メアリルの耳に触れている。最初はこわごわと、慣れてくると、細くて白い髪もかき混ぜながら、メアリルの白狼耳や頭を撫でた。
少年は優しい触れ方をする。とても繊細で、気持ちがいい。
「ありがとう、ありがとう……」
また泣きそうな声を出す。しかし今度は 嬉しいという香りや感謝の香りが鼻腔をくすぐる。
その爽やかで、落ち着く香りにメアリルもつられて笑顔が溢れる。
「元気になってよかった……」
白い尾を自然と、ぱたぱたと忙しなく振ってしまう。嬉しくなると、つい出てしまう癖だった。
力強く、暖かく大きな手は心地よい。メアリルは彼にずっと触れていてほしい、と感じた。
医師の健診は少し苦手だ。身体のあちこちに触れられたり、注射で血を抜かれたりする。それに医師からは消毒液の濃い臭いがして、それも鼻につくとなかなか取れない。
「問題ありませんね、発情の兆候もまだです」
「そうですか、メアリル、もう服を着替えても良いですよ」
はい、とメアリルは返事をすると、急いで仕切られた小さなスペースへと入った。そして、検査着から普段着へと着替え始める。
今日は三ヶ月に一度の身体検査の日だった。白狼一族であり、オメガであるメアリルは然るべき相手と子を為し、白狼の血を絶やさないことが期待されている。
だからこうやって体調に異変はないのか、発情期が来る気配はないのか、ということを細かく調べられているのだ。
ここ、エスターライヒ王国では男女の性のほかにバース性というものが発見されている。それがアルファ、ベータ、オメガの三性だ。
アルファは支配階級の性だ。王族や権力者に多く、一般的に様々な能力が高い。人口の三割ほどを占めている。また男性アルファは全ての性の男女を孕ませることができる。
一番数が多いのはベータだ。人口の七割ほどを占め、穏やかで協調性のある人が多い。国を導くのがアルファだとしたら、国を支えるのはベータだと言っても良いだろう。
次に最も数が少なく、人口の一割にも満たないのがオメガだ。男女ともに発情期を迎えると子を孕むことができる。その発情期と言うものは三ヶ月に一度、三日から一週間ほどあり、身体からフェロモンを出し、アルファを求めて性的に身体が昂ってしまうのだ。
フェロモンはアルファであれば誰彼構わず、性的に興奮させてしまうため、厄介なものでもある。しかし特定のアルファと『番』となれば、そのオメガのフェロモンは特定のアルファにしか効かなくなる。そしてその関係は一生続くのだ。
ため息をつき、下着を履き替える。
今まで健診を受けて、発情期の話をされても特に何とも思わなかったのだが、最近は少し憂鬱だった。
(発情期なんか、来なければいいのに……)
『然るべき相手』とは、王族や上級貴族のことだろう。メアリルに相手の選択権はない。
そして発情期が来てしまえば、初めて会う相手と結婚をして、番となり、子を為さなければならないのだ。
今まではそれで良かった。白狼一族の最後の生き残りで、この国の建国神話にも出てくる聖狼アスティツァーリアと全く同じ容姿のメアリルの役目は、『白狼一族の血を絶やさないこと』だからだ。
エスターライヒ王国の初代国王は苛烈な人物で、近隣諸国へ戦争を仕掛け、国は疲弊していった。そこへ現れたのが、白狼の一族の始祖であるアスティツァーリアだという。彼は初代国王の寂しさ、悲しさを慰め、やがて戦争をやめさせ、寒く、冬の厳しい北国に平和と美しい花をもたらした。
五百年前の伝説だ。しかし今日まで語り継がれており、今でも王都では建国神話として信仰されている。
脳裏に温室で泣いていた少年の姿がちらついた。
あれから彼は、週に二日は温室にやってきてメアリルの作業を手伝ってくれている。だが、不思議なことに名前を教えてくれない。
名乗ることができない理由があるのかもしれない。もしくはメアリルには名前を教えたくない、とか。
(あの子が相手だったら良いなあ……)
そうすれば二人で、温室の管理もできる。真面目な彼になら、安心して任せることができるだろう。例え子供ができても。
(名前も教えてくれないのに?)
それを思うと、やっぱり悲しかった。
靴を履くと、仕切りの外に出る。大神官がメアリルを待っていた。
「お待たせしました、大神官様」
「いいえ、お医者様のお話では、発情期はまだ来ることはないだろう、とのことです。けれども油断はなりませんよ。人前で突然発情してしまえば、混乱を招いてしまいますから。何か体調に変化があればきちんと報告をすること」
大神官は優しい目をメアリルに向けた。
白狼一族のオメガが初めて発情期を迎えるのは、通常と比べて遅いとされていた。
メアリルのことを一任されている大神官は早くメアリルに発情期が来て、白狼一族の血を引く子を産んで欲しいのかもしれない。
「わかりました、もう温室へ行っても良いですか?」
今日は少年が来る日だ。定期健診のことは少年へ事前に伝えてある。
「いってらっしゃいメアリル」
「はあい、それじゃあ行ってきます!」
少年のことや、発情期のことなど、複雑な思いを抱えながら、メアリルは温室の方へと駆け出した。
「身体は何ともなかったのか?」
少年はじょうろで花壇に水やりをしていた。
そこはネモフィラの種を蒔いたところであった。
「お待たせしました、またそんな綺麗な服を着て……」
「俺が用意してるんじゃないから、仕方ないじゃないか」
そう言って少年はじょうろを地面に置く。そして汚れた手でシャツの袖をめくろうとした。
「待ってください、私がしますから」
メアリルは慌てて駆け寄り、少年の袖を捲った。
「シワになってしまうかも……」
「気にするな、どうせ汚れるんだから」
長袖を捲ると、日焼けし、がっちりした腕が出てくる。同じ歳のころなのに、日には全く灼けず、細いメアリルの腕とは大違いだ。
(やっぱり、剣の練習とかしてるのかな?)
軍服を着て、剣を携えている彼の姿を思い浮かべると、顔が熱くなる。
何だかドキドキしてきて、最後の方は雑になってしまった。
「ありがとう、これで作業がしやすくなった」
ニッカリと笑うと、白い歯が目立つ。彼からはいつも生命力の溢れた香りがした。きっとこれが彼自身が持つ命の香りなのだろう。
爽やかで、それでいて逞しい。もっと近くで嗅いでみたい。ずっとこの香りに包まれていたい、メアリルにもこの香りをつけてほしい。
不埒な方向へ考えがいきそうになり、メアリルはまた顔を熱くした。
知らず知らず胸が高鳴ってきた。血流が上がり、白い頬に朱が差す。
「どうしたんだ? 顔が真っ赤だぞ」
かがまれ、顔を覗き込まれた。距離が近い。メアリルは急いでぷい、と横を向いた。変に緊張していることや、不埒なことを考えていることがバレてしまいそうで、恥ずかしい。
「体調が悪いのか? 医者には伝えたのか?」
「そういうんじゃありませんから! 大丈夫です! 水やりの続きをお願いします、私は温室の方へと行ってきますから」
メアリルは温室の奥へと急いで入っていく。どうにも落ち着かない、集中ができなくなる。
スコップを手に持ち、メアリルは奥へと進む。
温室の奥には『朱天蘭』と呼ばれる蘭の一種が植えられていた。
この花は栽培が難しく、長らく蕾すらつけていなかったのだが、メアリルが温室の管理をし、世話をし始めるとみるみる成長した。
三十年ほど前に一度、花を咲かせたらしい。見事な赤い花で、人々はその甘い香りに酔いしれ、見る人の心を高揚させたのだという。記録が残っているのはそこまでだ。謎の多い植物だった。
蕾の具合を確かめる。かなり大きくなっていて、いつ咲いてもおかしくはないのだが、咲く気配がないのだ。
「もう咲きそうだな」
水やりを終えた少年がメアリルの横に立つ。
二人の目の前には朱天蘭の蕾が重そうに垂れ下がっている。
「でもね、咲かないんですよ」
横でメアリルは首を捻る。光に当てる時間、水やりの量、肥料の組み合わせなどなど、変えたのだが、なかなかうまくいかない。
本当は大神殿の図書館で、朱天蘭について調べたい。だが、大神殿の図書館は成人していなければ入れないため、まだ成人にもなっていないメアリルは使えないのだ。
ううん、とメアリルが唸っていると、少年が驚くべきことを口に出した。
「お前のために調べてきたぞ。大神殿の図書館にはたくさん蔵書があるからな」
「えっ! 成人していないのに貴方は入れるのですか!」
「本来なら俺もダメなんだが、お前のために頑張ったんだ。大神官に『どうしても必要なことを調べたいんだ』と頭まで下げた。特別だぞ」
お前のために、という言葉が強調され、熱心な口ぶりで語られてしまった。
メアリルはそこまでしてくれた少年に再び、知らず知らずのうちに胸を高鳴らせる。
「ありがとうございます、良いなあ……」
どうして少年は大神殿の図書館を使うことができるのだろう。とても羨ましい。
「今度、俺と行こう。そうすればメアリルも入ることができる。二人だけの秘密だぞ」
『二人だけの秘密』という言葉に、ぴくん、と白狼耳が反応した。
思わず尾が嬉しさで動きそうになり、腰に力を入れて、抑えた。
植物や花の世話が好きで、それをするため、ここに来ていたのに、最近は少年に早く会いたいという気持ちの方が強い。
きっと少年が白狼並みに鼻がよかったら、メアリルの香りに気がついてしまうだろう。嬉しくて、しょうがない香りに。
「実は調べた文献の中に朱天蘭が咲く条件が書いてあったんだ」
告げられた言葉に、一気に関心を引き寄せられる。我慢できず、少し尾が揺れてしまった。
「本当ですか! なんと書いてあったのですか!」
先ほどとはまだ違う胸の高鳴りだ。メアリルは少年に迫る。
「おっと、近いな……」
つんのめるように近づいたメアリルに対し、少年は半歩後ろへ下がる。耳の先が赤くなっており、微かに甘い香りがした。
「あ、すみません、つい……、興奮しちゃって」
一歩後ずさった。はしたない真似をしてしまった、と思い、今度は羞恥で顔を赤らめた。
「朱天蘭は今夜咲く」
躊躇いもなく、しっかりと告げられた言葉にメアリルは揺れていた尾をピンと立てた。
「どうして、わかるんですか……?」
「今日は『赤月夜』だろう。何年かに一度の」
「ええ、それは知っていますが」
赤月夜とは真夜中の月が赤く輝く現象だ。おおむね十年周期と言われているが、なぜそのような現象が起こるのかもわかっていない謎の現象である。
エスターライヒ王国では吉兆の証として、扱われる。赤色はアスティツァーリアと同じ目の色だからだ。それに初代国王とアスティツァーリアが出会った日も赤月夜だと伝説では謳われていた。
しかしそれと、朱天蘭とどう関係があるのだろう。
「朱天蘭は、赤月夜の間にしか咲かない」
そんなこと、あり得るんですか、と聞こうとして、メアリルは口を噤んだ。少年の真摯で、真面目な強い視線と目がぶつかってしまったからだ。
「一緒に朱天蘭が咲くところを見よう。……その時に大事な話があるんだ」
手を握られた。そして、強く握り締められた。彼の手は熱くて、ぬるついていて、酷く汗をかいていることがわかった。
(何か……、すごく緊張してるんだ……)
彼の、引けないような覚悟めいたものを感じて、メアリルは何も言葉が出てこなくなる。
つられて緊張してしまい、喉が一気にカラカラになった。
「ま、真夜中で良いですか? あまり早い時間だとまだ起きている方もいらっしゃいますし……、消灯後に部屋を抜け出しているのがバレると、怒られちゃいますから……」
「わかった、きっかり真夜中、ここに集合だ」
花を見ながらする大事な話ってなんなんだろう。もしかして名前をやっと教えてくれるのだろうか。
緊張でドキドキしている。身体の奥底が熱くなり、漏れる吐息も湿っぽい。
行きますよ、と言えず、言葉を重ねてしまい、メアリルは恥ずかしくなった。
二人で見つめあっていると、今度は少年の顔が真っ赤になった。急いで手が離され、背を向けられる。
「そうだ、義姉上からお菓子を頂いたんだ」
「義姉上?」
背を向けた少年の耳まで赤い。照れてしまったのかもしれない。しかし、それよりも少年の口から他の誰かが出てくるのは初めてで、そちらの方に興味がそそられてしまう。
「亡くなった兄上の奥方様だ。俺が最近、お前と花の世話をしていると話したら、その作業の合間に食べられるように、と言ってマフィンを焼いてくださったんだ」
少年は日陰に置いてあった紙袋を手に取る。
「お優しいお方ですね」
「ああ、手を洗って食べよう」
温室を出て、手を洗い、木陰の段差のところに二人で腰を下ろす。
「俺がチョコレート味で、お前はこっちの味らしい」
少年のマフィンにはチョコレートの粒が練り込んであるもので、メアリルに渡されたものからは蜂蜜の香りがした。
どちらも美味しそうだ。どちらか一方だけ、というのは勿体無い気がする。
少年も蜂蜜の香りのする方のマフィンを見つめていて、食べたそうな雰囲気を感じる。
「半分こしましょう、私もチョコレート味のマフィンを食べてみたいです」
良いのか、とメアリルの表情を伺うように少年が尋ねてくる。
「美味しいマフィンを二種類も食べることができてお得です」
メアリルがマフィンを半分に割ると、少年もその真似をする。それぞれ半分に割った互いのものを交換した。
「ん! 美味しいですね!」
メアリルはまず蜂蜜味を食べた。ふわふわの生地に練り込まれた優しい蜂蜜の香りが鼻を突き抜けていく。
「本当だ、蜂蜜は美味いな」
少年も同じように蜂蜜味から食べていた。
(なんか、お菓子の香りとは違うものが混ざっている気がするけれど……)
しかし美味しいものは美味しい。メアリルはお菓子作りなんかしたことがないから、何か知らないスパイスでも入っているのかもしれない、と思い、気に留めなかった。それに少年も美味い、美味い、と言って食べている。
二口で蜂蜜味を食べ終わってしまったメアリルは次にチョコレート味のマフィンに目を向ける。
口に入れると、硬いチョコレートの食感と、ふわふわの生地の違いが面白い。
(チョコの方には変わった香りは混ざっていないなあ……)
メアリルは少し不思議に思ったが、あまり気にせず、マフィンを平らげた。
夜になり、メアリルの体調は悪くなっていった。
何だか身体が怠く、熱っぽい。
今日は赤月夜ということで、大人たちは儀式を終えた後、夜まで食事をしたり、酒を飲んだりしている。成人していないメアリルは白狼一族といえども、その催し物には参加できない。これは大神官の命令だった。
けれども流石に真夜中ともなれば、皆部屋に戻り、就寝していた。
(風邪でも引いたのかな)
医師から聞いた発情期の症状とよく似ているが、医師はまだ来ないと言っていた。だからきっと違うだろう。
風邪だろうとメアリルは予想をつけた。本来なら薬を飲み、身体を休めなければならない。
しかし十年に一度、朱天蘭が咲く日に加えて、少年の真面目で強い視線を思い出すと、約束を反故にすることは考えられなかった。
引き出しから風邪薬を取り出し、水に混ぜ、一気に飲み干す。
温室に着く頃にはきっと効いているだろう。熱も下り、大切な話もきちんと聞くことができるに違いない。
(やっと名前、わかるかな……?)
そう思うと嬉しさで胸が昂ってしまう。
メアリルはそっと部屋を抜け出し、温室の方へと歩く。
「熱い、寒い……」
風が吹かないと熱いのに、風が吹くと寒い。
それに夜に出歩いていることが大人たちにバレたら、怒られてしまう。だからなるべく見つからないように道を選んで歩く。
温室が見える頃には一段と体温が上がっていた。
(彼が待ってくれている……、行かなきゃ)
しかし、次第に立っていられなくなり、メアリルはその場にへたり込んだ。
地面に腕をつき、先を見据える。温室は目と鼻の先にある。見上げると、赤い満月がメアリルを照らしていた。
深呼吸を繰り返していると、自分から嗅いだことのない香りがして、メアリルは困惑した。
「風邪薬、こんな匂い、するの?」
腹の底が疼いている。後孔が濡れている感じもある。そこでメアリルは、自分の状況にようやく気がついた。
「まさか、発情期……!」
まだ当分は来ないと言っていた。だから発情抑制剤も、何も持っていないし、普通の風邪の症状だと思っていたから、風邪薬を飲んでしまった。
人前で突然、発情期になることははしたないとされている。
それに少年はアルファだ。はっきりと教えてもらったわけではないけれど、オメガのメアリルにはわかる。このままだと、メアリルの発情期の影響を受けてしまうだろう。
「まずい、どこかに隠れてやり過ごそう……」
時間になったら、少年は来てしまう。
約束を反故にした、と言われ、怒られてしまうかもしれないが、事情を説明すればわかってくれるに違いない。
(いや……、説明できるのかな)
発情期を迎えれば、子を産むことができる。つまりアルファとの接触を制限され、少年にも会えなくなってしまうかもしれない。
「そんなの嫌だ!」
思わず大きな声を出してしまった。なぜだか次々と涙が溢れてきて、メアリルは上着の袖で目元を拭った。
発情期のせいなのか、彼に会うことが出来ないかもしれないという悲しさのせいなのか、よくわからない。感情のコントロールができず、敷かれた芝を強く掴み、嗚咽した。
彼に会えなくなるかもしれない、と思うと、嫌だ、嫌だ、という気持ちが渦巻いてきて、メアリルは困惑した。
(これ、彼が好きなのか……?)
そう思うと、自分の心境に納得ができる。
彼に出会ってしまったから、『そういうものだ』と受け入れていた結婚や子作り、発情期のことに違和感を覚えていたのだ。
(会いたい、けれどこんな状態では無理だ)
メアリルのフェロモンを浴びた少年は、きっと劣情に支配されてしまうだろう。
そんな中で結ばれても、何も嬉しくない。
しかし、もうすぐ少年が来てしまう。
メアリルの視界に、温室の真横に併設されている古い農機具小屋が入った。
(あそこに隠れるしか……!)
メアリルはなけなしの力を振り絞り、農機具小屋へと走り寄る。ドアを開け、中に身を隠そうとした時、腕を掴まれた。
「待て、どこへ行くつもりだ」
「あっ」
後ろを振り向くと、少年がメアリルの腕を掴み、立っていた。
「は、離して……!」
「離さない」
強く告げると、少年も一緒に小屋の中へと入ってくる。
「ダメです、私、発情期で……、今日初めて来て、来るなんて知らなくて……、あっ」
小屋の中は色々な道具が無造作に置かれていて危ない。
出会ってしまった。かなりまずい状況だ。
メアリルは言い訳を並べ立てるが、少年は聞いていない。ふうふう、と息を荒くしている。
「俺も何だかおかしいんだ……、お前のことを考えると、身体が熱くて……、けど今夜じゃないと……、十年後になる……」
少年の具合もあまり良くなさそうだ。メアリルと同じように発熱しているように思えた。
小屋の中はむせかえるほど、メアリルのフェロモンが溜まっている。それをもろに浴びた少年は誘発されて、興奮しているのだろう。
(どうしよう、どうしよう!)
逃げようとすれば、強い力で引き戻される。
抵抗すると、腕を掴まれて、土っぽい床に組み敷かれてしまった。腰の辺りに乗られてしまい、抵抗もままならない。
見上げたすぐ側には少年の顔があった。少しでも動けば、唇と唇が触れてしまいそうだ。
「い、いけません……!」
「好きだ、メアリル」
突然なされた告白に一瞬、身体の力が抜ける。
「お前を俺の妃にしたい」
興奮気味だが、声色はしっかりしている。
だが、少年からは汗の匂いや興奮したアルファの香りが放出されていた。
(妃って何……? どういうこと……?)
きっとフェロモンに酔った少年が口走った戯言だろう。
いくら少年が実直な性格をしていても、アルファである限り、オメガのフェロモンには逆らえない。
これはただの劣情だ。少年はメアリルの発情期に催され、目の前のオメガを自分のものにするために、熱に浮かされたようなセリフを言っているだけなのだ。
メアリルも彼のことが好きだ。けれどもこんな結ばれ方は望んでいない。
もっと穏やかに、発情期ではなく、きちんとお互いの気持ちを確かめ合い、心を交わした後に、いずれは身体を結びたい。
こんな性急に、身体だけを求められるのは嫌だ。
「ダメ、今は発情期に惑わされているだけで……、もっと、ゆっくり……、お互いの気持ちを確かめ合って、から……、んんっ」
「お前は、俺が嫌いか?」
白狼耳を噛まれながら、吐息と共に吹き込まれる。
興奮していて、加減ができないのか時折強く噛まれ、痛みを感じる。
「好き、好きです……! けれどこういうのは、嫌だっ!」
メアリルが思いきり少年を突き飛ばした時だった。
「ラインハルト殿下!」
突然、女性の声がして、こちらに駆け寄ってくる。
黒髪の若い女性だ。顔立ちに見覚えがある。メアリルが黄色のダリアを差し上げると、泣き笑いながら喜んでいた女性だった。
女性は少年の様子を見ると、メアリルを睨みつける。
「貴方、王太子殿下に何をしたの!」
「違う! エレノア様、俺が悪いんだ! 俺がメアリルに無理やり迫ったから……」
黒髪の女性が少年をメアリルから引き剥がした。そしてメアリルに怒りのこもった視線を向けた。
「この小汚い犬! 発情期で王太子殿下を誘惑したのね!」
何事か喚いているが、女性の言葉はメアリルの頭の中にはあまり入ってこない。
(彼は、王太子、殿下……? あの、ラインハルト様……? エレノア様は……、先の王太子妃、様……?)
情報量が多く頭が回らない。
メアリルはショックを受け、言葉が出てこなかった。自分の白い尾を掴み、身体を震わせている。大きく開いた赤い目からは涙が止まらない。
「誰か、衛兵を! 王太子殿下が淫らな白犬に誘惑されたわ! 突き飛ばされたの!」
後日、メアリルはエレノアの証言で、『発情期で王太子を惑わした』とされてしまう。
白狼の一族であることと、大神官の口添えにより、極刑は免れたものの、遠方の寺院へと追放されることが決定された。それ以来ラインハルトと会うことは出来なかった。
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